虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

「先生、やって!」から、自ら進んで行動し、よく考える姿へ

2020-02-11 22:31:47 | 年中、年長

ちょっとなつかしい過去記事を。

記事にした年中グループの子たちは今はみな一年生になって

自分で積極的に物事に取り組むようになりました。

「やって!」と甘えていた子たちは、複雑な物作りの過程を

ていねいに最後までやりとげたり、算数で高い能力を発揮するように

成長してきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

年中になると、年少の頃に比べて、

できることも思考力もグンと伸びる一方で、

「あれれ?こんなにしっかりしている子が?」と思う子が、

十分にこなせる簡単な課題を、「先生やって!」と頼る姿もよく見かけます。

年中児の子らにありがちな「先生やって!」は、甘えて言っているわけでも、

めんどくさがって言っているわけでもなく、

この時期特有の完璧主義に由来することが多いです。

はさみで切るならはみ出さないようまっすぐ切れるか、鉛筆で書くなら

お手本通りきれいに書くことができるかが気になって、「できない」「やって!」に

つながるのです。

 

できるけれど「先生、やって!」を連発する子と関わる時は、

「自分でしなさい」とつっぱねるのでも、

「やってあげるわ」と簡単に引き受けるのでもない

心の葛藤につきあいながら、関わり方を微調整しながら、

自分でやっていく作業を励ましていくことが大事です。

子どもが「やって!」という時、不器用さから「やって!」と言っているのか、

急に他者の目や自分自身で自分のしていることを評価するようになったため

不安にとらわれているのか、

手伝ってもらうことで、より大きな目標を成し遂げようとしているのか、など

「やって」の背後にあるものを理解してから、

対応するようにします。

年中頃の「やって」は、それまでできていたことについて

やってほしがるものなので、

ただ甘えたり、怠けたりしているようにも見えるので、

心を傷つけるような声かけをしてしまう親御さんもいます。

でも、それは完璧主義に陥ってできない状態にある子には、

一番よくない対応だと思っています。

 

その子なら充分できるということを、

「できない。お母さん、やって!」と言う時、

これが正解というひとつの対応があるわけではなくて、

「自分でできるよ、やってごらん」と、本人がしはじめるまで待つのがいい時も

あるし、少し進むごとに、

「上手にできているよ。」「大丈夫、よくできている」と励ましていくのが

いい時もあるし、大雑把な完璧とはいえない手本や、

大人が手間取りながらゆっくり作業する様子を見せるのがいい時もあります。

また、時には、「やって」という言葉をそのまま受け止めて、してあげるのがいい

場合だってあるでしょう。

「完璧にやりたい気持ち」と「できないかもしれない不安」の間で揺れる気持ちを

理解している限り、どう関わろうと、

さほど気にしなくていいのだと思います。

 

完璧にできないかもしれない不安から

「やって」と頼る子への対応というと、

どうしても、「子どもが自分でするように仕向けること」がゴールとして

設定されて、

見守る大人の気持ちは、どんな声かけをしたらいいのかというところの

向かいがちです。

 

でも、「やって!」への対応は、それを自分でやるかどうか

ということとは全然別のところにたくさん答えが広がっている

感じています。

 

つい最近、年中のの女の子たちが、手作りのカートに貼る絵柄について、

「線がぐらぐらしてゆがんじゃうから切れない。先生して!」

「上手に切れないから先生切って!」と頼んできた出来事がありました。

その日、Aちゃんが、「ユースでお友だちが持っていたプリキュアの

コロコロがついたカバンが作りたい」と言い、他のふたりもそれに乗り、

スーツケースを作ることになりました。

それぞれが検索で出した画像から好きな絵を選んで印刷し、切り抜く運びになった

時、BちゃんとCちゃんが、「先生、やって!」と不安気な

声をあげたのです。

 

 

 

虹色教室に使っている部屋は、

もともと駐車場にしていたスペースをリフォームして作った部屋で、

外に面したところがガラス張りになっています。

そのため部屋の電気を消しても、ロールスクリーン越しに光が

差し込んで、部屋は明るいままです。

 

教室ではよく影絵遊びや光の実験をするのですが、

本格的に室内に暗闇を作る際には、外のシャッターを下ろすようにしています。

 

この日のレッスンでは、

子どもたちと「教室の中に宇宙を作ろう」と約束していたので

ライト類やセロファンなどを準備していたのですが、当日になって

子どもたちはスーツケース作りに熱中しはじめて、

「先生、後で、宇宙にしようね」

「先生、色水作って光らせるのしたいから、

プリキュアのやつ作ったらそれする」とわたしがシャッターを下ろす約束を

忘れないよう念押ししていました。

 

スーツケースを作り終えて、いざ、シャッターを下ろす段になって、

子どもたちが口々に、

「シャッターおろすのやらせて!」「わたしもしたい!」

「棒、かして、わたしも!!」と言いました。

 

金属の長い棒を高く掲げてシャッターの突起に引っ掛けて、引き下ろす作業は、

背の低い子どもには危険な作業です。

そこで、ひとりひとりに厳しく注意をうながした上で、

(事故を防ぐため、棒が顔に倒れないよう棒の横で支えています)

シャッターを下ろさせることになりました。

すると、どの子も、こちらの注意をていねいに聞き取って、

真剣な面持ちで重い金属の棒を扱う作業をやり遂げました。

 

