虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

おりこうさんから、乱暴な子に急変する2歳児にどう対応すればいい?

2011-09-27 19:54:28 | 0~2歳児のレッスン ベビーの発達

聞き分けのいいおりこうさん……と思いきや、突然、噛んだり、物を投げたり、突き飛ばしたり……

と態度が急変する2歳児というのはけっこういます。

 

2歳だから、そんなもの……ともいえるのですが、

接し方を少し変えると、

気になる行動が激減するかもしれません。

 

天使から小悪魔に、態度が急変する子というのは、

自分の気持ちを表現する前に

言葉で大人に指示を与えられて、

何だかすっきりしない気分のまま動かされている子が多いです。

 

子どもの表情には、いきいきとその子の心の変化が浮かんでいます。

でも、子どもを目に入れても痛くないほど可愛がっている親御さんなのに、

可愛いから余計なのか、

子どもの気持ちの変化を読み取るより先に、

あれこれ指示を与えてしまう方がたくさんあるのです。

 

指示といっても「あれしなさい」「これしなさい」と命令しているわけではありません。

たとえば、2歳になったばかりの○くんがわたしの方におもちゃの電車を持って近づいてきて、

何か訴えようとしているとします。

その表情には、先生に電車を「はいどうぞ」ってしようかな?

「先生、電車でいっしょに遊ぼうよ」ってしようかな? と

その子なりのそれまでの経験した働きかけのなかから何を選んで仕掛けようかと迷いつつ、

「こちらに何かを働きかけたい!」といういきいきとした気持ちの高まりが感じられるシーンで、

いきなり、「先生に、電車をはいどうぞは?」とか「先生、いっしょにあーそーぼーでしょ」と

先に子どものアウトプットを限定してしまう方がいるのです。

お友だちとの遊びやおもちゃで遊ぶシーンでも同様のことが

たびたび見られます。

 

子どもが、こういうことかああいうことをしそうだな……

という予感は見えているけれど、まだ何の行動もしていないし、自分の気持ちも表現していないのに、

先に親の望む形の子どもの行動を口にしてしまうのです。

 

そうして先にすることを指示されてしまうと、それまでいきいきと輝いていた子どもの表情には、

一瞬、とまどったような混乱した無表情が現れて、

次には、機械のように大人の指示通り動こうとする態度が続きます。

 

そうした対応を親からしょっちゅう受けている子は、

良い子過ぎるほど良い子でいたかと思うと、

突然、態度が急変して、噛んだり、物を投げたり、突き飛ばしたり、ひっくりかえって親を困らせることばかりしたり、

冷淡な表情で意地悪をしてみたりします。

2歳前後の子はわがままで自己中心的なのが普通ですから、

それほど心配することはないのですが、

年齢の割に聞き分けが良過ぎたり、礼儀正し過ぎたり、素直過ぎる態度から、

ワルワルモード全開に態度が急変する子というのは、

その子の自然な感情の体験や自然な自分の意志で動く体験が

大人の声かけでたびたびゆがめられているケースが多いです。

 

目と目を合わせて、

気持ちをやりとりさせるような「おふざけや遊びのやりとり」の体験が少ないようで、

人とのやりとりのレパートリーが限られています。

 

「おふざけや遊びのやりとり」というのは、

お母さんとふたりで、「どーうーぞ」「ありがとう、パクパク」「はいどーうーぞ」とごっこ

遊びのように物を行き来させたり、

「あげようかな?どうしようかな?はいあげる、やっぱりやーめた」といった

じらしたり、相手の出方をうかがったり、親切にするのを楽しんだり、すぐに得したりといった

うそっこの物のやりとりをすることです。

 

行動に遊びが少なくて、良い子と悪い子の両極端にぶれる子は、

いきなり大きな子たちの現実の世界のように、

「けちんぼしないの。はい、どうぞしなさい」という

子どもの心がショックを受けるような本番の体験しかしたことがないという子が多いです。

幼い子たちというのは、ごっこ遊びのような夢の世界に半分足を突っ込んで

暮らしている人種ですから、

いきなり大人の世界のルールをつきつけられてばかりいると

心がぎすぎすして、乱暴になってきます。

 

犬にしつけるように

これはマル、これはバツと、正誤を教え込んでいくのではなくて、

子どもが表現するものをしっかり受け止めて、

優しい子どもの身の丈に合った対応で返していると、

幼くてもちゃんと、その時々の場面にふさわしい態度をまねっこしていきます。

 

どうしたらいいのかな?どこから10円を入れるのかな?

と考え込んでいる2歳少し前と2歳になったばかりの男の子。

ブロックのお片付けも、本人の気持ちの流れを少しだけ待ってあげると、

自分からはりきって片付けはじめました。

↑椅子の脚を折り曲げたいけれど、ぐっと手に力を入れて握るところが

難しいのです。でも、何がどんな風にしたいのか、子どもの気持ちをしっかりと聞いて、

手順をゆっくり見せてあげて、それでもできないかどうかの見極めは本人の

判断に任せていると、

すっきりと納得しました。

 

 

 

 

 


教育と学習方法について考えること (息子とおしゃべり) 5

2011-09-27 16:34:43 | 初めてお越しの方

息子が学校の平等主義を批判していたのを受けて、

わたしは息子に自分が小学校時代に体験したことと、それによって起こった自分の

心に内部の体験と、それと関連する最近読んだ雑誌の記事について話しました。

 

小学6年生の時、ハンディーキャップを持っているひとりの女の子と同じクラスになったのです。

その子はたびたび教室を飛び出していき、担任の女の先生は、わたしたちに自習をするよう言い渡して、

その子を追いかけていくことがありました。

わたしはその先生の担任になるまで、授業中に手遊びしているか、

窓の外を眺めているか、ぼんやり空想に浸っているかしているような困った生徒でした。

まぁ、その先生が担任の時も、クラスの友だち数名といっしょに

授業中に交換日記を回していた容疑で『終わりの会』の裁判にかけられていた

くらいですから、きちんとしているとは言い難かったのですが……。

 

