★『地頭力』が育つ幼児期 (シアトルからのお客様)
の続きです。
精神科医の名越康文氏と、神戸女学院大学教授の内田樹氏との対談で、
こんな会話がかわされていました。
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<名越>
僕は日々、クリニックに来るお母さん方と色んな話をしています。
子どもの場合、通じ合えた場合は、その話の全体から僕が言いたいことを摑んでくれているな、という感じがあるんですよ。
「だから、こうしておこうね」っていう軽い結論さえ言えば、「他に聞きたいことある?」って聞いても、「うん、今日はこれでいい」って言います。子どもは。
しかし、親御さんに同じ話をした場合、
「先生、結局だから私はこうしたらいいんですね」ってその話を百分の一くらいにまとめてしまう。それはそこしか聞いていないってことでしょう。
僕ね、今まで何千人かの子どもと話して、
「先生、結局こうしたらいいんですね」って聞いてきた子どもって
一度も会ったことがない。
ところが、「先生、結局だから私はこうしたらいいんですね」って言う
親御さんには少なくとも数百人会っていると思うんですね。
<内田>
コミュニケーションの現場では、理解できたりできなかったり、いろんな音が聞こえてるはずなんです。それを「ノイズ」として切り捨てるか、「声」として拾い上げるかは聴き手が決めることです。
そのとき、できるだけ可聴音域を広げて、拾える言葉の数を増やしていく人が
コミュニケーション能力を育てていける人だと思うんです。
もちろん、拾う言葉の数が増えると、メッセージの意味は複雑になるから、それを理解するためのフレームワークは絶えずウ゛ァージョンアップしていかないと追いつかない。
それはすごく手間のかかる仕事ですよね。
そのとき、「もう少しで『声』として聞こえるようになるかもしれないノイズ」をあえて引き受けるか、面倒だからそんなものは切り捨てるかで、
その人のそれから後のコミュニケーション能力が決定的に違ってしまうような気がする。
<内田>
今の日本の母親たちは、あえて可聴音域を狭くして、聞き取れる範囲を絞り込んで、その中で整合的なメッセージだけ聴き取ろうとする傾向がすごく強いと思うんです。「要するに、こうなんですね」と言って「話を終わらせる」ことに異常に固執するというのは、そういうことじゃないかと思うんです。
この間、養老先生から聞いた話ですけど、ある講演会で「子育てにマニュアルはない」ということを話された後に、聞いていた母親が先生のところに来て、
「あのー、マニュアルがない場合には、どうすればいいんでしょうか?」と訊いたという(笑)。
とにかく、話を終わらせたいんですよ、簡単に。だから自分の子どもがノイジーなメッセージを発信しても、「要するにあんたは、こういいたいわけね」っていうふうに、
端数を切り捨てて、整合的だけど限定的に「理解」してしまう。子どもが発するメッセージには、まだ輪郭の整わない、子ども自身が自分で何を言いたいのか
わからないような雑多なざわめきがたくさん含まれているんです。
でも、そうい母親はそれを聴き取ることができない。曖昧な言葉遣いというか、グラディエーションをつけることができなくなっている。
(『14歳の子を持つ親たちへ』 内田 樹 名越康文 新潮新書
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『地頭力』の話をするのに、一見関連のない話のようでもあるのですが、
この対談で話題になっている
「可聴音域を狭くして、自分の聞きたいことだけ聞いて、それ以外は切り捨てて、整合的だけど限定的に「理解」してしまう」
という特徴は、子育て中の方々が、
気づかないうちに陥りがちな態度ではないでしょうか?
音だけでなく、見るものにしても、
あらゆる豊かな情報の中から、小学校受験や学校での評価にむすびつく部分だけ見て、後はシャットダウンしてしまうということも起こりがちです。
例えば、折り紙をぐちゃっと握りつぶしては、
「虫さん」「あめちゃん」「バナナ」などと命名する子がいたとします。
その子のお母さんが、同じ月齢の子が、上手に三角を折るのを目にして、
「うちの子も早く上手に折るようにらないかしら?」という狭い視点でだけ
子どもを眺めた場合、
「この子ったら、いつまでもグチャっとしたものしか作らないで……折り紙がもったいないでしょ!」とイライラするかもしれません。
が、お母さんが、見えているもの、聞こえてくるものを受け取る領域を広げてみると、
この子の「見立てる能力は独創的だな。くだものから生き物からよく思いついてる」
「今は、ぐちゃっと力を手にこめる作業がしたいときのようだから、折り紙より油粘土や、広告の紙などのいらない紙をたくさん与えてあげる方が良い時期なのかも」
「作品としてなりたっていないとはいえ、楽しそうにエネルギッシュにたくさん作る力があるな。できたものはゴミみたいなのに、大事にしていて面白いな」
といったことが見えてくるかもしれません。
そのように親が子ども自身と子どもの環境から
受け取るものを大きく拡げていくと、
地頭力の要素のひとつ
「全体から考える」フレームワーク思考力を育むことに
つながりやすいのではないでしょうか。
フレームワーク思考力とは、
「対象とする課題の全体像を高所から俯瞰する全体俯瞰力」と、
「とらえた全体像を最適の切り口で切断し、さらに分解する分析力」といえます。
わが子の子育ての中で、このフレームワーク思考力について、
意識したのは、小6になって息子がいきなり中学入試をしたいと言い出したときでした。
★先生とぶつかって、仲直りした話
★先生とぶつかって、仲直りした話 2
の記事で、その頃の出来事を簡単に書いています。
わが家の事情で何ですが……
子どもが幼い頃は、経済的に何の悩みもなくのほほんと生活していたのですが、バブル崩壊のあおりを受けて、ダンナがリストラにあい、
その後は、自営業で、食べていくのがやっとの暮らしをしていました。
そこに6年生に進級しようという息子の「私立中学に行きたい」があったもんですから、まさに晴天の霹靂で、
「お母さんは入学金を何とかしてあげるから、あなたは勉強を自分で何とかしなさい」と、本屋に連れて行って、受験したいという学校の赤本……選ばせると灘中の赤本だったのですが……を購入して、後は本人任せにするしかなかったのです。
それで、私は
郵便局のパートで、晩の10時をまわって帰宅する生活がはじまり、
息子はというと、それまで学習習慣がないもんですから、
やったりやらなかったりではあるものの、灘中の赤本と格闘していました。
それまで私立の勉強をしたことがない子にいきなり灘中の赤本は無茶なようですが、
当時はあまりに中学入試の知識がなかったので、
「まずどういう受験問題が出ているか研究して、
それから必要な参考書なり問題集なりを探しに行こう」という順序で
入試と関わるしか、
何から手をつけたらよいのか想像もできなかったのです。
それと私にとって一番興味があったのは、受験に合格するかどうかではなく、
初めて自分からこういうことがしてみたい!と言い出した息子が、
途中で投げ出さずに、どこまでがんばれるのかな? ということと、
どんな順序で、どんな風に勉強していくのかな? ということだったんです。
自分なりに方法を模索するのか、何か私に頼んでくるのか、息子の出方を見る前に、私が先まわりしてレールを敷くのはおかしな気もしたので、
少し様子を見ることにしたのです。
話の途中ですが次回に続きます。
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