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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その5)

2007-11-15 02:12:41 | 能楽
女曲舞で観阿弥の師匠筋の祖先たる百万が能『山姥』のツレ「百万山姥」に投影されているのではないか、と思わせるのには もうひとつの理由があります。それはツレが参詣に向かう目的地が信濃の善光寺だということで、都からはるばると浄土宗の寺である善光寺に詣でる「百万山姥」の姿には、能『百万』で清涼寺の大念仏に加わって「わらは音頭を取り候べし」と言って「南無阿弥陀仏」を唱える姿ととっても符合するように思えます。

能『山姥』が、とくにそのクセの文章が非常に難解で「禅宗的」と評されている事を考えれば、この曲が世阿弥が傾倒したとされる禅宗の影響下にあるとすれば、わざわざ善光寺詣でをする浄土信徒の者をこの場に登場させるのは いささかそこには一貫性を欠く態度も感じられるように思います。

もともと、山姥伝説は日本中にあるはずで、この能の舞台設定が越後と越中の国境とされるのは、ツレの目的地が善光寺であるから、にほかなりません。こう考えてみると、舞台設定がこの地であるのはツレが「百万山姥」だから、と言え、ここにも宗派の違いによって脚本の一貫性が多少失われるにしても、ツレを彼女に限定したかった作者・世阿弥の欲求があったのではないか、と ぬえは感じるのです。

もっとも、ぬえの説にも少々弱点はあります。

まず善光寺は有名な古刹で、宗派の垣根を超えて古来信仰が集まっていたこと。ぬえもかつて善光寺での催しに参加したことがあって、そのとき楽屋となった、大きな寺務所の一室には、この寺の創建が飛鳥時代とされているにもかかわらず、境内から出土した白鳳時代の屋根瓦が展示されてありました。白鳳時代! 仏教が伝来して間もないそんな時期に、信濃の、都から見れば辺境のこの地に、少なくとも善光寺の前身となる寺があったなんて。。ともあれ、それほどの古刹ですから崇敬を集めるのは自然なことで、『山姥』の禅宗の影響と、舞台設定たる善光寺とが齟齬を起こす事はないとも言えるようです。

次に作者と考えられる世阿弥について。世阿弥が禅宗の信徒であったことは資料からも窺えるのですが、どうも ぬえは世阿弥が生来の門徒であったとは思えないのです。このへんはすでに先学によって解明されているのかもしれませんが、ぬえは不勉強なもので、その研究成果はよく知らないのですが、世阿弥自身、その名に「阿弥陀仏」を背負っているわけで。。

浄土系の「阿弥陀号」をなぜ世阿弥が称しているのか? 尊敬する父・観阿弥の名を世阿弥が踏襲しただけなのかもしれないし、また足利義満の子で禅宗に傾倒していた四代将軍・義持の影響で世阿弥が後年禅宗に改宗したのかもしれません。世阿弥を含め、当時の信仰のありかたとして、あまり厳格に個別の宗派の信徒という枠組みに捉われずに のびのびと暮らしていたのかもしれませんし。。

しかし、それとは別に『山姥』には世阿弥らしさ、というものが少々希薄なように ぬえは感じています。『高砂』や『敦盛』のような、世阿弥に特有の素直で平易な詞章が『山姥』では影を潜めていて、難解な仏教用語を散りばめたクセを持つ『山姥』という曲。ぬえは、この理知的な詞章を見て、おそらく世阿弥の晩年。。とは言えないまでも、おそらく彼がかなり後代になって書いたのがこの能ではないかとも思っています。

もしそうであるとするならば、舞台での上演も円熟を増してきた頃、また元重の聞き書きによってまとめられた芸談『申楽談儀』が書かれた頃、父・観阿弥へのオマージュとして、わざわざツレを「百万山姥」として登場させたのではないか、とも感じています。