その先生はただ教科書を教えるのではなくて、

みなが自分の頭で考えるように促すように教える先生だったので、

わたしなりにはちょっとはしゃんとして、夢中になって授業に参加するときが増えていました。

それはクラスの他の子らも同じで、クラスの中には勉強に対する

能動的にかかわろうとする態度や愛情のようなものが、満ちているように感じられました。

 

それで学力という面では、当時の親たちはおそらく不満を抱いてはいなかったはずですが、

自習が増えている点へのクレームはたくさん出ていたようです。

何度か親たちと先生の意見交換の場や子どももいっしょに参加する形の説明会が

持たれていました。

子どもたちも参加している説明会で、先生は黒板に2つの鍋の絵を描き、

一方を塩の足りないスープ、もう一方を順調に煮立っている味が整っている

スープなのだと言いました。

それから、わたしはひとりひとりの子を大切に思うし、

ひとりひとりの子の成長をていねいに見ていて、

そこで、味が足りないものがあれば塩を足し、

おいしくできているものには塩は足さずに見守るように

しているのだと言いました。

先生がスープの比喩で、誰のことをどのように説明しようとしているのか、

子どものわたしにもよくわかりました。確かに授業は自習になることはあっても、

放課後になると先生は、何だかしゃべりたい気持ちが溜まっている子がいると

そこに行ってゆっくり話を聞いていましたし、

わたしたちが口げんかをして揉めると、どちらの言い分にも耳を傾けてくれました。

 

そんなわけで、わたしがその体験の中で考えていたことというのは、

「先生っていうのは、うちのお母さんとかより

自分の考えとか信念ってものがあるんだな。

灰谷健次郎のお話に出てくる人みたいだから。

うちのお母さんは、○さんのお母さん(自分の子を学校の劇の主役にするために、

少しこすい手を使ったとうわさされていたクラスの子のお母さん)よりずっと普通の

お母さんだと思っていたけど、ちょっと馬鹿なところがあるんだな。

その馬鹿ってどんな馬鹿かというと、井の中の蛙大海を知らずっていう

ことわざの蛙みたいな種類のお馬鹿加減で、いつも団地の前に集まって

そこから見える世界が全ての世界のように思ってるから、

あんな風に考えるんだな。だって、学校に講演会に来た植村直己さんみたいに

世界の果てまで冒険に出かけたとしたら、授業中に誰かが飛び出して行ったとか、

自習が少し増えたくらいであんな大騒ぎするはずないもの。

先生が見ていないところで自習しているときも、みんなきちんと勉強しているのに。

わたしたちはもう6年生で、教科書を見れば字も読めるし、計算問題を解いていくくらい

自分たちでできるのに。それにきちんとしていなければ、クラス委員の子が騒いで

学級会でみんなから責められるだろうに」

 

わたしは担任の先生が好きだったので、先生の肩を持つようなところがあったし、

ちょうど思春期に差し掛かる時期で、それまで完全ですばらしい人のように見えた母の魅力が

急に色あせて感じられるときでもあったので、

そんな辛口批評が心に湧いたのでしょう。

 

一昔前のことでもあるので、先生が正しいのか親たちが正しいのか、

賛否のほどは脇に置いておいて、

この体験のなかで、わたしは、他人が見ていないところでもきちんと自分の義務を果たそうと思う

責任感のようなものを意識しました。また、少し視野や世界が広がったような気もしました。

 

親たちが危惧していたように、ハンディーキャップがある子がいっしょにいると

いっしょになって遊んだり怠けたりしたがるようなことはありませんでした。

先生のわたしたちに対する信頼感や期待にきちんと応えていこうとする

気持ちがありましたから。むしろ、わたしたち子どもにはそんな心など

存在しなくて、人が見ていないところでは、まるでしつけのなっていない犬のように

振舞うだろうと疑っている親たちに対して、

ちょっと幻滅していました。

「じゃあ、わたしたちが国語の教科書で習っているものは何なんだろう?

わたしたちは、幼稚園のころ読んだ『ひとりでおるすばん』

なんて絵本よりずっと複雑な心を扱った物語を

習っているというのに……」

 

 

わたしは息子に、そんな子ども時代の体験と心で感じたことを話した後で、

こんなエピソードも聞かせました。

「雑誌でこんな話を目にしたのよ。親の事情で病院での診断は受けていないものの

自閉症と読み障がいが重なっていると思われる子がいて、養護教員が1年生のときから

教科書にふりがなをふる対応を続けていたそうなの。

それで、その子は4年生まで続けていたその対応のおかげで、

何とか戸惑うことなく学校生活を続けていたんだって。

でも、それまで他の保護者から、どうしてその子だけ、

ふりがなをふってもらえるのか? という苦情が

届いていたらしくて、悪い対応例なんだけど、

特別支援教育コーディネーターの判断で、医療診断がないから特別な支援の

打ち切り……ということになったらしいのよ。

診断がない子同士、不公平があっちゃいけないとかなんとか。

どんな平等感かって驚いてしまうんだけど。

 

同じ紙面に、生徒の学び合いを大事にしていた教師が授業中に解けた

生徒が解けない生徒にわかりやすく教え合うという授業をしたところ、

他クラスより学習進度が遅れたそうで、

親たちから、わからない子どもは放っておいて、授業を進めてほしい、と言われて

辞職した話も載っていて、

勉強って、個別に他人より先に進むことなのか、

子ども時代に学ぶことって、それだけなのかって、自分の子ども時代の親たちに

してもやっぱり心が狭かったな~と思いだして悲しくなったわ」

 

