虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値  続きのつづき

2016-03-05 07:25:40 | 日々思うこと 雑感

先に紹介した「遊園地」ではなく「原っぱ」の記事の中で、習い事について、

次のように書いている部分があります。

 

「……そうした人工的な場は当然、未完成さとかカオスからほど遠いものです。

時間の枠がありますし、することは決められてますし、場合によっては、

どういう気持ちで、どういう態度で参加すべきかまで暗黙のうちに

子どもに適応を求めてきます。」

もちろん、習い事の全てがそうだと言いたいわけでも、悪いものと決め付けたいわけでも

ありません。問題は、順番なのかもしれません。

子どもが自分の頭と身体で環境に働きかけて、そこに意味を作りだしていくことと、

あるがままの自分を自由に表現することが、まず先決で、

それらを満足に体験しないまま、外から与えられる色に染められたり、

枠にはめられたりすることは、どうなのかと思うのです。

 

ゆっくりじっくり幼児教育のあさがおさんが、

習い事の体験に行ってきました。 1

習い事の体験に行ってきました。 2

 習い事の体験に行ってきました。 3

という記事を書いておられます。

本来なら、絵具と触れ合う体験も、活動のための水くみといった準備をする体験も

年上の子が創作活動をする様子を眺める体験もとてもすばらしいものになった

はずなのに、その空間と時間の価値観が固定されていたために

子ども中で育ちつつあるものを壊してしまうような体験になっているのを

残念に感じました。

この記事のきっかけとなるコメントをくださった方から、

再度、コメントをいただきました。

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あやふやでしたね。未完成な親という単語は、コメントを書いた時に初めて出てきた言葉で、

僕の中でもまだぼんやりとしたものです。「未完成な親となる場」が正しいでしょうか。

人的環境としての未完成なのか、物的環境としての未完成なのか、

その両方なのかまだ不明確です。

ヒントとなったのは「楽園のつらい日々」と「千住家の教育白書」の2冊です。

両家は自力で自宅を作りましたが、その子供はみな各界で活躍してます。

僕は、NHK「正義のための授業をしよう」でハーバード大学生のほとんどが第一子と

聞いて、その理由をずっと考えてきましたが、「楽園のつらい日々」に

ヒントがあると感じました。

第一子は自分の意見が通ることが多い、親の教育システムが第一子では

未完成であるという2つの原因が考えられますが、ここでは後者を取り上げます。

この2冊の本からは「未完成」について2つの可能性が考えられます。

一つは住宅環境が未完成だったこと。もう1点は親が一から環境を作りあげる努力を

みせたことです。大工仕事という初めてのことを親がみせたことがポイントだった

可能性もありますが、僕は最後まで環境が未完成だったことが良い効果をもたらしたと

思います。しょせん素人が作った家だったから不備がでてきて、そのたびに親が

試行錯誤して「未完成な親」を子供にみせたのではないでしょうか。

つまり、目に見える環境が未完成であるゆえに、親も未完成であるという姿です。

「大人のための原っぱ」とも言えます。親が「原っぱ」をもってないのに、

子供に原っぱをみつけろ、というのは無理な話だと思います。子供は親を

真似しますから自力で原っぱをみつけれるようになるのでしょう。

家でなくてもよいですが、なにか目に見える、最後まで未完成な環境に親子で

暮らすのがよいのでしょうね。

以上を考えると、プレジデントファミリーには教育によい住宅が連載されてますが、

教育によい家とは物理的に未完成な家になります(笑)。

新築住宅でなく中古住宅を買い、それを10年単位で直しながら暮らしていくので

どうでしょう。中古住宅は、子供が汚してもそれほど気にしないので、

のびのびとした育児ができるという利点もあります。

未完成な教育システムについても一言。

これは歴史的に著名な数学者や音楽家の経歴を調べて気づきました。

スズキメソードは江藤俊哉(のだめカンタービレの江藤先生のモデル)を教えるために

できましたが、メソードとなってからは江藤俊哉を超えるヴァイオリン奏者は

出ていません。

小沢征爾は桐朋学園の第一期生であり斎藤秀雄に習いました。

斎藤指揮法は「たたき」を重視して確立されましたが、

その後、小沢征爾を超える指揮者は出ていません。

指揮者カラヤンはウィーン大学にて指揮を習いましたが、

ウィーンフィルの首席オーボエ奏者に指導を受けました。ゆえに彼独自の指揮法を

確立できました。

小さい頃に習い事という場に行くのは、未完成な親をみせれないという問題も

あるのでしょうかね。

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何度もすみません。

未完成な場に自分をおくことを許さない「大人の心の余裕の無さ」ですかね。

完成された場所・教材がより先進的と感じるのかもしれません。

DVDやIT活用教材はその最先端ですね。

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>「大人のための原っぱ」とも言えます。親が「原っぱ」をもってないのに、

>子供に原っぱをみつけろ、というのは無理な話だと思います。

>子供は親を真似しますから自力で原っぱをみつけれるようになるのでしょう。

 

その通りだなぁ、と思いました。

コメント主さんの言葉をお借りするとわが家も両親ともに、

「原っぱ」状態というか、未完成な親となる場の中で生活していた時期があります。

うちの子たちが小学生の頃です。

ダンナのリストラを機に、資金も知識もないまま自宅の一部で自営業を始めたのです。

その当時のことを記事にしています。

 

ファンシーショップの話

ファンシーショップの話 2

ファンシーショップの話 3

 

未完成な環境にあると、完成に向けて、いっぱい考えて、いっぱい努力して、

いっぱい失敗して、世間から評価されなかろうと、見っともなかろうと

どうにか生きていけるものだし、もともとたいしたことなければ失うものもないし、

それもまた遊びの連続のようで楽しいもの……という楽天的な心構えを

家族で共有できたな、と思います。

 

頼りになるのは自分の知恵や体力や精神力だけで、

未完成な環境とああでもない、こうでもない、と取っ組みあいながら過ごした日々は、

子どもたちの中に何でもゼロから創造してやろう、失敗なんか気にせず山があったら

登ってやろう、自分の力を人生でやりたいことに全力投球してやろうという

たくましさや創造的な問題解決能力やチャレンジ精神を養ってくれたように思います。

 

日常がこんな感じですから……↓ 

トラブル……トラブル……トラブル続き!知恵を絞ってかろうじて乗り越えました~!

トラブル……トラブル……トラブル続き!知恵を絞ってかろうじて乗り越えました~!2

 

いつも思うのですが、

子どもっていいことばかり、正しいことばかりでは育たないものです。

今、わたしがしているのも、未知の部分をたくさん残している

自分で考えて、自分で工夫して、問題が起こったら自分で解決して乗り越えて

いかなくちゃならない仕事なんですが、それを間近に見ることができるのは、

わが子たちにとって、いろんなことを考えたり、社会に関心を抱いたり、

自分の将来を思い描いたりする時の原動力となっているように思います。


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