ぬえの能楽通信blog

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絢爛豪華な脇能『嵐山』(その10)

2008-08-11 23:53:08 | 能楽
さて「下リ端」の囃子に乗って登場する子方ですが、子守・勝手の明神二人が登場します。前シテと前ツレがそれぞれ子守・勝手の神の化身ですから、同じ役柄が前場ではシテとツレ、後場ではツレが演じるということになります。この二神はツレが勤めることもありますが、子方でもよいことになっています。今回の『狩野川薪能』では我らが綸子ちゃんとチビぬえが勤めるわけですが、このように子方が勤める場合は、前シテ・ツレの尉と姥が「我々の本当の姿をお見せしよう」と言って中入しておいて、本当の姿は子どもだったという。。(^◇^;)

ま、そうは言ってもこの場合の子方は、型の都合によって(後述)子方が勤めるわけで、決してこの二神が子どもだ、というわけではありません。同様に前シテとツレも本当に老人夫婦であるわけではなく、脇能の前シテがほとんど尉であるように、これは霊力と威厳を持った神の力の象徴と考える方が正しいでしょう。総じて日本を含む東洋の考え方では「老い」を尊びますね。つまりは経験による人間性?の重みを尊ぶのでしょう。老神の面である悪尉の面は若い神の面である「神体」などよりもずっと仰々しい、というか強い表情をしていますが、これも身体的な衰えよりも、経験によって蓄積された内在する「パワー」を表現しているのでしょう。

ともあれ子守・勝手の装束は以下の通りです。

勝手明神 面=小面(子方の場合は直面)、黒垂、天冠、襟=赤、着付=摺箔、白大口または色大口、縫入腰帯、長絹、桜持枝、天女扇。
子守明神 面=邯鄲男(子方の場合は直面)、黒垂、赤地金襴鉢巻、風折烏帽子、襟=萌黄、着付=紅入厚板、白大口、単狩衣、縫紋腰帯、桜持枝、神扇

勝手明神は女神の姿、子守明神は男神の姿です。ところがこの性別の違いはシテ方の流儀によって一定していないようですね。すなわち観世と同じく勝手を女神、子守を男神とするのは喜多流で、宝生・金春・金剛流ではこれとは逆で勝手が男神、子守が女神なのです。

さて来序で前シテが中入し、狂言が立ちシャベリをする場合の常として、ワキの待謡はなく、囃子方が見合わせてツレ(または子方)の登場囃子「下リ端」を演奏することは前述しましたが、「下リ端」という囃子は、登場音楽としては珍しく。。というか能ではこれだけだと思いますが、「囃子本位」の登場音楽です。「囃子本位」とはどういう事かというと、登場する役者の演技。。この場合登場する、という動作そのものが、役者の演技中心ではなく囃子の寸法に合わせなければならない、ということなのです。

ちょっとわかりづらいかも知れませんが、登場囃子というものは「下リ端」を除いてすべて登場する役の動作が基準になっている、というのは、役者の歩速や橋掛りの長短によって、幕から出た役者が舞台または橋掛りの所定の位置に達して止まったところで終了する、という意味なのです。

すべからく登場囃子には「プロローグ」と言いますか、役者はまだ幕を上げて姿を見せずに囃子の演奏だけが行われる小段のようなものが、大なり小なりありまして、それから所定の囃子のキッカケを聞いて役者は幕を上げます。この登場の場面が やはり小段としてプロローグの段とはしっかり区別されている場合は俗に「出の段」などと通称しますが、この出の段だけはほとんどの登場囃子では演奏の長さが決まっておらず、見計らいによって終わりの手を打ち、いよいよ役者が謡い出す、というような流れになっています。この見計らいの基準になるのが、当たり前ですが、登場した役者が所定の位置に止まったところ、となっているわけです。

ところが「下リ端」だけは例外で、これは囃子が打ち、また吹く内容がすべて決められているのです。すなわち「出の段」の中で登場するキッカケの囃子の手があり、さてそこで役者が幕を上げて登場すると、囃子の所定の寸法いっぱいに、役者は自分の所定の位置に到着していなければなりません。歩速が速すぎても遅すぎてもならないことになります。これはツレはともかく子方にとっては至難です。まあ、歩速が速ければ、所定の位置で到着して、あとは囃子が手組を打ち終えるのを立ったまま待ち続ければいいのですが(これとてもあまり誉められたものでもありませんが。。)、歩みが遅すぎる場合はさあ大変。「下リ端」で登場した役者は所定の位置で止まるだけではなくて、まだ登場囃子が続いている中で「左右」「打込」という型をする決マリ(これも「下リ端」の特徴の一つ)になっているので、それが出来なくなっちゃう。。演技全体が総崩れになる危険性さえ、「下リ端」にはあるのです。


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