徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

一度放せば千の矢先・・・

2012-06-15 21:35:16 | 音楽芸能
 僕の父は4歳から6歳までの間、長岡家のおぼっちゃまの遊び相手として立田山の泰勝寺へ日参した。(長岡家のおぼっちゃま 2012.1.31)そして、謡曲のお稽古がある時はおぼっちゃまと一緒に侍らせられたという。門前の小僧よろしく「一度放せば千の矢先・・・」という一節を憶え終生忘れなかった。
 僕はこの謡曲のことが知りたくなり、詞を手掛かりに調べた。すぐにわかった。謡曲というのは、能楽の台詞でもあり、伴奏音楽でもあるのだが、この謡曲は「田村」という代表的な能の演目の一つだった。「the能ドットコム」によれば、その前後の部分は下記のとおりだ。

「あれを見よ不思議やな。味方の軍兵の旗の上に。千手観音の。光をはなつて虚空に飛行し。千の御手ごとに。大悲の弓には。知恵の矢をはめて。一度放せば千の矢先。雨霰とふりかゝつて。鬼神の上に乱れ落つれば。ことごとく矢先にかゝつて鬼神は残らず討たれにけり。ありがたしありがたしや。誠に呪詛。諸毒薬念彼。観音の力をあはせてすなはち還着於本人。すなはち還着於本人の。敵は亡びにけり。これ観音の仏力なり。」

 そもそも「田村」という能の演目は征夷大将軍、坂上田村麿を主人公としたもので、「the能ドットコム」によればそのあらすじは次の様である。
【あらすじ】
 東国の僧が都に上り、春のある日、清水寺を訪れました。そこで箒を持った少年と出会い、聞けば、地主権現に仕える者であると応えます。清水寺の来歴を尋ねる僧に、少年は、坂上田村麿[田村丸]が建立した謂れを語りました。また問われるまま、少年が近隣の名所を挙げるうちに日は暮れ、やがて月が花に照り映える春の宵を迎えます。少年と僧は「春宵一刻値千金」の詩文を共に口ずさみ、清水寺の桜を楽しみます。少年は折からの景色を讃えながら舞いを添え、田村麿ゆかりの田村堂という建物に入っていきました。
残された僧の前に清水寺門前の者が現れて、清水寺の縁起を語り、少年は田村麿の化身だろうと述べ、回向を勧めます。夜半、僧が法華経を読誦していると、武者姿の田村麿の霊が現れます。田村麿はかつて、鈴鹿山の朝敵を討ち、国土を安全にせよ、との宣旨を受けて、軍勢を率いて観音に参り、願をかけたことを語ります。その後、見事に賊を討ち果たした有様を見せて、これも観音の仏力によるものだと述べて、物語を終えます。




明日晴れるかな

2012-06-14 22:03:10 | 文芸
    姉は九つ、
    妹は五つ、
    庭の紫陽花(あじさい)
    濡れてゝ六つ。

    姉は結うてる
    妹の髪を、
    五つ妹は、
    お人形の髪を。

    縁(えん)の鏡に、
    ちらちら二人、
    姉は九つ、
    妹は五つ。


 梅雨入りが宣言されたのにちっともそれらしい雨は降らない。しかし週間天気予報によれば、どうやら今週末から本格的な梅雨に入りそうだ。
 こんな時期になると必ず想い出すのがこの輿田準一の「雨の日」という詩。輿田準一(よだじゅんいち)とは福岡県瀬高町(現みやま市)に生まれた詩人であり、戦後の児童文学をリードした一人である。また輿田準一は、度々このブログでも取り上げている海達公子に強い影響を与えた人としても知られる。この「雨の日」という詩は、彼が海達公子の家に足繁く訪れていた時期に作っているので、詞の中の幼い姉妹は海達公子・通子の姉妹がモデルになっていることはほぼ間違いない。



“ザ・わらべ” その起源はなんと安土桃山時代!