息子 「ぼくが小学生の頃、学校の先生たちは、勉強をさせたり、規則を守らせたりする

ために、年がら年中、損得勘定を刺激するようなことばかり口にしていてさ。

勉強しないければ……規則を守らなければ……将来、どんなに悪いことが起こり、

他人から迫害されるような人生を歩むのか、繰り返し洗脳するように言い続けていたわけだけどさ。

そうして強迫概念を刷り込まれて成長していけば、

そういう考えをする大人になるだろうし、そういう考え方をする大人に囲まれていれば、

勉強ができない人や規則を守れない人は迫害したっていい、

切り捨てていけばいいと思うようになるよ。

でも、子どもって学校で習得する学習過程をこなしていく存在ってだけじゃなく、

人間の活動全てに関わる無限の存在でもあるんだよね。

ひとことで子どもといったって、人間としての全ての要素を持っているんだから。

どんなに小さくたって、死ぬ苦しみも、生きるってことも、何が良くて何が悪いかと道徳的に判断していくことも、

音楽も映画も、お金に関わることも、人とのつながりも、環境とのかかわりにしても……

そのどれもひとりの子どもに含まれているからね」

 


図形問題が苦手な アスペルガー症候群の子への教え方 

2011-09-27 16:07:42 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

アスペルガー症候群の小学4年生の☆ちゃんのレッスンで、角度や平行、垂直について

学びました。

図形問題が得意なアスペルガー症候群の子もいますが、

苦手な子はとことん苦手です。

どうも線の上をスライドさせるように目を動かしたり、

いくつかの線の中からひとつの角度を見つけ出したりするのが苦手なようです。

 

面積の公式をいつまでも覚えられないときも、

直角とそうでない角の見分けがつかなかったり、

縦と横の辺がどこにあたるのか、捉えにくかったりするのです。

 

今回☆ちゃんが最初につまずいていたのは、

図形の中から垂直に交わる線と並行な線を見つけだすことです。

 

そこで、手で平行と垂直を作る方法を教えると、

ようやく納得しました。

 

目で見るだけでは、なかなか理解できないとき、

手を使って教えると、さっとわかるときがあります。

3ケタ÷1ケタの割り算で、答えを書くケタをよく間違えるときなども、

手で今は不要な数を隠し、交通整理でもするように、「ピッピッピッ、こちらですよって

数字を寄せるのよ」と言うと、いつも迷っていた子が

すっとできるようになるときがあります。

 

 

 

 

同位角や錯覚や対頂角を見つける作業が、

非常に苦手だという

アスペルガー症候群の子もけっこういます。

いくつかある情報のなかから、大切なものをピックアップするのが

難しいのです。

写真のような角度を見つけて遊ぶ教具を作ると、

楽しく取り組めるかもしれません。

 

 


教育と学習方法について考えること (息子とおしゃべり) 5

2011-09-27 09:00:40 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

わたしは息子に自分が小学校時代に体験したことと、それによって起こった自分の

心に内部の体験と、それと関連する最近読んだ雑誌の記事について話しました。

 

小学6年生の時、ハンディーキャップを持っているひとりの女の子と同じクラスになったのです。

その子はたびたび教室を飛び出していき、担任の女の先生は、わたしたちに自習をするよう言い渡して、

その子を追いかけていくことがありました。

わたしはその先生の担任になるまで、授業中に手遊びしているか、

窓の外を眺めているか、ぼんやり空想に浸っているかしているような困った生徒でした。

まぁ、その先生が担任の時も、クラスの友だち数名といっしょに

授業中に交換日記を回していた容疑で『終わりの会』の裁判にかけられていた

くらいですから、きちんとしているとは言い難かったのですが……。

 

その先生はただ教科書を教えるのではなくて、

みなが自分の頭で考えるように促すように教える先生だったので、

わたしなりにはちょっとはしゃんとして、夢中になって授業に参加するときが増えていました。

それはクラスの他の子らも同じで、クラスの中には勉強に対する

能動的にかかわろうとする態度や愛情のようなものが、満ちているように感じられました。

 

それで学力という面では、当時の親たちはおそらく不満を抱いてはいなかったはずですが、

自習が増えている点へのクレームはたくさん出ていたようです。

何度か親たちと先生の意見交換の場や子どももいっしょに参加する形の説明会が

持たれていました。

子どもたちも参加している説明会で、先生は黒板に2つの鍋の絵を描き、

一方を塩の足りないスープ、もう一方を順調に煮立っている味が整っている

スープなのだと言いました。

それから、わたしはひとりひとりの子を大切に思うし、

ひとりひとりの子の成長をていねいに見ていて、

そこで、味が足りないものがあれば塩を足し、

おいしくできているものには塩は足さずに見守るように

しているのだと言いました。

先生がスープの比喩で、誰のことをどのように説明しようとしているのか、

子どものわたしにもよくわかりました。確かに授業は自習になることはあっても、

放課後になると先生は、何だかしゃべりたい気持ちが溜まっている子がいると

そこに行ってゆっくり話を聞いていましたし、

わたしたちが口げんかをして揉めると、どちらの言い分にも耳を傾けてくれました。

 

そんなわけで、わたしがその体験の中で考えていたことというのは、

「先生っていうのは、うちのお母さんとかより

自分の考えとか信念ってものがあるんだな。

灰谷健次郎のお話に出てくる人みたいだから。

うちのお母さんは、○さんのお母さん(自分の子を学校の劇の主役にするために、

少しこすい手を使ったとうわさされていたクラスの子のお母さん)よりずっと普通の

お母さんだと思っていたけど、ちょっと馬鹿なところがあるんだな。

その馬鹿ってどんな馬鹿かというと、井の中の蛙大海を知らずっていう

ことわざの蛙みたいな種類のお馬鹿加減で、いつも団地の前に集まって

そこから見える世界が全ての世界のように思ってるから、

あんな風に考えるんだな。だって、学校に講演会に来た植村直己さんみたいに

世界の果てまで冒険に出かけたとしたら、授業中に誰かが飛び出して行ったとか、

自習が少し増えたくらいであんな大騒ぎするはずないもの。

先生が見ていないところで自習しているときも、みんなきちんと勉強しているのに。

わたしたちはもう6年生で、教科書を見れば字も読めるし、計算問題を解いていくくらい

自分たちでできるのに。それにきちんとしていなければ、クラス委員の子が騒いで

学級会でみんなから責められるだろうに」

 

わたしは担任の先生が好きだったので、先生の肩を持つようなところがあったし、

ちょうど思春期に差し掛かる時期で、それまで完全ですばらしい人のように見えた母の魅力が

急に色あせて感じられるときでもあったので、

そんな辛口批評が心に湧いたのでしょう。

 

一昔前のことでもあるので、先生が正しいのか親たちが正しいのか、

賛否のほどは脇に置いておいて、

この体験のなかで、わたしは、他人が見ていないところでもきちんと自分の義務を果たそうと思う

責任感のようなものを意識しました。また、少し視野や世界が広がったような気もしました。

 

親たちが危惧していたように、ハンディーキャップがある子がいっしょにいると

いっしょになって遊んだり怠けたりしたがるようなことはありませんでした。

先生のわたしたちに対する信頼感や期待にきちんと応えていこうとする

気持ちがありましたから。むしろ、わたしたち子どもにはそんな心など

存在しなくて、人が見ていないところでは、まるでしつけのなっていない犬のように

振舞うだろうと疑っている親たちに対して、

ちょっと幻滅していました。

「じゃあ、わたしたちが国語の教科書で習っているものは何なんだろう?

わたしたちは、幼稚園のころ読んだ『ひとりでおるすばん』

なんて絵本よりずっと複雑な心を扱った物語を

習っているというのに……」

 

わたしは息子に、そんな子ども時代の体験と心で感じたことを話した後で、

「雑誌でこんな話を目にしたのよ。親の事情で病院での診断は受けていないものの

自閉症と読み障がいが重なっていると思われる子がいて、養護教員が1年生のときから

教科書にふりがなをふる対応を続けていたそうなの。

それで、その子は4年生まで続けていたその対応のおかげで、

何とか戸惑うことなく学校生活を続けていたんだって。

他の保護者から、どうしてその子だけふりがなをふってもらえるのか?という苦情が

 

 

 

 

 

 

 

 


教育と学習方法について考えること (息子とおしゃべり) 3

2011-09-26 11:36:42 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

わたしの話を聞いていた息子は、次のように言いました。

 

息子 「ぼくは言語には欠陥があって、

その欠陥に無自覚なままで言語主体の話合いを続ければ、

いろいろな誤解が生じてくるのは仕方がないように思うよ。

 

言語の欠陥を補うために、数学的な考え方や数学の世界の言語を

議論に取り入れるといいように思うんだ。」

 

母  「言語の欠陥って?」

 

息子 「言語というのは、物と物と比較する上で勘違いを起こしやすいからね。

たとえば、ある政治家がひとこと言い間違いを犯して、

メディアや国民からいっせいに非難を浴びるとするよね。

で、そのひとことの重さというのは、その政策全体の価値に対して

どれくらいの汚点にあたるのか、

言語はそうした数値的な比較を背景に遠のかせて、

人々の関心や感情やメディアのその時期の注目度によって

その価値を調整していくじゃんか。

 

数学の世界で名著と言われているものの場合、

それを理解して良し悪しを決定するのは

数学について、ある一定の理解の基準を満たしている人々になるから、

名著と評されているものが正しく名著である確率は高くなる。

 

でも、国語の世界は母国語であれば

よくわかっていなくても、わかった風なことを言ったり、評価する立場になることは

可能だよね。

場合によっちゃ、正しく理解している人が2割、わかっていない人が8割

なんて状態で、

物の良し悪しが決められることだってあるんだから。」

 

母 「言語は、錯覚や勘違いを含みやすいから、数学の世界の言葉を議論に取り入れるってどういうこと?」

 

息子は紙に一部が重なっている2つの円を描きました。

 

息子 「お母さんが、今、仕事上での考えている上での立ち位置っていうのは、集合のべん図で表すと

この重なっている部分にあたるんだよね。

それか、もうひとつ円を加えて、この3つ目のCの円を含む3つの円が重なる部分を除く

最初のAとBの円が重なっている部分ってことのなるのかもしれない。

つまり、数学の世界の図で描くと、それは当然過ぎるくらい当たり前の

ある部分なんだ。

 

でも、それが言語主体の話合いだけで進めていると、

A派に属することが、そのままB派と重ならないことを意味するような

関係しかないように受け取られがちなんだ。

 

数学は同時にいくつかの関係を表現できるけれど、

言語はその都度、ひとつを選んで、表現するものだからね。

 

数学の世界ではAの方程式とBの方程式が存在するときに、

 問題によりけり、条件によりけりで、この場合はAで解くべきか、Bで解くべきか、

AB両方を複合させて解くべきか、AでもBでもダメなのか、

AとBをベースにして全く新しいメタな解決法を必要としているの

かっていう選択が、ごく当たり前の前提として存在している。

 

そこには流行も人の感情も、時代の空気も、その評価に参加する

人々の能力のばらつきというものにも振り回されず客観的に

物を考えていく道具としての数学の長所が生かせるんだ。

 

もちろんそうして全体を把握した上で思考するのも

決断するのも人間なんだけど、

議論の途中で言語の持っている欠陥によって

問題の解決がうやむやになるなんてことはあまり起こらない。

 

ぼくが物を考えるときに、頭の中にマインドマップのようなものを思い浮かべるけれど、

よくあるマインドマップのように中心があって、

それから枝葉を広げていくようなものではなくて、

相関図のようにたくさんの中心があって、それらのどれが主体となるわけではなく

矢印によって関係が示されてイメージなんだ。

 

そうしてまず、全てを平等に価値のある概念として

イメージ上に配置した上で、それらがどのような関係を創り出しているのか、

矢印を行き来させて、考えていくんだよ。

社会学や世界情勢についてや、教育の問題なんかについて考えるときも、

そうしや相関図やグラフや表やベん図や線分図なんかで

いったん感情を入れずに全ての情報を洗い出してみてから、

ファジーさや柔軟さを残した状態で、どのように感じて、どのように思うのか、

考えを練っていくんだ」

 


教育と学習方法について考えること (息子とおしゃべり) 2

2011-09-26 09:30:02 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

我が家の性格タイプを大きくふたつに分けると、ダンナと娘は似たところがずいぶんあって

私と息子は物を考えるときのプロセスや好きなものとの関わり方など

共通点がたくさんあります。

ダンナも娘の社会に適応するのが上手で、多数派と楽しく、一方できちんと自己主張しながら渡り合えるタイプで、

私と息子は人づきあいは苦手じゃないけど、たいがいが少数派に属していて、

マイペースで何でも自己流にするのが好きなタイプです。

 

ダンナも娘も目的や目標が決まると、その達成に向けて、

情報を集めて、それを見比べて、テキパキと選択していって、

そこで浮上した問題点について話し合い、

即座に判断して解決するやいなや、

実行に移すためにさっさとその場を立ち去る……という忙しい方々。

 

その素早い動きに噛み合ったためしがない私と息子は、

どう転んでも大差がないような話題で延々と議論しあって、

行き着く答えが、息子の言葉を借りると、

「あらゆる物事に、ファジーさとか柔軟さといった不確かさを含めておく態度が大事だと思うよ」

なんて、スパッと決断したい人々からすると『ふりだし』に戻ったような結論。

 

そんな不毛とも見える議論も、現代国語の成績アップにつながったというのなら

あながち無駄ではないのでしょう。

 

息子とわたしはユングのタイプ論で分類するなら、

おそらく内向的直観型と思われますが、

私はどちらかというと思考を使うよりも、感情で捉えたことを実践の場で使うのが得意なので、

内向的直観型の感情寄りなんじゃないかと思っています。

 

息子は物事を直観で捉えると同時に、

それらを思考で分析して、それを苦もなく言葉で言い表すことができるので、

おそらく内向的直観型の思考寄りの子ではないかと思っています。

 

息子が、「あらゆる物事に、ファジーさとか柔軟さといった不確かさを含めておく態度が大事だと思うよ」

と感じるようになったのは、

受験で地理の勉強を進めるうちに、強くそう思うようになったのだとか。

 

息子 「地理を勉強しているとね、ルワンダとかナイジェリアとか……

戦争が絶えず起こっている理由に、正しいか正しくないかひとつの答えを正しいもの

として決定してしまうこと、

つまりAの民族には得になるけれど、Bの民族には損することが確定するような

政策を正解として置いてしまうことにあると思うんだ。

正しさはある物差しを使えば確実に思えるものも、

視点や立ち位置が変われば、その正誤のほどがあいまいになるものだよ。

お母さんもそうだろうけど、たとえば、UFOについての大発見があったとして、

その情報の正しさに納得ができたとしても、それに対しての自分の考えはあいまいにしておきたい、

もう少し不安定がグラグラした部分で経過を眺めていきたいと思うんじゃないかな。

これはこうと決めつけずに、傍観者の立場でいたいときがあるんだよ。」

 

母 「それ、お母さんの仕事で今まさに感じていることよ。

お母さんは教育や子育てや療育の世界が、

個体能力を伸ばそうとする発達促進の考え方傾き過ぎているために

多くの問題が生じていると思っている側の人間よ。

関わりをキーワードにして、根本的な大人の子どもに対する構えや眼差しの見直しが

必要だと思っている。

でも同時に固体の発達促進や子どもの社会に出てからの幸福のために

真剣に悩みつつ仕事をしてこられた方々の考え方を尊敬しているし、

私自身が子どもと1対1で接するときには

その潜在的な能力が最大限に開花することを願ってもいるの。

そんなお母さんの態度は、どちらを支持する方にとっても優柔不断で

反対派と融合しすぎているように映るでしょうけど、

お母さんの中にはひとつの物事に対する自分なりの態度があって、

いつも相反するふたつのものを微妙な加減で調整をしているの。

可逆性ってわかる?」

 

息子 「うん、だいたい。矢印で言うと、こうでこう?」と息子は手で矢印を行き来させました。

 

母親 「お母さんは数学や物理の世界で、可逆性という言葉を捉えているわけじゃなくて、

メルロ・ポンティーの本で可逆性とか両義性って言葉に触れて、

想像を膨らませてその世界にひたっているとき、

あくまでも雰囲気で考えているんだけど、

物事のどちらかひとつに賛成して、それと同時に別の立場を全否定してしまう

ってどうなのかなって思えてくるのよ。

現実はそんなに簡単に線引きできることばかりじゃないから」

 

次回に続きます。


教育と学習方法について考えること (息子とおしゃべり) 1

2011-09-26 06:12:44 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

 ←(春の山)

 

息子と私だけで夕食をとる日だったのもあって、晩の家事はパスして、

近所のイタリアンの店に外食をしに行くことにしました。

息子は夏の間、苦手科目の足踏み状態が続いていたらしく、

焦る様子はないものの本人なりに苦しんでいたようなのですが、

9月に入ってすがすがしいほど明るい表情で受験勉強に向かうようになっていました。

 

お店に向かう道すがら、こんな話をしました。

 

息子 「このところ夏の不調がウソみたいに調子がいいよ。あっ、そうだ。

忙しくて国語が手つかずになっていたんだけど、

久しぶりに赤本に目を通してみたら、

急にできるようになっていてさ。

それが勉強とは別の問題でも、お母さんとひとつのことを突き詰めるまで

さんざん議論したのが良かったみたいなんだ。

メタな視点から問題を捉えて、どのように答えをまとめたらいのか見えるようになった。」

 

