日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

〈「システム」とその関係の歩み〉を理解することによって、少しわかってきたこと(3)ー「人権」を巡り激しく応酬する米・中(の「主張」)に対して、私たちはどう向き合えばいいのか

2021-03-22 | 日記

 

〈「システム」とその関係の歩み〉を理解することによって、少しわかってきたこと(3)ー「人権」を巡り激しく応酬する米・中(の「主張」)に対して、私たちはどう向き合えばいいのか

(最初に一言)

今日の話の前に、前回記事で踏み込んで述べられなかった話を箇条書きの形で要約しておきたい。

①いわゆる「先住民族」とは、用語表現は当該民族の立場を尊称して使用されているように見えても、「先」に住んでいた民族は自らを「先」だとか、「後」だとかのの認識を、わざわざする必要などあったのだろうか。それは文字通りの「後」からやってきて、先の民族(エスニック・グループ)を支配し、従属させることで、征服した民族が征服された民族を位置付けた呼び方ではあるまいか。

②その関連から言えば、私たちは先住民族と何度も呼ぶ中で、そうした先住民測をつくり出してきた征服民族による歴史、すなわち征服民族を中心とした史観を、無意識のうちに合法化・正当化しているのである。これではいつまでたっても「「システム」とその関係の歩み〉と真摯に向き合い、その問題点を検討・検証することによって、自己決定権の獲得を巡る争奪戦における力と力の暴力関係と密接不可分の差別と排除の関係を、できるだけ少なくしていくような社会の構築は夢のまた夢の話となるのではあるまいか。

③私の語る「システム」論によって展開される〈「システム」とその関係の歩み〉に関した論述内容は、従来の「アングロ・サクソン族」中心史観を前提としてきた社会科学の研究者らには当然ながら、ほとんど理解されることなく無視あるいは嫌悪されてきたと言っても過言ではあるまい。

④それゆえ、私の語る「システム」論を今後、継承しさらに発展させていこうとする読者は、誰からも、(当然ながらそこには米国や中国の支配層も含まれているのだが、)敬遠とか倦厭という反応の仕方でもって嫌われることを、自覚しておく必要がある。それは逆に言えば、私の語る「システム」論を前にしたとき、ほとんどの議論なり主張や見解が「嘘」をついている、ついてきたということが白日の下にさらされるからである。

⑤もっとも、今のコロナ報道をみてもわかるように、権力者集団というか権力ブロックは、その力でもって、圧倒的に優位となるような環境下で権力がお気に入りの、またそうした権力に進んで迎合することを願う専門家たちが、ありとあらゆるところに動員されて、嘘がばれないように努めるだろうから、容易にはその嘘の皮がはがれないのも確かである。

以上、これらの点を確認したうえで、今回の問題について論じてみたい。

⑥アメリカのアラスカ州での米中会談での「人権」を巡る激しいやり取りが、世界中で耳目を集めている。これまでの両国の「人権をめぐる合戦」は、米国が中国の香港や台湾、新疆・ウイグルにおける普遍的価値とその実現を蹂躙する暴力的行為を激しく非難・批判してきたのに対して、中国も負けじと、米国における人種差別を、またいわゆる「アメリカ先住民」に対する虐殺を取り上げて、米国の対中非難・批判の欺瞞を鋭く糾弾するという具合に展開されてきた。

⑦〈「システム」とその関係の歩み〉をもとにして、米・中の国内・国外における「人権」抑圧・弾圧を俎上に載せるとき、両国とも非難・批判されるべき数々の問題を繰り返してきたのは、今さら言う必要もないはずだ。その意味では、米・中は共に「謝罪」や「責任を負う」云々の話では許されない歴史を辿ってきているのである。もとより、「日本」と「日本人」も、例外ではない。(こんなもの言いをすれば、まさに「四面楚歌」状態に陥るのは必至。本当に嫌われるばかりで、これでは「自滅の刃」ではなかろうか。だが、仕方がない。〈「システム」とその関係の歩み〉として語られる「歴史」に真摯に向き合うとき、そうなってしまう。)

⑧「市民革命」にその起源をもつとされてきた、いわゆる「普遍的価値とその実現に関して、歴代の覇権国は自らにその価値の実現を保障するために、他の異なる民族を植民地や従属地の状態下に置くことにより、それを許さない歴史を歩んできたのは間違いないことだ。そして、次期覇権国の座を目指す中国も、同じ轍を踏もうとしている、いや、もう既に踏んでいるのだが。

⑨覇権国や強大国とはならないまでも、その他の中心国と同様に、開国以降の日本もまた、覇権国が辿ってきたような歴史を、つまり、自分たちよりも力のない民族を抑圧・弾圧する中で、自らに普遍的価値の実現が可能となるような、またたとえその可能性が十分でないまでも、とにかくそうした歴史を歩んできたのは確かであった。

⑩こうした覇権国や中心国によって普遍的価値の実現が遠ざけられてきた半周辺や周辺においても、その内部において、覇権国や中心国が彼らの民族に対して強いてきたような差別と排除の関係を受容せざるを得ない形で、力のある者が力のない者を抑圧・弾圧しながら、自らもまた普遍的価値の実現を許さないような環境をつくり出すことに手を貸してきたことを、銘記しておかなければならない。

⑪こうした点を鑑みるとき、厄介極まりない問題が私たちの眼前に展開される。すなわち、誰も、周りの誰かに対して、「エラソー」に何かの意見をすることができなくなるということである。本当に困ったことなのである。ところが、それにもかかわらず、先の米中両国をはじめ、米国のお友達、中国のお友達は、米中同様に、それぞれが相手側を非難・批判するために、自らにご都合主義的な正義や正論を掲げて、またお金をばらまきながらモメゴトを大きくしながら、さらにそうしたモメゴトとあまり関係のない、関係したくないと考えている他の諸国や諸国民を、その渦中に引き込んでいく。

⑫さらに、困ったことは、こうしたおかしなモメゴトから一線を画したいと願う者が、最後は貧乏くじを引いてしまうということになるということである。〈「システム」とその関係の歩み〉云々と何か自慢げに、さも私は世界の動きを知っていますよと語っているかのように誤解されてしまう者は、世間の厄介者、迷惑者となってしまうのだ。むしろそれよりは、米国にとっては、激しく米国非難・批判をしてくれる中国の方がありがたいというか、お友達となるのだ。この逆もそうである。

(最後に一言)

こうした点を踏まえるとき、日本と日本人が、米中両国に対して、そのおかしさ、愚かしさに対して、「是々非々〉の立場から、何か口をはさむという仕業は、それこそ命取りということになる。なぜなら、私たちは、何度も言うように、差別と排除の関係の中で、常に加害者、被害者の立場を繰り返し引き受け演じてきたし、これからもそうであるだろうし、何よりも、私たちが生きているこの「システム」という舞台というか空間は、始めからどうにも始末に負えない力と力の「親分ー子分」の暴力関係が前提となっているからである。

日本国憲法の制定過程や憲法前文、第9条、その他の条項もすべて、その表面的な「すばらしく映る光景の背後に、こうした自己決定権の獲得を巡る争奪戦において繰り返される「力」と「力」の親分ー子分の暴力関係と、それを基にした差別と排除の仕組みから創られてきた私たちの社会の存在を、絶えず意識すると同時に、決してその現実から目をそらしてはならないだろう。

それにしても米中両国が堂々と自国の主張をぶつけ合いやり合っている様をみるとき、私は正直恥ずかしくなるだけだ。私に、つまり「日本」と「日本人」にそれができるか、と自問自答するとき、何も言えなくなる。本来ならば、そうだろう。ところが、米国という親分が後ろに控えているからという「思い込み」だけで、世界に向かって何かわけのわからないことをオウム返しでしゃべっているのだから、末怖ろしい。

そんなことはもうどうでもいいだろう。それより、これから先、米国というこれまでの親分と、またこれからの親分の中国と、どう「お付き合いをお願い頂けるのか」を考えるとき、まったく何の妙案も浮かばない。もっとも、マスコミに出ているような専門家の話で構わないのならば、いくらでも嘘は語れる。

それでは駄目だから、このような話をしてきたのだが、まさに暗中模索といったところ。勿論、ふざけたことを言うつもりはないし、いつも真剣なのだが、これではどうにもうまくいかない。やはり、もっともっと、私の中にあるものを徹底的にさらけ出す以外には、駄目だということなのだろう。その意味では、〈「システム」とその関係の歩み〉に関して、これまで以上に向き合い、搾り出せる論点の検討・検証を、ということになるのだろうが、いやはやなんとも、もどかしい限りである。、

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