群馬県高崎市八幡町観音塚1087の独立した丘陵の頂にあります。
「平塚古墳」の北東方向すぐ近くです。
「八幡村7号墳」とも呼ばれています。
(後円部)
(前方部)
全長約105(現状96)m、 後円部径75m・高さ14m、 前方部先端幅91.1m・高さ10m 後円部三段・前方部四段構築の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。
(右側が前方部)
墳丘の周りには、今は一部道路となっている盾形をした周濠があります。
墳丘には河原石による葺石が施されています。
円筒埴輪や器材埴輪・人物埴輪・動物埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
1981年に発掘調査が行われています。
後円部中央に埋葬施設、両袖型横穴式石室があります。
昭和20年(1945年)3月10日、近隣住民が後円部に共用の防空壕を掘っていて偶然発見したものだそうです。
組合式石棺が収められていたそうです。
石室は自然石の巨石でつくられていて、最も大きなものでは重量55トンに達するものもあるそうです。
石室は単室構造で全長が15.8mあり、羨道の長さ8.14m・幅1.4~1.95m・高さ2.1m、玄室の長さ7.45m・幅3.42~3.55m・高さ2.8mあります。
南南西方向に開口しています。
中国製画文帯四神四獣鏡、倭製内行花文鏡、倭製六獣鏡、倭製変形五獣五鈴鏡、銀釧、金環、銀装圭頭太刀、銀装横刀、柄頭各種、鉄鏃、長頸鎌、挂甲、斧、鉄製ヤリガンナ、鑿、刀子、轡、杏葉、辻金具、雲珠、金銅シオデ、鉄シオデ、鉄釘、菱形銀製品、須恵器など30種・300余点が出土していて、昭和36年(1961年)2月17日「上野国八幡観音塚古墳出土品」として国の重要文化財に指定されています。
古墳時代後期・6世紀後半頃の築造と推定されています。
前方部の幅や高さが後円部をしのぐという、古墳時代終末期の特徴を持っています。
群馬県域で最後に造られた前方後円墳です。
昭和23年1月14日、国の史跡に指定されています。
「平塚古墳」の北東方向すぐ近くです。
「八幡村7号墳」とも呼ばれています。
(後円部)
(前方部)
全長約105(現状96)m、 後円部径75m・高さ14m、 前方部先端幅91.1m・高さ10m 後円部三段・前方部四段構築の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。
(右側が前方部)
墳丘の周りには、今は一部道路となっている盾形をした周濠があります。
墳丘には河原石による葺石が施されています。
円筒埴輪や器材埴輪・人物埴輪・動物埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
1981年に発掘調査が行われています。
後円部中央に埋葬施設、両袖型横穴式石室があります。
昭和20年(1945年)3月10日、近隣住民が後円部に共用の防空壕を掘っていて偶然発見したものだそうです。
組合式石棺が収められていたそうです。
石室は自然石の巨石でつくられていて、最も大きなものでは重量55トンに達するものもあるそうです。
石室は単室構造で全長が15.8mあり、羨道の長さ8.14m・幅1.4~1.95m・高さ2.1m、玄室の長さ7.45m・幅3.42~3.55m・高さ2.8mあります。
南南西方向に開口しています。
中国製画文帯四神四獣鏡、倭製内行花文鏡、倭製六獣鏡、倭製変形五獣五鈴鏡、銀釧、金環、銀装圭頭太刀、銀装横刀、柄頭各種、鉄鏃、長頸鎌、挂甲、斧、鉄製ヤリガンナ、鑿、刀子、轡、杏葉、辻金具、雲珠、金銅シオデ、鉄シオデ、鉄釘、菱形銀製品、須恵器など30種・300余点が出土していて、昭和36年(1961年)2月17日「上野国八幡観音塚古墳出土品」として国の重要文化財に指定されています。
古墳時代後期・6世紀後半頃の築造と推定されています。
前方部の幅や高さが後円部をしのぐという、古墳時代終末期の特徴を持っています。
群馬県域で最後に造られた前方後円墳です。
昭和23年1月14日、国の史跡に指定されています。