母  「そうそう、議論って本当にいいわよね。今日もレッスンに来ていた年中さんたちと、

『少し』とか『ちょっと』ってどれくらいのことなのかって議論をしていたんだけど、

どの子も『たくさん』と捉える量は状況によって変わるから、

どれだけを全体量とするかや、誰の視点で

『1の量』を捉えるかで、少しやちょっとが相対的に変化することがわかっていて、それを

道具を使ってきちんと説明してくれたのよ。

議論をすることって、とっても楽しいし知的ないい刺激になると思うわ」

 

息子 「そうだね。議論は大事だ。夏の一時期、受験のプランの王道ってのに

無理に自分を合わせようとして、

やってもやっても確実に伸びている実感が湧かなくて悩んでいたんだけど……。

この数週間で自分なりの方法を確立したら、

ようやく勉強が軌道に乗りだしたよ。

 

自分なりの方法って、自分自身の内面でする議論のようなものなんだけど、

問題の数をこなすのではなくて、ひとつのことについて

とことんしゃべるように分析するんだよ。

 

たとえば、この間、解いていた東大の数学に問題にしても、

解答に行きつくまでに100のプロセスを踏まなくてはならないとしても、

そのひとつひとつを分析すれば、

要は小学校低学年で学ぶような足し算でさ、最終段階からひとつひとつ

遡るとすると、とてつもなく簡単なんだ。

それじゃ、そんな簡単な問題を解くのに何が求められているのかというと、

それを導き出す思考のプロセスを思いつく力でね。

それには多量の問題をこなすよりも、ひとつの問題について、

最小単位まで条件を分けていきながら

分析してみると身についてくるよ。

たとえば、英語の文章を見たときにも、これは不定詞を使っていて、

こうとも読み取れるし、

こうとも言えるし……と、いった具合に、少量であっても、

これ以上分けれないってところまで分析して

見ていけば、どの問題も結局はほとんど同じような構造でできていてさ。

よく考えもせずに、多量に問題をこなすことに気を取られずに、

いったんそこに立ち止まることをよしとする

気持ちの余裕さえ持てたら、難しい問題なんてただの見せかけなんだよ。

そうはいっても、現実の受験勉強はたやすいことじゃないけどね。時間も努力も能力もまだまだ足りない。」

 

母 「私もひとつひとつの経験を大切にするようにすると、

そのひとつはどの物事にもつながっていくのを日々、実感している。

たとえそれがごっこ遊びでも、工作でも、ひとつの体験に深く自分自身を投じたら、

そこから得るものは、何冊分ものワークに勝るわよね」

 

息子 「あれもしなくちゃ、これもしなくちゃという焦りを手放して、好きな数学に時間をかけてみたら、

数学の勉強が他の教科の学習を急に簡単にしてくれるんだ。

最近、思うんだけど、数学って答えを出すものじゃなくて、

ややこしく絡み合って見えにくくなって前面しか見えなかったものの

背景からそのものを浮き立たせたり、シンプルにして見えやすくするものだなって。

 

数学は虫眼鏡のような道具にもたとえられるよ。

数学を解くというパズルのような対象ではなく、

虫眼鏡のような物事を見えやすくする道具として利用するとさ、

どの教科の勉強も急に扱いやすくなるんだ。

この頃、これは図やグラフにできそうもないというようなものも、嘘や適当なものでもいいから

とにかく図やグラフや相関図なんかにしてみるようにしているんだ。

すると、これは解決しようもない、これは理解できないというややこしさを

持ったものも、数学の言葉を使えば驚くほど簡単に説明できてしまうんだ。

そうなると勉強の敵は、

そうした図やグラフにするような時間を無駄な時間として許せないような

強迫観念でしかないよ。自由にひとつのことをじっくり

考える時間があれば、難しいと感じていたことも一気に易しくなって、

突破することはできるんだよ。

数学は勉強すればするほどいろんなことが見えてきて、本当に面白いよ。」

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 


考える力が伸びる年中さんの時期 「少しってどういう意味?」

2011-09-25 17:40:40 | 通常レッスン

◆くん、○ちゃん、◇ちゃん、☆ちゃんの年中さんの子たちのレッスンで、ハムスターのお人形で遊びました。

この時期の子たちは、イメージを膨らませてさまざまなことを考えることが得意になってくるので、

ごっこ遊び上のストーリー展開や会話の進展に

「どんだけ楽しいの?」と不思議に思うほど夢中になります。

 

↑の写真は、ハムスターが神社にお参りにいって、

ちょっぴりずうずうしい願い事を言うストーリーで遊んでいるところです。

チリンチリン~と鈴を鳴らして、

「どうぞ、神様。ひまわりの種と、バナナとお菓子とプリキュアのおもちゃと自転車と

かわいいかばんをください。朝、起きたらベッドの横のところに置いといてください。」と言うと、

子どもたちは大喜び。

自分たちも、ハムスターを手に、神社にお願い事にでかけます。

チリンチリン~「いっぱいお菓子をください。それからジュースもください」などなど。

そこで、私が、「ハムスターったら、そんなにいっぱいお願いばかりして、ずうずうしいねぇ」と言い、

ハムスターを手に、○ちゃんに、「ねぇ、人間さん。ずうずうしいってどういう意味?教えてちょうだい」とたずねました。

すると、○ちゃんは、首をかしげてとまどっていました。

 

わたしはこんな風に説明しました。

「神様、チョコレートを1枚くださいってお願いするのは、ずうずうしくないね。でも、

神様、チョコレートとキャンディーとクッキーをテーブルの上からあふれるくらいと、ベッドの上にお山ができるくらい

ちょうだいってお願いしたら、それはずうずうしいねぇ」

それを聞いた○ちゃんは、「本当に、それはずうずうしいわぁ」とうなずきました。

子どもたちは、ハムスターのために、お家と幼稚園と学校と公園を作っていました。

写真は、トイレ。

最初に、◇ちゃんが、「はい、トイレ」と丸い輪の形の積み木を置いたので、

ハムスターに「プンプン。このトイレ。何だか嫌になっちゃうわ。だって、お外が丸見えなんだもの。

わたしの目から見るとお外が丸見えってことは、ほかのハムスターたちから

わたしはどんな風に見えているの?」と言うと、

「トイレをしているところが丸見えだよ。恥ずかしいじゃんか。」と言いながら◆くんが

あわてて周囲をブロックで囲い、「出れないよ。ドアがないからね」と言って笑いました。

 

子どもたちに、ハムスターで遊びながらいろいろな疑問を投げかけると、

それは面白そうに解決してくれました。

「ねぇ、少しってどういう意味?」とたずねると、

☆ちゃんが、おもちゃのグラスを手に取って、「少しって言うのは、このコップだと、

この底の方にちょっとだけあるってことよ」と説明しました。

そこで、「それなら、☆ちゃんのすいとうだとどれくらいのこと?」と

意地悪な質問をしてみました。

☆ちゃんはすいとうのコップを指して、「わたしが飲むときの少しは、すいとうのコップのこのくらい」と少しの量を示し、

「でも、ハムスターちゃんの少しは、わたしのすいとうのコップだと、ポチっとお茶がひっついているくらいよ」

と答えました。

それを聞いていた○ちゃんも、「少しは、最初にどれくらいだったかってことで、ちがうよ。

ちょっとだけとか、たくさんとかは、そのとき、最初にこれかなーあれかなーっていう

物がちがってたらちがうもん。」と付け加えました。

他の子らも、言葉の概念にとても敏感になる時期らしく

「水の中の生き物と言うのと、魚というのはどのようにちがうのか、

わにと人間はどこがどのようにちがうのか、

昨日と明日はどこがちがうのか」などを、ハムスターたちと真剣に意見を交わしていました。

 


自閉症スペクトラム障がいの子 と 論理的に考える力 10

2011-09-24 18:25:18 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

◆くんは、攻撃的で荒っぽい遊びが楽しくてたまらない時期のようです。

黒い「毒」ブロックをつけたドラゴンを作って、「ハムスターたちをぶっつぶしてやる」と言います。

★くんは、◆くんに協力して、巨大戦闘ロボットをいくつも作っていました。

そこで、私は、ハムスターたちを集めてこんな会話をさせました。

 

<ハムスター会議 2 ドラゴン対ハムスターの戦い>

1匹のハムスターが言いました。

「ドラゴンをやっつけなきゃ。ぼくが、ひまわりの種を口にいっぱい入れてね、

プップップップップーって吹きつけたら、

やっつけられるはずだよ。」

別のハムスターも言います。

「いいこと考えた!聞いて!あのね、ぼくがぁ、ひまわりの種を口にいっぱい入れてね、

プップップップップーって吹きつけたら……」

すると、★くんも、◆くんも、すっかりハムスターたちの話に引き込まれて、

「おんなしやろがー!」と突っ込みを入れます。

すると、別のハムスターが、「そうだ!いいこと考えた!

あのね、わたしがね、ひまわりの種を口にいっぱい入れてね、

プップップップップーって吹きつけたら、

やっつけられるはずよー」と言います。

実は、◆くんも★くんも◎くんも、考えなくてはならないシーンが大嫌いです。

周囲の人に考えるように促されると、逃げ出すか顔をしかめます。

 

でも、ハムスターたちのあまりに何も考えていない会話には

黙っていられなくなるらしく自然とあれこれ考え始めるようです。

このハムスターたちは、頭は弱いけれど口はなかなか達者ですから、

言い負かすのが大変なのです。

◎くんが、ハムスターたちに加勢して、戦闘機を作ってくれました。

「ドラゴンとロボットをやっつけよう。さあっ!

でも、ドラゴンたちは強いよ。どうやったらやっつけられるのかな?

そうだ。ぼくたちはハムスターだ。ぼくたちの脳みそはちっちゃいけれど、

人間の脳みそはぼくたちの何倍も大きいんだよ。

だから、人間の◎くんにどうしたら勝てるか聞いてみよう!」

「そうしよう。そうしよう」

そんな相談をしたハムスターたちは、◎くんに「どうやったらドラゴンをやっつけられるか

教えてよ」とたずねました。

真剣に考え込んでいた◎くんは、

「そうだ、ドラゴンやロボットを作っている人たちが

作れなくなるように、ブロックの塊を盗ってきたらいいんだ。

そうしたら新しいのが作れないから弱くなる」と言いました。

「◎くんすごいなぁ!かしこいなぁ。じゃあ、さっそくブロックを盗りにいこう。」

ハムスターたちは、長い滑り台を滑って敵の陣地に向います。

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こんな風に、ごっこ遊びの世界にすっかり入り込んで、

いっしょに話合い、いっしょに悩み、いっしょに問題を解決していると、

日頃、考えることが苦手な子もよく考えるようになってきます。

人形たちに筋の通らないトンデモ発言をさせても、

論理的に考えることが苦手な子たちは、そのおかしな点を指摘することが

できない場合がよくあります。

でも、こうした遊びを通して、ゆっくりとですが、

論理的ではない考え方というのはどういうものかを理解し、

しっかり自分の頭を使って考えていく楽しさに気づいていきます。

 


自閉症スペクトラム障がいの子 と 論理的に考える力 9

2011-09-24 09:23:09 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

『自閉症のDIR治療プログラム』 S.グリーンスパン S.ウィーダー著 広瀬宏之 訳  創元社

に、論理的思考を身につけていく段階が次のように書かれています。簡単に要約して紹介させていただきます。

 

<第1段階>

五感を働かせて周囲の世界を感じとり、外界のイメージを正確に描くこと。 (0歳3~4ヶ月頃から)

 

<第2段階>

周囲の世界と感情的に意味のある関わりをすること。

自分から進んで周囲の世界と関わり、見聞きするものや情報を与える他人を信頼できるようになること。

 

