宮崎県西都市三宅丸山の台地上にあります。
[めさほつかこふん」と呼びます。
明治28年(1895)宮内庁が陵墓参考地に指定、隣接している男狭穂塚古墳ともども管理しています。
そのため立ち入りは禁じられていますが、毎年11月の第1日曜日(西都原古墳祭り当日)には、男狭穂塚古墳の正面まで立ち入りが許されます。
そこから女狭穂塚古墳の後円部を中心にみることができます。
全長180m、 後円部径97.1m・高さ14.6m、 前方部幅109.5m・高さ12.8m 三段構築の前方後円墳です。
九州最大の前方後円墳で、全国でも47番目の大きさです。
ここ西都原古墳群の盟主墓です。
くびれ部両側に造り出しがあります。
また西側くびれ部付近から延びる、すぐ横にある171号墳への「渡り土手」があります。
171号墳は西都原古墳群では唯一の方墳で、女狭穂塚古墳の陪塚です。
墳丘の周りには楯形をした、幅14~18mの二重の周濠(空堀)があります。
さらに周濠の外側には幅15~18mの堤があります。
墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪、朝顔形埴輪、楯形埴輪、三角板革綴短甲形埴輪、肩甲形埴輪、家形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていたとみられています。
この古墳は発掘調査は行われていなく(陵墓参考地のため)、埴輪は昭和50年5月に受けた盗掘口周辺で見つかったものです。
地元では古くから、男狭穂塚古墳を「ニニギノミコト」、女狭穂塚古墳を「コノハナサクヤヒメ」の墓と言い伝えられています。
古墳群内唯一の畿内型の前方後円墳で、大阪府藤井寺市にある仲津山古墳の5分の3の相似形をしています。
南九州で最初に本格的な円筒埴輪や形象埴輪(当時の畿内最先端の埴輪)を採用した古墳です。
築造にあたっては、大和王権から派遣された古墳造りの技術者が、かかわっていた可能性が高いと言われています。
築造時期は5世紀前半中葉頃と推定されています。
(桜の後方の森が女狭穂塚古墳)
(前方部左側)
(前方部右側)
[めさほつかこふん」と呼びます。
明治28年(1895)宮内庁が陵墓参考地に指定、隣接している男狭穂塚古墳ともども管理しています。
そのため立ち入りは禁じられていますが、毎年11月の第1日曜日(西都原古墳祭り当日)には、男狭穂塚古墳の正面まで立ち入りが許されます。
そこから女狭穂塚古墳の後円部を中心にみることができます。
全長180m、 後円部径97.1m・高さ14.6m、 前方部幅109.5m・高さ12.8m 三段構築の前方後円墳です。
九州最大の前方後円墳で、全国でも47番目の大きさです。
ここ西都原古墳群の盟主墓です。
くびれ部両側に造り出しがあります。
また西側くびれ部付近から延びる、すぐ横にある171号墳への「渡り土手」があります。
171号墳は西都原古墳群では唯一の方墳で、女狭穂塚古墳の陪塚です。
墳丘の周りには楯形をした、幅14~18mの二重の周濠(空堀)があります。
さらに周濠の外側には幅15~18mの堤があります。
墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪、朝顔形埴輪、楯形埴輪、三角板革綴短甲形埴輪、肩甲形埴輪、家形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていたとみられています。
この古墳は発掘調査は行われていなく(陵墓参考地のため)、埴輪は昭和50年5月に受けた盗掘口周辺で見つかったものです。
地元では古くから、男狭穂塚古墳を「ニニギノミコト」、女狭穂塚古墳を「コノハナサクヤヒメ」の墓と言い伝えられています。
古墳群内唯一の畿内型の前方後円墳で、大阪府藤井寺市にある仲津山古墳の5分の3の相似形をしています。
南九州で最初に本格的な円筒埴輪や形象埴輪(当時の畿内最先端の埴輪)を採用した古墳です。
築造にあたっては、大和王権から派遣された古墳造りの技術者が、かかわっていた可能性が高いと言われています。
築造時期は5世紀前半中葉頃と推定されています。
(桜の後方の森が女狭穂塚古墳)
(前方部左側)
(前方部右側)