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虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

内田樹氏の「コミュニケーション能力とは何か?」について、親子でおしゃべり 4

2013-12-31 21:43:00 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

今年もブログを読んでくださりありがとうございます。

いいお年を♪

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前回の会話の続きです。

 

わたし 「つまり、コミュニュケーションを不調に追い込むのも、回復を阻むのも、

うまく人と関われなかったり会話下手だったりすることよりも、

コミュニケーションには想像力が必要だということが忘れられてしまったから……ということ?

 

確かに、誰かとコミュニケーションを取るということは、ただ言葉だけを文字通りに受け取って

返せばいいものじゃないわよね。自分ではない誰かが発した言葉は、その人がどんな立場に

あるのか、どのような経緯で、どういう思いで、どんな目的でその言葉を使っているのかという

言葉の背後のあるものへの想像力が必要よね。

 

でも、もし今の社会が、★が言うように、コミュニケーションにおいて、仮想の設定で

考えてみることに価値を置いていないとしたら、コミュニケーション能力って言葉が

いくら幅を利かせていても、おかしな話だわ。

能力の高低を語る前に、コミュニケーションって、

異なる過去と思考と目的を持った自分と他者、誰かと誰かの間で交わされるものだから。

 

内田先生が書いておられたマニュアルの蔓延は、

コミュニケーションの性質上、相手への想像力とか仮想の設定で考えてみたり、表現したりすることが

当然必要だろうと思う感性をマヒさせてしまうのかもね。」

 

息子 「そうだろうな。実際、ぼくがコミュニケーションがうまく成り立たない状態を脱するには、

いったんそれまでの文脈から離れて説明する能力なんかが役に立つな。

たとえを使ってみるとか。

お互いの目標を確認してみるとか。

全体像を俯瞰して、話してみるとかさ。

相手の生活とか趣味とかを意識しながら

たとえ話をすると、会話能力を上げる以上に、自分の言いたいことが伝わりやすくなるし、

考えを共有しやすいよ。」

 

そういえば、以前、言葉でのコミュニケーションについて、今回とは異なる視点で、息子とは

話をしたことがあります。 記事の一部をコピーしますね、(時間のない方は読み飛ばしてください)

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息子 「ぼくは言語には欠陥があって、

その欠陥に無自覚なままで言語主体の話合いを続ければ、

いろいろな誤解が生じてくるのは仕方がないように思うよ。

 

言語の欠陥を補うために、数学的な考え方や数学の世界の言語を

議論に取り入れるといいように思うんだ。」

 

母  「言語の欠陥って?」

 

息子 「言語というのは、物と物と比較する上で勘違いを起こしやすいからね。

たとえば、ある政治家がひとこと言い間違いを犯して、

メディアや国民からいっせいに非難を浴びるとするよね。

で、そのひとことの重さというのは、その政策全体の価値に対して

どれくらいの汚点にあたるのか、

言語はそうした数値的な比較を背景に遠のかせて、

人々の関心や感情やメディアのその時期の注目度によって

その価値を調整していくじゃんか。

 

数学の世界で名著と言われているものの場合、

それを理解して良し悪しを決定するのは

数学について、ある一定の理解の基準を満たしている人々になるから、

名著と評されているものが正しく名著である確率は高くなる。

 

でも、国語の世界は母国語であれば

よくわかっていなくても、わかった風なことを言ったり、評価する立場になることは

可能だよね。

場合によっちゃ、正しく理解している人が2割、わかっていない人が8割

なんて状態で、

物の良し悪しが決められることだってあるんだから。」

 

母 「言語は、錯覚や勘違いを含みやすいから、数学の世界の言葉を議論に取り入れるってどういうこと?」

 

息子は紙に一部が重なっている2つの円を描きました。

 

息子 「お母さんが、今、仕事上での考えている上での立ち位置っていうのは、集合のべん図で表すと

この重なっている部分にあたるんだよね。

それか、もうひとつ円を加えて、この3つ目のCの円を含む3つの円が重なる部分を除く

最初のAとBの円が重なっている部分ってことのなるのかもしれない。

つまり、数学の世界の図で描くと、それは当然過ぎるくらい当たり前の

ある部分なんだ。

 

でも、それが言語主体の話合いだけで進めていると、

A派に属することが、そのままB派と重ならないことを意味するような

関係しかないように受け取られがちなんだ。

 

数学は同時にいくつかの関係を表現できるけれど、

言語はその都度、ひとつを選んで、表現するものだからね。

 

数学の世界ではAの方程式とBの方程式が存在するときに、

 問題によりけり、条件によりけりで、この場合はAで解くべきか、Bで解くべきか、

AB両方を複合させて解くべきか、AでもBでもダメなのか、

AとBをベースにして全く新しいメタな解決法を必要としているの

かっていう選択が、ごく当たり前の前提として存在している。

 

そこには流行も人の感情も、時代の空気も、その評価に参加する

人々の能力のばらつきというものにも振り回されず客観的に

物を考えていく道具としての数学の長所が生かせるんだ。

 

もちろんそうして全体を把握した上で思考するのも

決断するのも人間なんだけど、

議論の途中で言語の持っている欠陥によって

問題の解決がうやむやになるなんてことはあまり起こらない。

 

ぼくが物を考えるときに、頭の中にマインドマップのようなものを思い浮かべるけれど、

よくあるマインドマップのように中心があって、

それから枝葉を広げていくようなものではなくて、

相関図のようにたくさんの中心があって、それらのどれが主体となるわけではなく

矢印によって関係が示されてイメージなんだ。

 

そうしてまず、全てを平等に価値のある概念として

イメージ上に配置した上で、それらがどのような関係を創り出しているのか、

矢印を行き来させて、考えていくんだよ。

社会学や世界情勢についてや、教育の問題なんかについて考えるときも、

そうしや相関図やグラフや表やベん図や線分図なんかで

いったん感情を入れずに全ての情報を洗い出してみてから、

ファジーさや柔軟さを残した状態で、どのように感じて、どのように思うのか、

考えを練っていくんだ」

 


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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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今年もよろしくお願いします (よしこ)
2014-01-02 20:44:55
あけましておめでとうございます。
お気をつけていらしてくださいね。

自閉症者にコミュニケーション障害があるというのは、その多くが息子さんのおっしゃるところの「他者の立場が想像できない」ところから来ているとされていますよね。

息子さんはご自分なりに普段から物事を構造化して捉えなおすことで世の中を理解しようとされていることがよくわかるエピソードですね。夫のものごとの捉え方に似ているなあと思います。

うちの夫が一見理屈っぽく見えないのは、こういったことをすべて頭の中だけで処理したうえで、いまどのように振る舞えばよいかを計算しながら言葉を発するからです。その結果、先を読みながら会話をする癖がついていて、わたしが主語をすっとばした話をはじめてもついてきてくれます。こういった対応能力だけを見ると、一見、コミュニケーション能力が高そうに見えますが、本人は低さを自覚しているうえの行動なのですから、コミュニケーション能力の高低の評価がいかに曖昧であるかを感じます。

わたし自身は、コミュニケーション能力とは雑談力だとおもっていて、お互いにさして必要ではない情報の交換を、相手のバックグラウンドを知らぬ同士であっても気軽に突発的にできる人が、コミュニケーション能力が高いというのではないかと思っています。様々な仕草や言葉選びなどからあっという間に相手の気持ちに寄り添えるのです。名探偵ポアロのような人です。

一方、アスペルガーの人は自分の知っている(自分にとって重要な)情報の交換でしか会話を成り立たせられないように感じます。そして、自分にとっては大事な情報であるからそれについて言及しているにもかかわらず、相手にとってそれが重要であるかについてはまったく想像しようとしない特徴があるように見えます。
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