私の語る「システム」論から、「南北(関係)問題」をつくり出してきた私たちの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の実現について再考するとき
「南北問題」は、世界資本主義システム論で語られるように、資本主義の形成と発展の中でつくり出される「中心ー周辺」関係から導かれるというよりは、むしろ、私たちの日常生活の中で、日々実践される「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の実現に見い出される「差別」と「排除」の「関係」それ自体に起因するものである。すなわち、絶えず、各人の、各国の「命と暮らしの安全保障の実現」のために、他人よりも、他国よりも、少しでも優位に立てる、安全・安心な地点を確保するために、常に「勝ち(負け)続けなきゃならない」セカイ・世界とそこでのセンソウ・戦争が常態化されるところとなり、そこから、相手(国)を、差別し、排除する関係の中で、より上位に位置する者(国)とより劣位に位置する者(国)との間に「支配ー従属」関係が構造化されることになる。これが、南北問題の根源的な原因を構成する、と私はみている。
これに関連して付言すれば、南北問題のみならず、世界で繰り返される紛争・戦争は、こうした私たちの日常の「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の実現に関係している、と私はみている。それゆえ、もし、私たちが、「本当に」、「平和」とされるものを望むのであれば、先ずは私たちの日々の生活の在り方にこそ、目を向けるべきなのだ。それこそが、「新しい生活様式」とされるべきものではあるまいか。
今回の記事は、前々回、前回の記事と関連するものである。少し前に前回の記事を投稿したのだが、その際に、少し思い浮かんだことを、書いてみた。ただし、内容は、これまでにも、私が書いてきたことばかりなので、読者にはつまらないかもしれないが、私には、新鮮な思いがしている。自己満足に過ぎないが、同じ内容でも、以前とは異なる何かを、ほんのわずかな違い(ズレ)がもたらす「何か」を感じられたことに、喜びを覚えた次第。
「南北問題」は、世界資本主義システム論で語られるように、資本主義の形成と発展の中でつくり出される「中心ー周辺」関係から導かれるというよりは、むしろ、私たちの日常生活の中で、日々実践される「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の実現に見い出される「差別」と「排除」の「関係」それ自体に起因するものである。すなわち、絶えず、各人の、各国の「命と暮らしの安全保障の実現」のために、他人よりも、他国よりも、少しでも優位に立てる、安全・安心な地点を確保するために、常に「勝ち(負け)続けなきゃならない」セカイ・世界とそこでのセンソウ・戦争が常態化されるところとなり、そこから、相手(国)を、差別し、排除する関係の中で、より上位に位置する者(国)とより劣位に位置する者(国)との間に「支配ー従属」関係が構造化されることになる。これが、南北問題の根源的な原因を構成する、と私はみている。
これに関連して付言すれば、南北問題のみならず、世界で繰り返される紛争・戦争は、こうした私たちの日常の「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の実現に関係している、と私はみている。それゆえ、もし、私たちが、「本当に」、「平和」とされるものを望むのであれば、先ずは私たちの日々の生活の在り方にこそ、目を向けるべきなのだ。それこそが、「新しい生活様式」とされるべきものではあるまいか。
今回の記事は、前々回、前回の記事と関連するものである。少し前に前回の記事を投稿したのだが、その際に、少し思い浮かんだことを、書いてみた。ただし、内容は、これまでにも、私が書いてきたことばかりなので、読者にはつまらないかもしれないが、私には、新鮮な思いがしている。自己満足に過ぎないが、同じ内容でも、以前とは異なる何かを、ほんのわずかな違い(ズレ)がもたらす「何か」を感じられたことに、喜びを覚えた次第。