2012-06-13 21:38:49 | 音楽芸能
 津々堂さんのメインサイト「肥後細川藩拾遺」にリンクされている「金春流肥後中村家」のサイトを見ていたら、とても興味深い記述が出てきた。金春流(こんぱるりゅう)というのは能楽の流派の一つで、起源は聖徳太子の時代までさかのぼるという。豊臣秀吉の時代に政権公認の流派として全盛を極め、肥後藩主となった加藤清正も慶長11年前後、金春流の能役者・中村勝三郎政長を五百石で召し抱え能楽に力を入れたと言われる。その後、後を継いだ細川家も代々文化人であり能楽も大事にした。金春流に加え喜多流も同家の御流儀として抱え、今日でも熊本は能楽の拠点の一つとなっている。
 それはさておき、その中村家のサイトの中に歌舞伎の起源に関わる記述があった。そこには歌舞伎の創始者と言われる出雲阿国(いずものおくに)が活躍した時代、天正(1573-1592)から文禄(1592-1596)にかけて、つまり安土桃山時代ということになるが、その頃既に「ややこ踊り」や「童部(わらわべ)」の芸が存在したというのである。以前、このブログでも取り上げたが、加藤清正公が八幡の国(やわたのくに)なる女芸能者を招いて塩屋町三町目の武者溜りで勧進能や歌舞伎の興行を行なったという記録が残っているが、この八幡の国も「ややこ」と書いてあるので、まさにザ・わらべと同じような年齢だったのではないだろうか。それを読んだ瞬間、鳥肌が立つのを覚えた。


かえちゃん(14・中3)、あやのちゃん(14・中3)、くるみちゃん(15・高1)


ザ・わらべのリーダーくるみちゃん

きのうから明日へ ~ 城下町熊本展 ~

2012-06-12 17:09:50 | 熊本
 熊日新聞社の新聞博物館で行われている「城下町熊本展」を見に行った。市制が施行された明治22年(1889)から政令都市となった今年までの123年にわたる熊本市の歴史を新聞紙面と写真でたどっていた。また「水の国・熊本」のシンボルである水前寺公園や江津湖、八景水谷などの歴史も特集してあり、じっくり記事を読み始めると時間はどれだけあっても足りないくらいだ。自分が生まれる前の出来事は知らないのは当然だが、後の出来事でも知らないことが多いことにあらためて気づかされた。やはり、大学と社会人合わせて25年ほど熊本にいなかったブランクは大きい。
 僕が熊本に帰ってきてから、なんとなく釈然としないことがいくつかある。一つは熊本市役所はなぜあんな一等地にあんな高層ビルが必要だったのかということ。市の景観条例が制定されているが、最も景観を損ねているのは市役所自身だ。この問題もやはり多くの反対論があったことが記事を読んでわかった。またもう一つは水前寺公園の有料化だ。僕らの子どもの頃は自由に出入りできたので、熊本に帰ってから初めて入園した時400円も取られたのにはビックリした。これも地元商店街などが反対運動を行なったことを記事を読んで初めて知った。他にもあゝそうだったのかと思った記事がいくつかあったがそれはまた後日にする。
 ところで、先日、NHK熊本放送局が千葉城を降りて、花畑地区に移転する計画であることが発表されたが、前に発表された桜町・花畑地区の再開発計画、なかでも「シンボルプロムナード」構想と整合するのかどうか気になるところだ。僕らの子どもの頃はNHK熊本放送局は今の市役所立駐のところにあった。幼稚園児の頃、生放送で童謡を歌いに行ったことがある。約50年ぶりに中心街に戻ってくるわけだ。昔の放送局の写真が掲示してあったのでそんなことを懐かしく想い出しながら眺めていた。 


昭和3年(1928)に開局した熊本放送局(JOGK)

くまもと スプリンターの系譜

2012-06-11 20:03:20 | スポーツ一般
 今日、江里口匡史選手が正式にロンドン五輪代表に選出された。熊本県民としてとても喜ばしい。彼の大会での活躍を祈念すると同時に、熊本のスプリンターの伝統を築いてきた先輩方にあらためて敬意を表したい。

▼谷口睦生(たにぐちむつお)
八代郡鏡町生まれ。宇土中、関西大学卒。ベルリン・オリンピック200mに出場、第二次予選まで進んだ。“天才的なスプリンター”といわれ、極東大会、国際学生スポーツ大会をはじめ、多くの国際大会で活躍。100m10秒4、200m21秒1(直走路)の記録を残し、昭和18年、29歳で戦死した。



▼清藤享(きよふじあきら)
昭和7年生まれ、熊本市出身、九州学院、中央大学卒。第16回メルボルン・オリンピックに出場。100、200、400リレーで活躍した。100m10秒5、200m21秒8の記録を持つ。熊本市に健在。




▼末續慎吾(すえつぐしんご)
熊本市出身、九州学院、東海大学卒、シドニー五輪 200m 準決勝進出、400mR 第6位。アテネ五輪 400mR 第4位、100m二次予選進出。北京五輪男子4×100mリレー銅メダリスト、200m出場。世界陸上2003年パリ大会の200mで3位。高野コーチ指導の下、日本人の体格に合わせて構築した走法を完成させた。



▼江里口匡史(えりぐちまさし)
熊本県菊池市出身。鹿本高校、早稲田大学卒。世界陸上ベルリン大会男子短距離日本代表。ロンドン五輪代表として初めて五輪出場をはたす。現在、日本選手権100m4連覇中。

だから陸上は面白い!

2012-06-10 20:16:15 | スポーツ一般

女子200m決勝

 オリンピック代表の座を射止めて狂喜する者、フライイング一発失格で悔し涙にくれる者、転倒して己の限界を悟り引退を決意する者 エトセトラ…。 まさに悲喜こもごものドラマを繰り広げた陸上日本選手権が幕を閉じた。
 長い年月をかけて積み上げてきた努力に対し、わずか数分あるいは数秒のうちに残酷なまでのシビアな答えが返ってくる。陸上競技の“刹那の美”とでも言ったらいいだろうか、そこに僕は惹かれる。
 一方、熊本では明日のトップアスリートを目指す中学生たちの「熊本県中学陸上選手権大会」が昨日今日と開かれた。僕が期待している女子短距離の北川愛菜(熊大附中)は、100mと200mに出場。100mは12秒61、200mは女子トラック種目唯一の大会新記録25秒25でともに優勝した。彼女も含め、この大会に参加した中学生の中から一人でも多く、数年後の日本選手権で活躍する選手が出てくることを祈りたい。
※写真は北川愛菜選手

江里口 涙の4連覇!そしてロンドンへ!

2012-06-09 22:14:25 | スポーツ一般
 陸上の日本選手権2日目、男子100mの決勝が行われ、期待の江里口匡史選手が見事日本選手権4連覇を達成した。これで江里口選手のロンドン五輪への派遣が決定した。2009年に10秒07を出してから思うように記録が伸びず、今大会も山縣選手らに追い上げられて連覇を危ぶむ声もあっただけによほど嬉しかったのだろう、レース後目頭を押さえる姿が印象的だった。これで江里口選手は、1936年のベルリン五輪の谷口睦生さん、1956年のメルボルン五輪の清藤享さん、そしてシドニー、アテネ、北京五輪の末續慎吾さんに続く熊本出身のスプリント種目オリンピアンとなる。
 一方の女子100mは絶対本命の福島千里選手が、高校2年生の土井杏南選手に先行されるという意外な展開。終盤逆転しこちらも日本選手権3連覇。土井選手の健闘が光るレースだった。


レース後、観衆の歓声にこたえる江里口選手




女子100mで3連覇を達成した福島千里選手

陸上日本選手権始まる!

2012-06-08 21:36:32 | スポーツ一般
 ロンドン五輪の代表を決める陸上競技の日本選手権が、雨が降りしきる大阪の長居競技場で今日から始まった。僕の注目は何と言っても熊本期待の男子100m、江里口匡史選手。予選第2組に出場した江里口は、北京五輪400リレー銅メダリストの塚原直貴選手と隣り合わせのコースで走り、やや硬さが見える走りながらも無難に1位通過した。明日の決勝が楽しみだ。

▼男子100m決勝進出者(予選タイム順)
 1 山縣亮太(慶應義塾大) 10.22
 2 九鬼巧(早稲田大) 10.23
 3 木村慎太郎(アシックス) 10.34
 4 飯塚翔太(中央大) 10.35
 5 小谷優介(住友電工) 10.40
 6 江里口匡史(大阪ガス) 10.45
 7 後藤乃毅(大阪ガス) 10.46
 8 塚原直貴(富士通) 10.48




言わなきゃダメ!

