日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「米国国旗を模した服を着た死に神」画像が私たちに訴える「メッセージ」は何かを、私の語る「システム」論から再考するとき

2021-05-02 | 日記

「米国国旗を模した服を着た死に神」画像が私たちに訴える「メッセージ」は何かを、私の語る「システム」論から再考するとき

(最初に一言)

今回は、前回記事を踏まえながら、改めて中国大使館から投稿された「画像」とツイートの文章が、私たちに突きつけた「解決不可能な問題」を、考察してみたい。


最初に、前回記事で引用した『朝日』の記事をもとにして、今回の話を始めたい。

「米国国旗を模した服を着た死に神が順番に開けたイラク、リビア、シリアなどと書かれた扉の向こうから血が流れ出してきているという〉画像とともに、「米国が『民主』を持って来たら、こうなります。」と投稿したとされているこのツイートの主は、「星条旗」と「死神」とは「一心同体の関係」にあるということを、私たちに伝えたかったのではあるまいか。

そして、その両者の関係がどうして生み出されるかについて、私たち「日本」と「日本人」に尋ねたかったのではあるまいか。私たちがその問題に対して、「あの戦争」とその敗戦とその後の日米安保体制と米国の核の傘の下、今日に至るまでの間、どのように考察してきたのかに関して、中国と中国人の立場から、尋ねてみたかったのではあるまいか。

「星条旗」でもって表わされる「ナショナリズム」を前提とした、すなわち主権国家と国民国家を基にその実現が初めて可能となる「民主主義」と、「死神」によって表わされる(「我々(私たち)の側」との関係に引き込まれた・巻き込まれた)相手側の自己決定権の獲得とその実現の可能性を暴力でもって制限・否定する「帝国主義」との両者の関係に関する私たちの考え方は、「水」と「油」だとする理解の仕方であったことは、これまでの社会科学の研究書やメディアの報道からも明らかなことである。

これに対して、中国大使館から投稿された画像とツイートでは、両者の関係は、「水」と「油」ではなく、両者が密接不可分な関係にあることを指摘していたのである。私も、この後者の理解の仕方を当然のこととして考えてきたし、これまでの拙著や拙論においてもそのように論述してきた。

私のこうした考え方を、日本の多くの論者は納得できないことについて、私自身も重々よく理解しているのだが、そのことは同時に、普遍的価値と普遍主義を当然とみなす米国や英国、仏国を始めとした欧米諸国の社会科学の研究者にも垣間見られるところである。私は、自身の「民主主義」研究から、それを嫌と言うほどに痛感した次第である。多様な見解の表明の自由とその尊重を標榜する民主主義それ自体が、何か目に見えないバリアを張り巡らして、普遍的価値や普遍主義の抱える問題点を追及・考察する研究を無視ないし排除する傾向にあるのではなかろうか。

そうした点を鑑みるとき、私には、中国におけるこうした民主主義と帝国主義の両者の関係についての位置づけ方、理解の仕方は、日本や欧米諸国のそれと比較してみても、より的確な理解の仕方を提示している、と言わざるを得ないのである。その意味において日本を含むこれまで先進国と評された諸国における「民主主義」(論)を巡る「思想戦」は、明らかに中国側に軍配を上げなければならない、と私は言わざるを得ない。


(最後に一言)

今回の記事でも紹介したように、私のこれまでのブログ記事は、こうした「思想戦」を予測していたと言えば、言い過ぎかもしれないが、その際、私は「日本」と「日本人」の側に立って、そうした戦いに臨んでいたわけではない。いつも「にほん」と「にほんじん」の側から、自由、民主主義、人権、法の支配、平和といった普遍的価値とその世界大への拡大を目指す普遍主義を批判的に考察すると同時にそれが抱えてきた宿痾に関する私の見解を提示してきたのである。

こうした私の普遍的価値や普遍主義に関係・関連する思想戦は多勢に無勢の中で孤軍奮闘してきたのだが、やっとここに、次期覇権国となる中国の力を後押しにして、これまでの劣勢をはねのけ挽回する機会が到来してきた感が強い。もとより、そのことは、中国とともに、これまでの私たちの近代化の歩みを、従来とは異なる観点から根本的に問い直す・問い質す作業へと、私たちを導くことになるのだが、それゆえ、旧来の保守派はもとより護憲派からの抵抗を受けるのも、また必至となるに違いない。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(修正版)在日中国大使館から発信された〈米国は死神」ツイート〉騒動を、私の語る「システム」論から捉え直すとき

2021-05-02 | 日記

(修正版)在日中国大使館から発信された〈米国は死神」ツイート〉騒動を、私の語る「システム」論から捉え直すとき

 

(最初に一言)

前回記事を少し手直しすると同時に、タイトルを変更したことを断っておきたい。日本と日本人は、尖閣諸島を巡る外交・軍事的前哨戦でも敗北しているのと同様に、「民主主義」(論)を巡る「思想戦」においても、見事に敗北したことを、今回のツイート騒動は明らかにしたということである。


今回の話題となっている「騒動」に関して、〈 朝日新聞社 2021/05/01 16:40 〉の記事は、以下のように伝えている。

ーーー中国大使館からの米国を「死神」として揶揄する
 4月29日午後7時半ごろに投稿された画像は、米国国旗を模した服を着た死に神が順番に開けたイラク、リビア、シリアなどと書かれた扉の向こうから血が流れ出してきているというもの。日本語で「米国が『民主』を持って来たら、こうなります。」との文章と共に投稿されていた。

 バイデン米大統領が28日の施政方針演説で、中国の習近平(シーチンピン)国家主席を「専制主義者」と呼んだことを受けたものとみられるが、「これが大使館がするツイートか」「品がない」などと批判する書き込みが相次いでいた。

 投稿された画像が見られなくなった後とみられる30日午後10時、在日米国大使館はツイッターに「あの極めて不快なツイートに対して声を上げてくださった日本の皆さまに感謝いたします」との文章を投稿した。「不快なツイート」が何を指すのかについては触れていないものの、「これはまさに、日米同盟が共通する価値観に深く根ざしていると改めて気付かせてくれる出来事です」とした。(多鹿ちなみ)ーーー


私がこの記事を手掛かりとして考えるとき、まず、中国側において、「民主」主義(の実現)と「帝国主義」とが結合しているとの認識・理解が前提とされていることを、私たちは確認しておく必要があるという点だ。

同時に、バイデンによる中国の「専制主義」に対する非難・批判は、まさに米国による暴力でもって相手側の自己決定権を蹂躙して強奪する「帝国主義」を介して実現される「民主主義」に対する中国による非難・批判と、表裏一体の関係にあるという点では、中国がおこなっている今の専制主義は、かつての米国やイギリス、フランスがおこなったことと、なんら変わらない「歴史」であることを、私たちは確認すべきである。

その意味において、在日米国大使館のツイッターへの投稿記事にある「あの極めて不快なツイートに対して声を上げてくださった日本の皆さまに感謝いたします」、「これはまさに、日米同盟が共通する価値観に深く根ざしていると改めて気付かせてくれる出来事です」との意見は、私たち「日本」と「日本人」とが、暴力による侵略を特徴とする帝国主義と結びついた「民主主義」を世界中に拡大していく普遍主義を、日米両国が共通の「価値観」としていることを、いみじくも示しているのではあるまいか。

私たちは、かつての米国やイギリス、フランスの帝国主義と民主主義の結合した歴史を非難・批判することはできないと同時に、今日の中国による専制主義を非難・批判できないのである。私のこの「物言い」に対して、おそらく多くの人たちは納得できない、許さない、と私を糾弾するに違いない。

私はそれに対して、皆さんは私の語る「システム」(〈「システム」とその関係の歩み〉)の中で生きていることを忘れてはならないのだ、と言わざるを得ない。私が何度も論述してきたあのモデルの世界・セカイで描かれる「親分ー子分」の関係を基にした差別と排除の関係の中で、私たちは自己決定権の獲得を巡る争奪戦を繰り返して生きてきた・生きていることを忘れてはならないのだ。私たちの中国やミャンマー批判は、それこそ「目糞鼻糞を笑う」の類なのだ。

それゆえ、私は皆さんに考えてほしいのだ。どうすれば、私たちは、これまで辿ってきたような「歴史」を繰り返さないで生きていけるのかということを。すなわち、かつての米国やイギリス、フランス、そして開国以降の日本がたどってきた道を、そしてその道を今の中国はまさに辿っている・辿らざるを得ないのだが、このような道とは異なる「みち」を歩むためには、どうすればいいのかを、もっと真剣に考えるべきではなかろうか。

それにしてもなのだが、日本のメディアは何をしているのだろうか。中国大使館からのメッセージを正確に読み取り、それに直ちに対応できる日本側からの返信ができないのは、やはり残念至極である。と同時に、私には日本において、中国からの問いかけにこたえられる学者や研究者は、私と、私と一緒に勉強した仲間以外にはいない、と確かに傲慢不遜な物言いだが、そう確信している。

中国側からは、次の声は聞こえてこない。その理由は簡単だ。〈「これが大使館がするツイートか」「品がない」などと批判する書き込みが相次いでいた〉ということにも示されていたように、中国側から送られた問題提起に対して、この程度のレベルの低い批判しかできない日本人の愚かしさを見抜いたからに他ならない。

この中国側からの「思想戦」は、まさしく大使館によってなされるのにふさわしい「品のある」素晴らしいツイート である、と私は言いたい。残念なのは、このツイートに対して、在中日本大使館からの「品のある」返信ができないということである。尖閣諸島をめぐる外交・軍事の前哨戦でも既に敗北しているように、今また民主主義を巡る思想戦においても見事な敗北を見せた日本と日本人の現状に接して、私は言葉を失うばかりだ。

こんな日本と日本人に対して、中国は、「奥の手」を見せないままに、私たちの出方を見守っている。こうした状況に対して、私が言えるのは、従来の「日本」と「日本人」の鎧を着たままの政治家や官僚、そして研究者には、決して中国側を納得させるメッセージを送れないということである。それは日本学術会議の研究者も同様である。、


(最後に一言)

正直なところ、私はあまりこうした問題に、すぐさま飛びつきたくはなかったのだが、(と言うのも、扱われる問題は相当に深刻かつ重要であるにもかかわらず、メディアの報道はいつものように、皮相的なものであり、真面目に考えようとする姿勢が最初から見られないことから、私はもう少し、騒動の成り行きを見ていたかったのだが、)もしかして中国大使館に私の知る人がいて、その彼・彼女から、私に対しての「挨拶」なのかと思い、それならば、私のブログ記事で何か発信しなければ、失礼だとの判断から、今回記事を書いた次第だ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする