日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

№67私の語る「システム」論から、改めて私の「優しさ」と「残酷さ」を再考するとき―私を支配し続ける「残酷さ」はどこからきているのだろうか(続)

2023-09-13 | 日記
№67私の語る「システム」論から、改めて私の「優しさ」と「残酷さ」を再考するとき―私を支配し続ける「残酷さ」はどこからきているのだろうか(続)




(最初に一言)


 今回記事もまた、前回記事の続きとして、マルクスやレーニン等に理解されていた「国家」を、階級支配の道具として位置づける見方から、批判的に考察していきたい。私の国家の定義は、自己決定権の獲得とその実現に際して繰り返される力(暴力)と力(暴力)のぶつかり合いを介してつくり出される弱者と強者、そして差別と排除の関係から導かれる「親分ー子分」関係を基本的・基礎的単位として、その関係の形成・発展・存続を目指す「暴力装置」としての共同体を指している。その共同体の集合体が他ならぬ覇権システムである。




 私のこうした国家の捉え方を基にしたとき、レーニンが考えたブルジョア階級によるプロレタリアートの階級支配としての道具とされる国家を、「暴力革命」によって打倒したとしても、またそこから「プロレタリアートの独裁」をとおして、国家を解体させるとしても、それでもなお、私の言う「親分ー子分」関係を前提とした差別と排除の関係を形成・発展・存続させる暴力装置としての共同体としての国家は、決して死滅などしないということになる。ましてやその集合体としての覇権システムはなおのことだろう。


 これに関して言えば、レーニンの中にも、私のこうした共同体としての国家を受容する態度は、もとより見られたはずだと私は推測するが、彼もまた、そうした「親分ー子分」関係とそれを前提とした差別と排除の関係を清算・再生産する暴力装置云々の見方は、あまりにも当たり前すぎていたために、思いも及ばなかったのかもしれない。階級支配の道具としての国家が消えて無くなれば、またプロレタリアートの独裁による資本主義(国家)の止揚がなされれば、いずれはそのような「親分ー子分」関係とそれを基にした差別と排除の関係も、消滅するだろうと考えたのかもしれない。


 これに対して、私はそうは考えない。それどころか、たとえ素晴らしい政治や経済の体制がこの世につくり出されたとしても、それでもなお、私たちの日常生活に見慣れた「人間関係」に特徴的な「親分ー子分」関係とそれを基にした差別と排除の関係を形成・発展・存続させる共同体と、その集合体である覇権システムは、決してこの世から消えてなくなるとは、思われないのである。


 それゆえ、私は途方に暮れるのだ。前回記事で紹介したホブソンの経済政策とそれによる社会改革がたとえうまくいったとしても、そこからさらに「民主主義の発展」における高度な段階とされる福祉国家の実現が導かれることとなったとしても、そしてそれによって、彼が考えていた「帝国主義」の災厄が無くなったとしても、私の考える「親分ー子分」関係を前提としてつくり出される差別と排除の関係を清算・再生産する帝国主義は、決して消滅したりはしないからだ。少なくとも私はそう見ている。


 それはまた、レーニンの帝国主義についても同じように該当する。資本主義の最高度の段階である帝国主義が、暴力革命によって、ブルジョア階級の支配する国家を打倒して、その後のプロレタリアートの独裁を介した資本主義から社会主義の段階への移行に成功したとしても、それでもなお、すぐ前で言及した私の考える帝国主義はなくなることなど、決してないだろう、と私はみている。すなわち、私たちの日常生活における人間関係としての「親分ー子分」関係を基本的・基礎的単位とした差別と排除の関係を生産・再生産する暴力装置としての共同体の一つである国家は、またその集合体である覇権システムは、この世から消え去ることはない、と私はみている。




 こうした私の考える差別と排除の関係を前提とした共同体としての国家は、たとえその内部で、どれほどの話し合いや選挙や啓もう活動が繰り返されたとしても、その暴力装置としての共同体は、いつまで経っても「親分ー子分」関係を前提とした差別と排除の関係を自ら見直して、その修正、改良を図りながら、別の新たな関係へとつくり替えることはないだろう。もし、それを実現しようとすれば、それは別の暴力を必要とせざるを得ないのだ。換言すれば、覇権システムに由来する問題の解決や改善は、資本主義や民主主義の次元の問題解決や改善策では、到底実現できないということである。




(最後に一言)


  それゆえ、またまた私は悩み、落ち込んでしまうのだ。と言うのも、私たちがいま直面する、そして今後もそれは変わらないだろう、対内的対外的に引き起こされる難問のほとんどが、たとえばそこには地球規模の環境問題、食糧問題、水問題、原発問題、領土・国境問題、移民問題、命と暮らしを守るための安全保障問題、さらにはそれらと密接に関連した世界的紛争・戦争問題等々が含まれるが、それらは覇権システムの次元に属するものであるからなのだ。それらの問題解決・改善には、平和的交渉も勿論のことだが、それ以上に、今よりもさらに増強された力(暴力)の出現と、必要とあらばその行使が要請されるのだ。遺憾ながら、私はそう考えるのである。




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