2012-06-07 19:02:37 | 熊本
 久しぶりに池田町の往生院を通り抜けるコースを散歩した。気になっていた奥山静叔のお墓の標柱が真新しいものに建て替えられていた。昨年4月、ここを通りかかった時に根元が腐った標柱が倒れたままになっていることに気付いた。すぐに市の担当課に連絡した。「今年は予算配分が決まっているので立て直すのは来年になります・・・」と気のない返事。それから何度か通ったがそのままほったらかし。2、3カ月ほど前に通りかかった時、倒れた古い標柱を立て直してあった。そして今回やっと新しい標柱に建て替わったというわけだ。それにしてもこの標柱1本建てるのに1年以上かかるものなんだろうか。もし僕が言わなかったら今頃まだ倒れたままだったかもしれない。やっぱり市民一人一人が気づいたら言わないとダメなんだな。
 さらに言うなら、往生院の境内には正清院(徳川家康の八女振姫)の供養塔や熊本洋学校を創った横井太平(横井小楠の甥)のお墓などもある。何にも案内がなくていいんだろうか。



【奥山静叔(おくやませいしく)】
 文化14年(1817)に相良村(現菊鹿町)の医師の家に生まれ、21歳から10年間大阪の緒方洪庵の適塾に学んで塾長を勤め、弘化3年(1846)帰郷した。内外の評判が高く、後には藩主の内命で熊本に出て医業を開き、蘭学の教授や蘭書の翻訳にも従事している。文久3年(1863)には藩主の侍医となり、熊本医学校ができると助教に任命され、マンスフェルトを助けて西洋医学振興の基礎を築いた。明治7年引退し、同27年3月10日、78歳でなくなった。

江里口匡史の4連覇と五輪代表の行方・・・

2012-06-06 20:25:08 | スポーツ一般
 先日放送されたNHKのドキュメンタリー番組「アスリートの魂」では陸上短距離の江里口匡史(鹿本高出身)を取り上げていた。170cm/60kgと短距離走者としては恵まれない体格の江里口選手が、ロンドン五輪を目指し、コーチの朝原宣治さんとの二人三脚で、自分の感覚を信じながら究極の走りを追究する姿はまるで求道者のそれだった。今週末はいよいよロンドン五輪の代表が決まる日本選手権がやってくる。4月の織田記念陸上で山縣亮太(慶應大学)におくれをとった江里口が巻き返し、日本選手権100m4連覇を達成して代表の座を獲得できるかどうかが僕の最大の注目である。
 男子100mのエントリー選手は下記の20選手。
※写真は4月の熊本県選手権で優勝した時。





ジェーンズ邸は 何処へ!?

2012-06-05 18:41:16 | 熊本
 昨日の熊日紙に「ジェーンズ邸移転計画」の話が載っていた。「ジェーンズ邸」とは明治4年、熊本藩が洋学校の開設に伴い招いた米国人教師ジェーンズの住居として古城(現在の第一高敷地内)に建設したコロニアル式の洋館のことだ。度重なる移転の末、現在は水前寺公園の東側、閑静な住宅街の一角にある。僕がここを訪れた時、まず最初に感じたのが「なんでこんなところに?」ということだった。わざと人目につかないように建っているとしか思えなかった。聞けば、僕らが子供の頃よく行っていた動物園の跡地で、なんとカバの飼育舎があったところだという。熊本市の移転計画では、このジェーンズ邸を熊本城の周辺に再び戻したいということのようだ。ところが新聞によれば「いわれのない場所に移築を繰り返すくらいなら、現在地に残した方がいい」なんていう反対意見があるという。「いわれのない」と言うなら今ほどいわれのない場所はない。なんでカバの飼育舎跡に居続けなければならないのだと言いたい。また、この建物が熊本県指定重要文化財であることから、観光で賑わうところに移築して荒らされるのではという懸念もあるようだ。しかし、移築の大きな狙いの一つは観光資源にしたいということだ。観光資源か文化財の保護か、いずれにしても優先順位をつけるのは幸山市長の仕事だ。
 実学党ゆかりのジェーンズ邸が、熊本城周辺になかなか戻って来れないのは、明治維新後主流から外れた学校党の怨念か?なんて余計なことも考えたくなる話だ。ちなみにわが家の家系は学校党だが、ジェーンズ邸を熊本城周辺に戻すことは大賛成である。

高校総体閉幕!

2012-06-04 18:44:34 | スポーツ一般
 6月1日から4日間にわたって繰り広げられた熊本県高校総体が一部の競技を残して閉幕した。今年は陸上競技を2日間観たほか、体操と新体操、硬式テニスと軟式テニスなどを観てまわった。その中で印象に残った選手やチームををあげてみると、まず陸上では圧倒的な強さを見せた女子短距離の野林祐実(九州学院)はもちろん、同じく男子の100m、200mを制した富田尊博(必由館)、男子の4×400mリレーでデッドヒートを繰り広げた九州学院と熊工チーム。女子新体操・団体の信愛女学院と東海大星翔の因縁の対決は特筆に値する。この大会が終わると引退して目指す進路へと方向転換する選手も多いと思うが、この4日間はきっと一生忘れられない青春の1ページになることだろう。


