「米国国旗を模した服を着た死に神」画像が私たちに訴える「メッセージ」は何かを、私の語る「システム」論から再考するとき
(最初に一言)
今回は、前回記事を踏まえながら、改めて中国大使館から投稿された「画像」とツイートの文章が、私たちに突きつけた「解決不可能な問題」を、考察してみたい。
最初に、前回記事で引用した『朝日』の記事をもとにして、今回の話を始めたい。
「米国国旗を模した服を着た死に神が順番に開けたイラク、リビア、シリアなどと書かれた扉の向こうから血が流れ出してきているという〉画像とともに、「米国が『民主』を持って来たら、こうなります。」と投稿したとされているこのツイートの主は、「星条旗」と「死神」とは「一心同体の関係」にあるということを、私たちに伝えたかったのではあるまいか。
そして、その両者の関係がどうして生み出されるかについて、私たち「日本」と「日本人」に尋ねたかったのではあるまいか。私たちがその問題に対して、「あの戦争」とその敗戦とその後の日米安保体制と米国の核の傘の下、今日に至るまでの間、どのように考察してきたのかに関して、中国と中国人の立場から、尋ねてみたかったのではあるまいか。
「星条旗」でもって表わされる「ナショナリズム」を前提とした、すなわち主権国家と国民国家を基にその実現が初めて可能となる「民主主義」と、「死神」によって表わされる(「我々(私たち)の側」との関係に引き込まれた・巻き込まれた)相手側の自己決定権の獲得とその実現の可能性を暴力でもって制限・否定する「帝国主義」との両者の関係に関する私たちの考え方は、「水」と「油」だとする理解の仕方であったことは、これまでの社会科学の研究書やメディアの報道からも明らかなことである。
これに対して、中国大使館から投稿された画像とツイートでは、両者の関係は、「水」と「油」ではなく、両者が密接不可分な関係にあることを指摘していたのである。私も、この後者の理解の仕方を当然のこととして考えてきたし、これまでの拙著や拙論においてもそのように論述してきた。
私のこうした考え方を、日本の多くの論者は納得できないことについて、私自身も重々よく理解しているのだが、そのことは同時に、普遍的価値と普遍主義を当然とみなす米国や英国、仏国を始めとした欧米諸国の社会科学の研究者にも垣間見られるところである。私は、自身の「民主主義」研究から、それを嫌と言うほどに痛感した次第である。多様な見解の表明の自由とその尊重を標榜する民主主義それ自体が、何か目に見えないバリアを張り巡らして、普遍的価値や普遍主義の抱える問題点を追及・考察する研究を無視ないし排除する傾向にあるのではなかろうか。
そうした点を鑑みるとき、私には、中国におけるこうした民主主義と帝国主義の両者の関係についての位置づけ方、理解の仕方は、日本や欧米諸国のそれと比較してみても、より的確な理解の仕方を提示している、と言わざるを得ないのである。その意味において日本を含むこれまで先進国と評された諸国における「民主主義」(論)を巡る「思想戦」は、明らかに中国側に軍配を上げなければならない、と私は言わざるを得ない。
(最後に一言)
今回の記事でも紹介したように、私のこれまでのブログ記事は、こうした「思想戦」を予測していたと言えば、言い過ぎかもしれないが、その際、私は「日本」と「日本人」の側に立って、そうした戦いに臨んでいたわけではない。いつも「にほん」と「にほんじん」の側から、自由、民主主義、人権、法の支配、平和といった普遍的価値とその世界大への拡大を目指す普遍主義を批判的に考察すると同時にそれが抱えてきた宿痾に関する私の見解を提示してきたのである。
こうした私の普遍的価値や普遍主義に関係・関連する思想戦は多勢に無勢の中で孤軍奮闘してきたのだが、やっとここに、次期覇権国となる中国の力を後押しにして、これまでの劣勢をはねのけ挽回する機会が到来してきた感が強い。もとより、そのことは、中国とともに、これまでの私たちの近代化の歩みを、従来とは異なる観点から根本的に問い直す・問い質す作業へと、私たちを導くことになるのだが、それゆえ、旧来の保守派はもとより護憲派からの抵抗を受けるのも、また必至となるに違いない。