日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

21世紀の中頃には中国は「覇権国」となり、同時に「民主主義国」として世界に君臨する

2020-12-18 | 日記

21世紀の中頃には中国は「覇権国」となり、同時に「民主主義国」として世界に君臨する

(最初に一言)

今回の記事のタイトルは、私のこれまでの主張であり、以前の記事でも、また拙著や拙論でも述べている。誤解のないように付言しておくと、私は覇権国が「悪い」とか、民主主義国が「良い」とかの話をしているのではない。善悪の問題は、〈「システム」とその関係の歩み〉を語る際には(読者の批判をわかった上で敢えて言うならば)「余計な問題」である。もう少し、その真意を補足しておくと、論理的に、何度も理由を問い質す前に、感情が先走って、問題を掘り下げる以前に、善悪でもって、しかも自分(たちとその仲間)に都合のいいような判断で、結論付けてしまうことに対する、私の懐疑的物言いとでも解してほしい。〈「システム」とその関係の歩み〉は倫理的・道徳的次元ではそもそも論じられない、扱うことのできない「歴史(歩み)」に他ならないのである。


久しぶりに「チャンネル桜」の「中国の覇権」や「反日」をテーマとした座談会の話をユーチューブで聞いたのだが、その反動のせいだろうが、少し今回のタイトルで以前の記事をはり付けようと思ったのだが、それがすぐには見つからないので、ここにその内容を簡単に再論してみた次第である。

その桜で、司会者が「面白いこと」を話していた。桜に集まる「保守」の論者は今や少数派であるということ、安倍前内閣と菅現内閣は、「反日」的振る舞いをおこなっている、と嘆いていたのである。それは「反日」問題での発言であったのだが、そこに出席していたある論者の発言は、とくに私には注目される内容であったのだ。

すなわち、私たちは「自由」、「民主主義」、「人権」を支持し擁護している旨の物言いを、北朝鮮の「チェチェ思想」との関連から力説していたのだが、これはいわゆる「普遍的価値」と「普遍主義」を肯定的に受容していることを、この保守の論者がいみじくも表明しているのではあるまいか。

まさに〈「システム」とその関係の歩み」〉は、普遍的価値と普遍主義を具現化させた歴史であり、自己決定権を巡る「差別と排除の関係」を、覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから成る一つの「システム」に体現させたものであった、と私は拙書や拙論で展開してきたことであった。

残念ながら、「保守」を名乗る論者のほとんどがこの仕組みを理解できないのである。「新しい歴史教科書」に関わった西尾幹二氏も、『国民の歴史』の中で普遍的価値を肯定していたのだが、それは何を隠そう、〈「システム」とその関係の歩み〉を正当化・合法化することに手を貸す仕業である。

〈「システム」とその関係の歩み〉は、「グローバリズム」と「ナショナリズム」を相互補完的関係として対置されるように、両者をつくり出してきたのだが、それは、馬上の「ナポレオン」とそれに平伏す「フィヒテ」の関係に見事に象徴される。ナポレオンは、当時のグローバリズムを表わしていた「インター・ナショナリズム」を、フィヒテは、「ドイツ国民に告ぐ」に示されるナショナリズムを標榜していた。

私がこれまで強調してきたのは、グローバリズム(インター・ナショナリズム)は、相互に対立するのではなく、むしろ相互補完的関係を構成しているということ、さらにその両者は、〈「システム」とその関係の歩み〉の中で初めて実現すると同時に、その「システム」の関係史をつくり出すことに重要な役割を担っているということである。

こうした文脈の下で、21世紀のこれからの世界を簡単に語るとすれば、中国を始めとしたBRICsや東南アジアやアフリカの「途上国」(私のモデルのB、Cグループに該当する)は、今や「ナショナリズム」の歩みを、かつての先進国(モデルのAグループ)は「グローバリズム」の歩みを担い、その役割(〈「システム」とその関係の歩み〉における「高度化」と「低度化」のそれである)を果たしている最中ということになる。そしてこの両者が相互補完的関係を構成しながら、「三つ」の下位システムから成る「一つ」の〈「システム」とその関係の歩み〉を支えているのである。  

これに関して付言すれば、米中対立とか米中経済・貿易戦争、あるいは米国のトランプ大統領対中国共産党の対立・衝突といった、私たちの目にわかりやすく映る一連の出来事(劇)の、もっと深い水面下において、こうしたグローバリズムとナショナリズムの相互補完的関係が、{[B]→(×)[C]→×[A]}のモデルで描かれるように、〈「「システム」とそのっ関係の歩み〉を、着々と発展させ確固たるものにしているのである。

それでは先の話に戻ろう。上述したように、チャンネル桜は、日本の「保守」を自称した言論サイトであり、そこにはいろいろな「保守」の論客が集まっている。「尊王攘夷」という用語にからませて日本の「保守」を簡単に二分すると、尊王攘夷ならぬ尊王ナショナリストと、尊王開国ならぬ尊王グローバリストに大別されるが、この桜は、前者の立場に位置している。私が記事で時々取り上げている馬淵睦夫氏もこうした立場に位置している。

これに対して、小泉元首相や竹中平蔵氏、安倍前首相や菅首相は、後者の保守の立場に位置している。二階派の二階自民党幹事長は尊王グローバリストであり、親中派としても知られている。もっとも、桜や馬淵氏は、安倍前首相を前者の保守に位置づけているように見受けられる。

この桜の座談会では、馬淵氏もそうだが、出席者のほとんどが中国というか中国共産党とそのリーダーである習近平国家主席に対して、手厳しい評価をしている。彼らの見方によれば、中国は覇権国にはならない、なれないし、中国経済もいずれは行き詰まり、そこから中国国家の崩壊の可能性も否定できない云々の話となる。

こうした見解や主張に対して、私はこれまでのブログ記事や拙著において論述してきたように、オランダ、イギリス、アメリカといった歴代の覇権国の興亡史を鑑みながら、中国がやがては覇権国として登場し、覇権システムや世界資本主義システムの維持と発展に与ると同時に、覇権国はまた民主主義国家としても、世界民主主義システムを管理・監督する役割を担うということに関して論及してきた。

覇権国は「悪い」(民主主義国は「良い」)といった善悪の次元で語れるものではないという点も是非とも押さえておくべき大事なところである。私たちは、私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉の中で生きていかざるを得ないことから、自己決定権を巡る差別と排除の関係を前提とした世界・セカイの秩序とその役割を無視したり逆らっては生きていけない、生き残れないのだ。

それは歴代の覇権国も例外ではなかったし、今の中国国家と習近平国家主席も同様に、〈「システム」とその関係の歩み〉を維持・安定・発展させるために、彼らが果たすべき役割を引き受けざるを得ないのである。私が何度も語ってきたように、そしておそらく読者の不評を買ってきたように、中国の香港に対する、新疆・ウイグルやチベットに対する、さらには東シナ海や南シナ海に対する「強権的」な抑圧と支配も、まさにそうした歩みと切り離せないものであり、それこそ欧米諸国や日本が過去におこなってきた歴史であったのである。

私たちの過去の歴史を忘れ去って、何でもかんでも中国共産党とその指導者の責任として擦(なす)り付けるのは問題であろう。ましてやその中国と中国共産党と習近平国家主席の背後で、〈「システム」とその関係の歩み〉を担い、支えている私たち「システム人」が控えていることを不問に付するような議論では、とてもではないが、この世界にはびこり続ける強権政治や抑圧体制と真正面から向き合うことなど、できやしないのである。


(最後に一言)

今回は、以前のブログ記事を見つけられなかったので、少しここに簡潔に書き直してみた次第。私が二十歳前後の若者であったならば、この「チャンネル桜」の司会者の悲憤慷慨の物言いに共感を禁じを得なかったであろう。ただし、もし今の日本が中国や新興勢力の影響力の渦中に呑み込まれているその源を、それこそ探り求めていくのであれば、いわゆる普遍的価値とその世界大への拡大・浸透を目指してきた普遍主義と、そうした歩みを担い支えてきた歴代の覇権国とその傘下を構成した中心国、準周辺国、周辺国とそれら諸国に暮らす人々の「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史(これに関しては、拙書『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」』と、その88-91頁の図表とモデルを参照されたい)を俎上に載せて批判的に考察することが先ずは必要な作業ではなかろうか。

こうした作業を抜きにした、また不問に付したままでの中国共産党や習近平国家主席に対する批判は、それこそが批判のための批判としか言いようのないものであり、天に唾する行為でしかない、と私は理解しているのだが、こうした私の見解は、少数派にもならない、私自身のボヤキとして片づけられるに違いない。

 


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