(自閉症スペクトラム障がいのある子は、感覚が敏感過ぎたり、鈍感過ぎたりするのと、

外の世界と関わる必要性を感じていないために、

そうした世界との感情的な関わりを持つことが難しいです。

情報処理上に問題があって感覚入力を理解する際に混乱が生じているのです。不安から守ってあげ、

周囲と関わることで心地よさを感じることができるような配慮が必要です。)

 

<第3段階>

周囲の世界と目的を持った関わりをすること。自分のしたことに反応が返ってくるような

行為をします。

目的を持った行動は論理的な思考を身につけていく大事なステップです。

 

<第4段階>

目的のある行動をいくつか結び付け、パターンとして認識すること。おもちゃがみつからないとき、お母さんに助けを求めること、

障害物競争で、跳び箱を乗り越え、壁を迂回し、トンネルをくぐってゴールに到着するために、

いくつかの問題を解決し、目的達成のための行動を取ること。

そうしたことがより高度なレベルでの科学的合理性、パターン認識といった能力の始まりです。

 

<第5段階>

考えや概念を実際に使用すること。

「現実世界に根ざした論理的思考」です。

大事なのはイメージトレーニングです。クッキーがー欲しくて家中を探すのではんく、まずありそうなところを思い浮かべます。

冷蔵庫だろうか食器戸棚だろうか、お母さんがよく隠している引き出しだろうかと考えるわけです。

子どもは世の中のことを頭の中にイメージし、それを頭の中に再現して楽しむために、

考えるという能力を身につけるのです。

こうした考えからシンボリックな考え方が生まれてきます。

 

<第6段階>

複数の考えを結び付けます。

「合理的思考法」の始まりです。複数の考え方を結び付け、それらを議論することができる

ようにします。

これをマスターするためには、子どもの創造力を豊かにする関わりが必要です。

「何?」「どこ?」「だれ?」といった会話に応答することから始め、「なぜ?」という

質問にも答えられるようにします。

こうした質問をごっこ遊びや普段の会話に組み込みます。

どのコミュニケーションのやりとりも、会話が持続するように努めます。

(自閉症スペクトラム障がいの子らは、ひとつの考えから無秩序に別の考えに飛び移ること

が多々あります。こうした子らは、自分で考えて何かを身につけていくより

丸暗記で覚える方が得意です。いくらたくさん丸暗記しても、創造的かつ論理的に考える能力は

少しも育ちません。せりふを丸暗記させても、言葉を柔軟かつ論理的に使うことはできません。

それなら、どのような働きかけをすればいいのでしょう?その方法については,

近いうちに記事にさせていただきますね。)

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発達に凸凹がある小学1年生の子たちのグループレッスンでこんなことがありました。

◆くんが、ハムスターのお家にもみじの葉っぱを置いて、「秋だよ」と言っていたので、

わたしは1ぴきのハムスターを手に取って、「ゴホッゴホッ。風邪ひいちゃった。

今はきっと冬だよ。だってぼくが風邪をひいているから。きっと冬だよ。」と言わせました。

すると、子どもたちはハムスターのトンデモ発言に納得してしまって、誰も言い返すことができませんでした。

このグループの子たちは、暗黙の了解として感じ取ることや、論理的に筋道を立てて考えていくことに

困難があるのです。

 

そんな子どもたちの姿を見て、わたしはハムスターたちに、

さらに次々と、トンデモ発言や突っ込みどころ満載の議論をさせながら、

その会話に子どもたちが入っていって、ハムスターの言っている論理のおかしい部分を指摘したり、

ハムスター世界で持ち上がっている問題を解決するように誘いました。

 

すると、もともと純粋で素直な子たちですから、たちまちこの世界に夢中になって、

参加していました。

 

<ハムスター会議1 「◎くんはハムスターか?人間か?」>

 

ハムスターの一匹が教室にいた◎くんのことをうわさしています。

「◎くんってさ、人間なんだって。本当かな?」

すると、別のハムスターが、「ちがうよ。◎くんはハムスターだよ」ときっぱり言います。

「だって見てごらん。ぼくたちと同じように耳がふたつあるじゃないか。

だからハムスターに決まっているよ」

「本当だ。1,2、ちゃんと耳がふたつある。ぼくらの耳も1,2ちゃんとふたつ。きっと◎くんはハムスターだ」

すると、◎くんは笑いながら、「ちがうよ。ぼくは人間だよ。」とお馬鹿ハムスターたちに教えます。

すると、ハムスターはこう言い返しました。

「◆くんと、★くんは靴下を履いているよね。でも、◎くんはぼくたちと同じ。裸足だよ。

◎くんはきっとハムスターだよ」

◎くんはゲラゲラ笑っています。

「じゃあ、◎くんは自分のことが人間だってうそをついているの?」と別のハムスターがたずねます。

 

おじじ先生ハムスターがえらそうに、

「もしもだよ。◎くんがハムスターなのに、人間だって自分のことを言ってるならうそつきだ。

えんま様に舌を抜かれる。

もし◎くんが人間で、自分のことを人間だって言っているのなら、

それはうそじゃない。どっちが正しいのか、◎くんにたずねてみよう。」と言いました。

それからハムスターたちは、◎くんに、

「◎くん、本当にきみが人間だっていうのなら、証拠を見せてよ」と頼みました。

◎くんは笑いながら、足の指をさして、「いいよ。ほら、ぼくは爪があるよ。だから人間じゃんか」と言いました。

すると、小さなハムスターが、「私も爪があるわ。きっと私は人間なんだわ」と言いました。

 

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↑のストーリーはごっこ遊びの最中に自然に展開していたストーリーですが、

◎くんをはじめ、他の子たちも、

ハムスターたちが納得するような説明をすることができません。

それでも一生懸命知恵を絞るうちに、

しっかり考えて発言することもできるようになってきました。

 

次回に続きます。