日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

オニクタラムの新しい「クニ」造りについて考える、「介護」の問題から見えてくる国際関係(4)

2014-04-06 | 社会 政治
 お元気ですか。中国から日本に戻って来ましたよ。まだ、ぼうっとしています。またよろしくお願いしますね。今回は「介護」の話です。これに関しても、当然ながら、いろいろな語り方がありますが、タラムの臭い(匂い)のある話ができればと思います。ただ正直にいえば、なかなか語れない、難しい問題ですね。これもやはり「嘘」をついてしまう、そんな感じですか。喋る前に腰が引けています。

 中国ではPM2.5を一杯吸い込んで「元気」でしたが、日本の放射性物質を吸い込んで元気とはなりませんね。日本では中国の悪いことだけに目を向け過ぎで、肝心の日本の有害物質に関してはあまりにも日本人が淡泊過ぎるので、私はむしろこちらの方が心配ですね。これもマスコミの報道とその教育の賜物でしょうか。

 ところで、私の父や母が介護施設でお世話になっていましたが、そこで〈私と私の親〉と、〈介護職員と彼らの親〉の関係について、多くのことを考える機会がありました。ここに垣間見られる関係とそれが抱える問題は、「先進」国と「後進」国の関係に類似している、と私は思います。途上国の医療・介護関係者が、先進国に出稼ぎに行ってそこで給料を得る。そのため、途上国の貧しい者は医療や介護サービスを受けられないで困ってしまう、こうした関係が見え隠れしているような。

 私の親なんだから、私や私の兄弟が親の老後の面倒をみるのは「当然」だ、とそんな牧歌的な気持ちは悲しいけれど、もうとっくの昔に卒業してしまったはずの私に奇麗事は言えませんが、自分が看病される立場になりつつある現在、少し複雑な気持ちですね。ただし、因果応報は避けられませんね。母親としての妻はともかくとして、父親としての私はこれまでの悪行の報いを従容(しょうよう)として受け入れなければなりません。

 介護従事者の存在抜きに、私と私たち家族の「生活」が成り立たないことは言うまでもありません。そのために、私は親の介護をしてくれる介護従事者の給料をなるべく低くするように、私と同じ思いをする者たちと「共同」して彼らに向き合っているのです。

 そのために、介護従事者が、自らの家庭をもって、普通に生活するのは苦しくなりますし、ましてや彼らの親の老後の面倒を看るのも大変となることが予想されます。イヤイヤ、こんなもったいぶった物言いをしなくてもいいですね。私が、私のような「存在」が彼らをそうしているんですから、他人事みたいな言い方はいけませんね、卑怯ですね。大変ですね。介護従事者の若者が結婚して、家族を養うのも大変ですから、結婚なんて、となってしまいますね。

 こうした私のような存在が介護従事者の環境を少しでも改善しようと思わないのは、当たり前なんですね。そうすれば、彼らとの間につくってきた「差額(格差)」が少なくなりますから、私の生活の「幸福」度が低下してしまいます。ここまで話しながら、我ながら本当に嫌になってしまうというか、メいってしまいますが、奇麗事にならないように、我慢しながらもう少し続けますね。

 こうした「差額」を、またそれをつくり出す関係を、私たちは生きるために創り出してきたんでしょうね。古今東西の歴史を見てもそうだと思いますが、あるときは、差額を得られる立場に立ち、また別の時には逆に、それを奪われる、あるいは差額をつくり出す関係のコマとして奉仕させられる側に立つんですね。ずっと前者の側だけに位置づけられる幸せな人もいれば、その反対にずっと後者の立場を強いられる人もいるんですね。

 こうした関係を原動力にして国家は建設されてきた、と私は考えますから、それはたとえ国家が死滅してもこの関係までもなくすことは不可能だと思いますね。ある国家において、こうした関係が薄められる社会をつくるためには、どうしても別の国家との差額を拡大することに成功しなければなりませんから、たとえ平和で豊かな社会を実現できたとしても、その「平和」とか「豊かさ」は寂しいもんなのですね。決して褒められたもんじゃないと考えるんですね。

 ここからはキレイごとなんですが、私はできればこうした関係に支えられない空間をつくりたいんですね。もちろん私自身のためですよ。私の老後のために、「保養所」というか「療養所」をつくりたいんですね。私のようなセコイ生き方をしてきた人間でも、イヤそうだからこそ、死ぬ前に少しでも、よりましな生き方をしたいんですよ。

 ここまでにしておきますね。相当に疲れています。言ったことは、これからの人生では、実現するんだと言い聞かせていますから、すごいプレッシャーをいま感じています。しかしながら、必ず死ぬんですからね、最後まで夢はあきらめたくないんですよ。どんなにささやかな夢でもね。

 去年のことですが、私の知人が〈よしのさくぞう〉賞を貰いました。私はそれに刺激されまして、今年に出版される拙著に自分で賞を与えようと新たにつくりましたよ。「よしの」の、「の」をとり、「さくぞう」の「さく」を「いく」に代えてね、「よし・いくぞう」賞です。





 












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