男子短距離2冠に輝いた富田尊博(必由館)※一番手前


リレーのバトンパス

2012-06-03 23:28:41 | スポーツ一般
 先日の熊日夕刊にこんな記事が載っていた。
 ロンドン五輪で48年ぶりのオリンピック出場と決勝進出を目指す日本女子400mリレーチームが、外国勢との体格やパワーの差を縮める秘策として「アンダーハンド・バトンパス」の技を磨いていると。
 「へぇ~そうなの!」と思いながらネットで調べてみると、確かに従来の「オーバーハンドパス」よりも「アンダーハンドパス」の方がタイムが速くなるという実験結果もあるらしい。リレー競技を見ているといつもハラハラするのがバトンリレー。より確実でより早い方法があるならぜひ追究してほしいものだ。もし日本チームがロンドンで好成績をおさめるようなことがあったら、「アンダーハンドパス」が世界の主流になるかもしれない。
 熊本県高校総体のリレー種目でも気になって注目していたが、まだどこのチームも「オーバーハンドパス」だったようだ。







小雨の中、野林祐実 圧勝も・・・

2012-06-02 19:17:54 | スポーツ一般
 今日は男女の100mがあるので高校総体陸上を見に、朝から熊本県民総合運動公園陸上競技場(KKWING)へ出かけた。時折、小雨がパラつく悪コンディションだったが、高校生たちの熱い戦いぶりと競技場内に響き渡る声援は雨を吹き飛ばすような勢いがあった。
 さて注目の野林祐実(九州学院)は、100mの予選、準決、決勝、4×100mリレーの予選、決勝と計5本を走った。高校総体は基本的に学校対抗なので、あまり記録にこだわってもという気もするが、100m決勝では大会記録で圧勝したものの、彼女としては平凡な11.98という記録に終わった。それでもレース後はメディアの取材攻勢で注目度の高さをうかがわせる。はたしてこれは彼女にとっていいんだろうか、それとも・・・

 ▼女子100m決勝

1位 野林 祐実(九州学院) 11.98 NGR
2位 福嶋 美幸(九州学院) 12.54
3位 田中 芹奈(九州学院) 12.58
4位 金田 杏奈(鹿本高校) 12.60
5位 中村 未夢(八代東高) 12.68
6位 幸村 香奈(八代東高) 12.76
7位 片川 瑞貴(熊本中央) 12.77
8位 太田 蘭 (熊本中央) 12.92


レース後メディアの取材を受ける野林選手

野口雨情と「五十四万石」

2012-06-01 23:25:59 | 音楽芸能
 「五十四万石」という唄については以前にもブログで取り上げたことがあるが、北原白秋や西條八十と並んで童謡の三大詩人といわれる野口雨情が作詞した唄だ。昭和の初期、「新民謡」づくりが一つのムーブメントになっていた時期がある。「新民謡」というのは、現代風に言えば「ご当地ソング」だ。この三大詩人も時代の先頭に立って新民謡を作った。中でも野口雨情は日本全国をまわって数百曲という新民謡を作ったと言われる。熊本でも県内各地を回って20数曲の唄を作っているが、その中の一つが「五十四万石」だ。現在歌われている山鹿灯籠踊りの「よへほ節」も雨情の作だが、あれは原詞があるのでオリジナルではなく改作ということになる。「五十四万石」が初めて世に出たのは昭和10年の1月、大村能章が曲をつけ、藤本二三吉が歌いコロンビアレコードからリリースされた。後に佐藤松子もキングレコードから出している。藤本二三吉のレコードは僕は聞いたことがないが「ごじゅうしまんごく」と歌っていたらしい。
 さて、先般の熊本城本丸御殿「春の宴」の5月18日には、ザ・わらべが「五十四万石」を踊った。大阪から度々日帰りでザ・わらべの公演を見に来てくださるSさんが「五十四万石」を見たいと前からおっしゃっていたので、中村花誠先生のご配慮なのだろう。僕はザ・わらべが踊る「五十四万石」を見たのは随分久しぶりのような気がする。どちらかというと抒情的な曲調なので踊りも静かだし、中高生のザ・わらべにはどうなのだろうか。でも、その日の年配のお客さんたちの多くが自然と歌い出していた。やっぱり「五十四万石」は熊本では根強い人気があるようだ。