映画「惑星ソラリス」を観る。 知る人ぞ知る名匠アンドレイ・タルコフスキーの作品(1973年)。
以前から、「いつか観てみよう」と思いながら、果たせずにいた映画。それをやっと観ることができてうれしい。まずは、乾杯🍻
感想は――というと、実に不思議な感触の映画。ロシアがまだソ連だった頃の映画なのだが、全編に沈むような憂愁が漂っているのだ。暗くて、寂しいといってもいい。なのに、人の心に訴える詩的世界が感じられ、三時間近くある映画を一気に見てしまった。
物語は、謎の惑星ソラリス。そこでは、思考を持つとされる海が惑星全体を覆っており、その海を研究するために科学者のチームが地球から派遣されている。そこで異様な体験をしたという人物の話も聞いた上で、研究を続行するかを決定するために、主人公の心理学者クリスはソラリスへ派遣される。
だが、彼が見たのは、大勢の人々がいたはずの調査ステーションには三人しか人が残っておらす、内一人も自殺したばかりという、異常な現実。
荒涼としたステーションで過ごすうち、クリスの前に現れたのは、十年前に自殺したはずの妻ハリーだった……。
映画は、クリスが死んだはずの妻ハリーを拒否し、彼女と再び愛し合い、別れるまでを描くのだが、このハリーは実はソラリスの海が、人間の思考を読み取り、その記憶を物質化したもの。
これがソラリスの海。青く、美しく神秘的な水の世界がどこまでも広がる。海が思考を持ち、人間の記憶に眠る大切な人の実体を形作るとは、(原作の)スタニスワフ・レムの作家的想像力に驚嘆してしまう。 このテーマだけで、すでに素晴らしい。
ソラリスのステーションの無機質な空間。そこから見える海と雲だけの風景。こんなところにいたら、私など一日で発狂してしまいそうに思うのだけれど、「2001年、宇宙の旅」といい、宇宙空間を舞台とした作品には、究極の孤独が感じられるのはどうした訳なのだろう。
惑星ソラリスの力を借りて、クリスの前に甦ったハリー。クリスは彼女に対して持っていた負い目を解消し、再び彼女と一つになろうとする。しかし、結局、クリスは彼女を全面的には理解しえず、ソラリス版ハリーは、自ら消滅することを選ぶ。 原作を読んでいないのでわからないのだけれども、この作品の持つ静かさ・重苦しさはソ連という共産圏の空気感だったのかもしれない。
もし、ハリウッドが同じ題材で映画を作ったとしたら、もっとダイナミックで娯楽的なものを作ったはず。カール・セーガン原作で、ジョディ・フォスターがヒロインを演じた「コンタクト」を思い返してみても、そう思う。ここでフォスター演じる主人公は、宇宙空間で死んだ父親に再会するのだが、もっと軽やかで、幻想的なイメージに仕立て上げられていたもの。
特筆することは、冒頭と最後の、(多分、ソ連国内の)郊外のコテージの映像。簡素で、洒落たインテリアがしつらえられ、芝生の庭には木が立っている。当時のソ連の知識人層の生活ってこんなものだったのだな、としみじみ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます