日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

№72私の語る「システム」論から、改めて前回記事での①②と③の関係を捉え直すとき(続)

2023-09-23 | 日記
№72私の語る「システム」論から、改めて前回記事での①②と③の関係を捉え直すとき(続)




(最初に一言)


 今回記事では③の香港デモの若者が、仮に胸のところに「欧米流の自由万歳」というワッペンをつけて、返還後の香港のとあるバス停でバスを待っているとしようそのバスは「中国流の自由万歳」号である。バスが到着して、若者が乗り込もうとした際に、バスの乗務員に乗車拒否をされてしまう。バスにいる多数の乗客は、その場面を見ながら、何も言わないままで、ただ黙っている。この若者は見事に、バスの乗客の一人となるのを、差別され排除された?のだ。こんな設定の下に、以下に前回記事の①②の話と結び付けながら、論を展開していきたい。




 ①②の日本の障碍者は「欧米流の自由万歳」号のバスとその乗客によって、乗車を拒否された形であった。最近の国連総会演説で、またも日本の首相は臆面もなく、それこそ気恥ずかしくなるような「人間の尊厳を守る云々」、と宣ったと聞くのだが、自・公政権の推し進める政策実現の前で、「欧米流の自由万歳」の社会に生きる私たち国民の多くは、自由に飢える、自由に野垂れ死にする、自由に労働権をはく奪される等々と、切りがないほどの非・自由、不・自由という名の自由を押し付けられるままで、それでよくも「人間の尊厳ーーー」云々とは。


 こんな社会に生きる私たちは、当然ながら、「私(僕)が私(僕)であるために勝ち続けなきゃならない」との自己決定権の獲得とその実現における争奪戦に明け暮れしながら、その日その日を懸命に生きざるを得ない。そんな私たちは、いつしか強者と弱者の、親分と子分の、差別し排除する側と差別され排除される側の関係を当然のごとく受容する中で、覇権システムの維持・強化とその存続に手を貸すことになる。


 まるで夏目漱石が語った「生きるか、生きるか」の社会の荒波の中にいる人たちが、やっとの思いで帰宅を急ぐ、そんなバスに乗り合わせた①②の乗客でギュウギュウノバスであれば、①②における少数派の障碍者に対する無関心・無頓着な対応は、想像に難くない。これも、やはり差別し排除する側と差別され排除される側の関係を示している。読者の中には、次のバスを待てばいいだけのこと、何をそんなにオーバーなことを、と思う人もいるに違いなかろうが。


 私は言いたい。「そう、そこなんだよ。そのあなた方の思っていることそれ自体が、相当に問題なんだよ」、と。勿論、これもまた、通じないのは必至だ、と私はみている。「欧米流の自由万歳」の社会とは一皮むけば、こんなものであるとは、言い過ぎだろうか。私の語るあのモデルで描かれる〈「システム」とその関係の歩み〉を前提として、その欧米流の自由が実現するのだから、それは言うまでもなかろう。


 それでは「中国流の自由万歳」はどうであろうか。これまた〈「システム」とその関係の歩み〉を基にしてつくり出されるのだから、後は推して知るべしだろう。中国流の自由に従わない者は、③の若者のように、「欧米流の自由万歳」を信奉する限りは、先のバスに乗ることはできない。乗車拒否となる。この若者に対して、バスの乗客の多くはこれまた無関心・無頓着な態度でやり過ごすのだ。それゆえ、③の若者は海外の他のどこかの国に向かうか、「欧米流の自由万歳」の「踏み絵」を踏んで中国に留まるしかない。


 ただし、この中国流の自由は、前回記事でのモデル(イ)に示したように、〈「システム」とその関係の歩み〉が、Ⅰ期の段階を経てⅡ期の後期の段階入り口に差し掛かる頃には、モデルの(ア)の欧米社会が、Ⅰ期を経て、Ⅱ期の後期の段階に差し掛かる頃に、現実化した自由に、その内実を変えていく。その時には、もはやかつての中国流の自由は、とくに国内社会においては影を薄めていくはずだ。欧米流の自由とそん色のない自由がつくり出される、と私は考える。




(最後に一言)


 いずれにせよ、面白くもない歴史の歩みでしかない。前回記事で、私は③の若者に大変に失礼な物言いをしたかもしれない。それは前回記事でのくだりを書いているときに、すぐに気がついていたのだが、それでも、そう語ったのは、これまたずっと以前の記事で述べていたように、若者は「政治」に関わるべきではない、との私の考えからなのだ。


 今回記事では、その理由を言わないが、私たちの政治は、資本主義や民主主義、あるいは社会主義や共産主義の次元の「出来事」に関係しているように、一見したところは確かに、そのように捉えられても仕方がないのだが、何度もこれまたいうように、ほとんどすべては覇権システムの、すなわち、強者と弱者の、親分と子分の、差別し排除する側と差別され排除される側の人間関係にその源を発しているのである。


 それゆえ、最初から、それを理解した上で、政治に付き合わない限りは、自分よりもより強い者たちに、利用されてしまうだけとなる。つまり、「勝てないけんかはするな」である。私が辛いのは、③の若者たちを背後で操り人形の如く扱い、都合が悪くなれば、あるいは、一定程度の目標を達成したとされる瞬間に、③の若者を扇動したとされる痕跡を消し去り、風のように去っていく「システム」を指導・監督する中国と対峙する格好にある別のグループを率いる親分連中の存在である。付言すれば、中国側においても、それは最初から分かった上での対応となっている。


 これまた何度も言うように、世界を動かす親分連中は、「システム」の形成とその維持・発展と存続という役割を共同で担っているという意味では、一蓮托生的な存在であるということを、決して忘れてはならない。これまた何度も言うように、中国と米国は「米・中覇権連合」の形成と発展、その維持とその強化のために、たとえ表面的には対立敵対するように見えたとしても、強固な相互補完的関係をこれまでつくり上げてきている、と私はみている。


 それが、私のモデルの(イ)の〈「システム」とその関係の歩み〉をさらに推し進めていくことは間違いない。それによって、B、Cを構成する諸国では、Ⅰ期からⅡ期、そしてⅢ期の高度化の段階を目指すことが可能となるのだ。だがそれは、逆にAを構成するかつての先進諸国が、Ⅰ’期、Ⅱ’期そしてⅢ’期の低度化の段階を深化させていくことにおいても、同様に大きな影響力を発揮する、と私は、これまた何度も、拙著や拙論、ブログ記事等々で、論述してきたとおりである。(続く)



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