日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「立て看板」で竹中平蔵氏を批判した東洋大学の学生にエールを送りたい

2019-01-24 | 社会 政治
「立て看板」で竹中平蔵氏を批判した東洋大学の学生にエールを送りたい

まだ見ぬ君に。是非ともお会いして話をしてみたい、と久しぶりにそう思った。とにかく立派である。学生の鏡、教師のかがみと言うべきか。

今の時代は、ろくな研究もしてこなかった者が、どいつもこいつもお友達の輪で、お互いに支えあって、大学の中を大手を振って歩いている。とるに足らないのが大学教授の肩書でマスコミに登場して、平気で嘘を垂れ流し続けている。

真面目に研究してきた大学院生がかわいそうだ。研究という言葉は死語と化した感が強い。あなたの怒りはもっともだ。「半部の理」はある。ただし、竹中氏にも「半分の理」があるのではあるまいか。

この「半分の理」と言う表現に、あなたは納得されないかもしれないが、「立場」が異なれば、またそれが代弁する「理」も変わってくるし、すべて自分の「理」が正しいとは、やはり主張できないのではないか。「理」と「利(害)」は悲しいかな、切り離せないし、「利」に裏打ちされない「理」はおよそ空虚とならざるを得ない。どんなに腹立たしいことだとしても。

ただ、そうは言うものの、今の時代の問題点は、あなたの半分の理がほとんど無視され、隅の方に押しのけられる中で、竹中氏の半分の理がその半分を超えて、ほとんど世の中のすべてを覆いつくしている所に見出せるのではあるまいか。

そんな窒息状況の中で、あなたは自らの存在証明を、立て看板でもって自己表現することで示したのだ。素晴らしいことではないか。

私には何の力もないが、それでもあなたのすぐ横であなたを微笑みながら見守っていることだけはお伝えしておきたい。

世の中、捨てたものではない。東洋大学の中に、あなたを陰ながら応援している先生や学生はいるはずだ。それが大きな声にならないのも確かだが、必ずあなたの支持者はいるはずだ。

立場上、あなたに強く当たらざるを得ない人たちがいる。それも確かなのだ。卑怯と言われても、生きていくために、そうせざるを得ないのだ。残念なことだが、それも仕方がないのだ。

それはそれでいいのだ。あなたはこれからあなた自身のために生きていけばそれでいい。偉そうなことをあなたに言える立場でないのは、重々承知だが、兎に角あなたに伝えたかったのだ。ありがとう、私も踏ん張れるだけ、生きていくよ。まだ見ぬ君に、ありがとうを言いたかった。


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