日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

あのシステムと同様に学校も監獄なのである。(1)

2019-01-22 | 社会 政治
あのシステムと同様に学校も監獄なのである。(1)

また痛ましい事件がおきた。いじめを苦にして小学2年生の女児とその母親が無理心中していたことをマスコミ報道で知った次第である。父親は学校と市の教育委員会を相手にこれから裁判に臨むのだろう。

何度同じことを私たちは繰り返せばいいのか。どうしようもない思いを私は抱いているが、昨年の7月2日のあの事件を体験した私にはとても他人事とは思えない。付言すれば、これまでの私の研究とそこで展開してきた国際的、国内的な社会的人間関係、つまりは政治的、経済的、文化的、社会的な人間関係がつくり出す差別と排除の関係を、具体的に私が自らの身体を介して追体験する出来事でもあったのだ。

ところで、私は久しぶりに盲学校の生徒として学校に戻った。この間何回かは戻っていたが、やはり帯状疱疹でどうにもならず、学校から遠ざかっていた。学校というところは、昨年の1学期までのいい生徒を演じてきた私にとって、今ではは拘置所と言うか監獄である。

おかしなものだ。自分がこれまで論及してきたあのシステムがまさに私たちを強制的に動員、連行してきた監獄であったのだから、その下位機関と言うか下位組織としての学校もまさにそうであるのに、今の私の重いほどは少し切迫感が薄かったのだ。

おそらくは、どんなに弁明しても他人事でしかなかったのだろう。あるいは、私自身がシステムに向き合うことを回避していた、あるいはもうそんな力ものかもしれない。そんな私があの事件を体験して、また覚醒せざるを得なかったのだ。

いまなら少し不登校の生徒の気持ちがわかるような気がする。たとえ、学校が牢獄であったとしても、現実には何ら変化がないとしても、より苦痛の少ない場所を選択する可能性まで否定されているとは考えたくないのだ。たとえ、卒業後の選択肢が少なくなってしまうとしても。と、すぐ前に書いたことが実際には難しいということを、不登校の生徒の一人として、以下に述べていきたいのだが、目がもう限界なので、今回はここまで。

それでも我慢して一言。勿論、このような記事は安倍首相や文科省の官僚には、到底認められないし、奇人変人の戯言として一笑に付されるだけだろう。それは野党の政治家や護憲派の市民運動に従事する人たちも、おそらくそうだろう。


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