![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/d8/04dfdb39be4de4f940e6aec7c30f10f1.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/c1/03597b1802a70ef4959df417c6e24248.jpg)
愛知県犬山市羽黒城屋敷の河岸段丘上にあります。
興禅寺の東すぐ近くです。
全長60m、 後円部径?m・高さ?m、 前方部先端幅30m・高さ8m の前方後円墳です。
造り出しはありません。
墳丘の周りには幅15mの周濠があります。
墳丘には葺き石が施されています。
埴輪の出土は確認されておらず、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。
その他資料が少なく詳細は不明です。
前方部は、羽黒城の中核として利用されたため、大きく削平されています。
後円部墳頂に「羽黒城址」の石碑が建っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/0e/007a99e8d4502587345d3fe3130f1b02.jpg)
古墳時代後期の築造と推定されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/4d/17f93ae6e69b547d8a1e806e19adccc3.jpg)
(後円部)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/05/95262e807b51005b87e1c3deb2272299.jpg)
(後円部)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/0f/4eb740097ea463e5357316e2388ea423.jpg)
(手前が前方部)
「羽黒城」
建仁元年(1201年)、梶原景時の孫・景親によって築造されたと言われています。
影親の17代孫にあたる梶原茂助景義は、織田信長に仕え羽黒村3千石の領主になります。
しかし天正10年(1582年)、本能寺の変で信長に殉じたため、梶原家は絶えました。
天正12年(1584年)、小牧山の合戦の折り豊臣秀吉がこの城を修復させ、山内一豊(猪右衛門)や梶原茂助などに守らせましたが焼け落ち、後に廃城となりました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます