イスラエルとパレスチナの衝突を前にして語る言葉が見当たらない。それでも語るとすれば、すべてが嘘に響く。それはそうなのだが、それでも語ることしか私にはないのだ。
(最初に一言)
いろいろなことをあれこれ勝手に悩み、その挙句また勝手に苦しみ、そして堂々巡りとなるだけの考えに終始する中で、私なりにここまで書いてきたが、それをあざ笑うかのように、今回の衝突である。すべてが、ほんの一瞬で終わってしまうことを、改めて思い知らされた感である。
それにしても、〈日本の政治の「可能性」と「方向性」について考える〉なんて、ブログのタイトルの下、ここまで書いては来たものの、最初からそんな無理をしてもダメなものはやはりだめであった。可能性などどこにある、ましてや方向性云々などナンセンスではあるまいか。
勿論、誰も責められない。責めるとしたら、それは主権者としての「私」という存在それだけ。それにしても、コロナ禍の中で、見事にあぶり出された「私」たちの惨状。それを前提とした上での、「システム人」としての存在を自覚した、ひとりの人間として、生き残るためにはどうすればいいのか、選択肢として何が残されているのか等々に関して、あれこれ提言してきたものの、お先真っ暗状況・状態は変わらないまま。
それらを確認した後で、それにもかかわらず、私なりに整理した話をどうか聞いてほしい。以下、箇条書きの形で述べてみたい。
①イスラエルとパレスチナの「衝突」関係をつくり出してきたものの「正体」こそが、〈「システム」とその関係の歩み〉をつくり出してきたのではあるまいか。
②同時にまた、その〈「システム」とその関係の歩み〉の中で、世界の此処彼処に「イスラエル」と「パレスチナ」の自己決定権の争奪戦を巡る「力」と「力」の暴力関係を生産・再生産してきたと言えるだろう。
③そしてこの暴力関係の頂点に位置する者が、歴代の覇権国であり、その親分が子分との関係においてつくり出してきたのが覇権システムだということに他ならない。
④私たちの生きている空間では、こうした親分の力を基にした親分の「意向」と行動を抜きにしては、いかなる物事の解決も不可能だということである。
⑤今後の「日本」と「日本人」が生き残れる道は、ひとえに次期覇権国・親分の中国との付き合い方に関わっていると言っても過言ではあるまい。
⑥子分としての自覚を忘れずに、「日本」と「日本人」は誠心誠意、「中国」と「中国人」との交際を進めていくべきである。
⑦そのためには、「日本」と「日本人」は、中国の指導を仰ぎながら、アジアにおける「緩衝地帯」(化)の実現を一刻も早く目指すべきである。
⑧こうした点を踏まえるとき、「日本」と「日本人」は、これまでの欧米一辺倒の外交関係を見直して、適度な距離関係を保ちながら、身の丈に合った外交姿勢を取ることが肝要であろう。「目立たず、騒がず、謙虚に」をモットーとすべしである。
⑨中国という巨大な大国の懐に果敢に飛び込み、その奥深い処で、「眠るがごとく生きる」道を選択できれば、21世紀の「日本」と「日本人」の安全保障は取りあえずは安泰となるに違いない。
⑩以上、これらの点を念頭においた際、私たちにとって、今後の選挙は国や地方の両レベルにおいて、特に大事な意味を持つことは言うまでもない。もし今後もなお、中国を蔑視、軽視したり、欧米と組んで中国包囲網などの先見性の無さを露呈する政党や政治家が幅を利かすようでは、日本の展望は暗いと言わざるを得ない。そのためにも、私たち主権者の責任は重いということを肝に銘じる必要がある。
(最後に一言)
ここまで述べてはきたものの、現実を直視する時に気が重くなるのは当然かもしれない。それほどまでに、中国との「距離」が遠いのだ。日本に拠点を持つトヨタなどの多国籍企業やその他の大企業の行動を見るならば、彼らの経営上の安全保障の在り方は明らかであろう。どうして、私たち庶民は見習うことができないのだろうか。
これら企業の支持をバックに政治を司る日本の政界が、彼ら経営人とは「真逆」に、日本の一般大衆を扇動するかのように、中国包囲網をぶち上げるのだから、何をかいわんやである。私自身、いろいろな論理矛盾を抱えながら、これまで語ってきているのは十分に分かってはいるのだが、それでも「生き残る」ことを最優先した結果として、今回の記事となった次第。
少し、付言しておくと、すぐ上で述べている「私自身、いろいろな論理矛盾を抱えながら、これまで語ってきているのは十分に分かってはいるのだが、」のくだりも、「システム」を、とくに覇権システムを前提として生きていることを踏まえるとき、私の話は論理矛盾などということではないのは明らかなことである。生き残れた後での話であり、それを前提とした上での論理云々の話なのだから。
もとより、それでも、すべての「日本人」が生き残れるわけではない。それゆえ、問題となるのは、この「続き」が大事だということになる。生き残れなかった人々に対する保障はどうするのか。残された家族はどうなるのか。生き残れなかったのは何故だったのか。どこにその問題があったのか。誰がその責任を引き受けるべきなのか。生き残った者の中に、そうした責任の所在を明確にさせることのできる者が果たして存在しているのか。
また、生き残れなかった者の名誉は回復できるのか。さらに、そもそも、私は何故いとも簡単に、「すべての者が生き残れるわけではない」と語ってしまったのか。おそらく、そこにはこれまでの歴史から、私が学んできたことがあるからなのだろうが、今のコロナ禍においても、酷似した状況が垣間見れるのは確かなことだ。
政治家はいつも、「命と暮らしを守る」というのだが、このコロナ禍で、もう何人の命が奪われてしまっただろうか。どのくらいの人がその生活を破壊され、家族の崩壊に追いやられてしまったのであろうか。誰が政治の責任を取って、議員辞職をしたのだろうか。「私」たちは、そうした彼ら政治家の無為無策の責任と、彼らが担ってきた「政治」に対する責任を取らせるために、何をした・何ができたのだろうか。