最初から最後まで集中力をとぎらせず、一生懸命、

重い棒を扱う姿を見ながら、

少し前には、はさみでまっすぐ切るだけのことを

「やって!きれいにできないからやって!」と言っていたけれど、

実際、切りはじめたら、真剣な面持ちで、自分のしている作業を

逐一チェックしながらしていた姿が浮かびました。

 

また、懐中電灯に電池をセットする際も、

「先生、どちらの向きに入れたらいいの?これであっているの?」と

入れ方にも注意しながら作業していた様子が浮かびました。

 

できるのにすぐに「やって!」と頼るように、

大人の目には「悪いこと」と映る場面に遭遇した時、

即座にそれに対する対応だけに注意を向けるのではなく、

もう少し大きな視野でそれを眺め直してみると、

思っていたものとは真逆の肯定的な側面

見えてくることはよくあります。

 

子どもの中で今、成長しようとしている新たな可能性の芽が、

まだ慣れない環境でバランスが悪い状態のまま顔をだしている、

そう感じます。

「そんなことで?と感じる場面で尻込みする姿」と

「行動することだけでなく、行動する内容の質を気にかけるようなった姿」が、

表と裏、合わせてひとつのセットとなっているような年中さんたち

を目にして、年少までの姿との違いを思いました。

 

シャッターの棒を下ろす作業は、年少の子たちもやりたがります。

でも、たいていは、危なっかしく棒をふらふらさせて突起に引っ掛けた挙句、

グーッと力を込めて棒を下に引く段になると、力が抜けて、

「もういい」とこちらに仕事を預けてしまうことでしょう。

また、電池を交換するにしても、年少までの子は、

プラス極、マイナス極なんておかまいなしに、

とにかく電池を押し込んでおしまい、となりがちです。

 

それが、年中児となると、している作業にに心が伴ってきます。

やってることの意味を理解したり、うまくいかない原因を

推理したり、自分が何を期待されているのか、

自分はどんな風にやり遂げたいのか、意識したりしています。

とはいえ、そうした気持ちは、身近な大人に認めてもらい、

言葉にしてもらわないことには、

そうした思いが自分の中で渦まいていることすら気づけない時期でもあります。

こんなことがありました。

スーツケースの取っ手の作り方を教えると、

Bちゃんがいいことを思いつきました。

スーツケースの取っ手は引っ張ると長くなるし、

押さえると短くなるので、取っ手をストローに通すと、

伸びたり縮んだりするというのです。

Bちゃんの指示通りにストロー2本をつなげて作った取っ手を太めのストローに

通すと、伸び縮みするようになりましたが、

引っ張るとストローが抜けてしまいます。

セロテープのストッパーをつけることを提案すると、

それを見ていた子どもたちが、感心した様子で、

「長くしても取れないね」と言いました。

 

子どもたちと工作する時、いつも感じるのですが、

どんなにささやかなアイデアでも、発見でも、

子どもが自ら気づいたことは、他の何ものにも代えられないやる気のもとで

あり、もっともっと自分で考え、自分の手で取り組んでいこう

とする態度の起爆剤です。

 

年中の子たちというのは、「自分が気にしているポイント」については、

こうしたい、ああしたい、これは違う、こんな風になっている、

こことここはいっしょ、など、それは細かく言いたいことがあるものです。

思いが複雑になった分、自分の手にあまることも

やりたくて、うまくできない自分に

不安を覚えたり、イライラしたりしています。

 

伸び縮みする取っ手を作ったBちゃんは、今度は、スーツケースの側面にも

取っ手がつけたかったのです。

でも、困ったことが起きました。

上下の伸び縮み、右左の伸び縮みの取っ手を

スーツケースの背面に貼り付けると、ストローとストローが交差して重なり合って、

不格好な上、動かなくなるのです。

そこで、側面の取っ手は穴を開けて内側に貼ってはどうか?とたずねると、

とてもうれしそうでした。

こんな風に大人が解決した方法も、「そうか、そんなやり方があるのか」と響くのが

この時期の子ですが、手出しや何かを学ばせる働きかけは、全体の1、2割にして、

作業の面でも、方法を考える面でも、

ほとんど自分でやり遂げたという満足が残るように気をつけています。

 

下の写真は、スーツケースの内部の様子です。側面の取っ手が

スーツケースの中で伸び縮みするようになっています。

 

今回の話題は、年中児を中心に書いているのですが、

どの年代の子も、「あれれ?困ったな」と映る気になるところと

表と裏で一体となっている「この年齢ならではの新しい魅力や可能性

の芽」があるのを感じます。

対応はというと、「あれれ?困ったな」に大人が足をすくわれずに、

対になっているこれから育っていく肯定的な側面に

じっくりていねいにつきあっていると、いつの間にか、

最初に目にした否定的な面は、影をひそめてしまいます。

 

たとえば、年長児のそれは、

「やりたいことがないよ」「そんなのつまんない」という

めんどくさそうな態度です。

年中までは、それが何であれ、「やりたい!」「やらせて!」

と飛びついていたことに対して、「そんなのやったって面白くないもん」

「どうせ作ったってお母さんが捨てちゃう」

「あんまり大きいもの作ったら、持って帰ったらダメって言われるよ。

うちのお母さんは、これくらい(ティッシュ箱くらいを手で作り)じゃないと

だめっていうと思う」「どうせ~じゃない?」なんて生意気な言葉を

つぶやくようになります。

 

倦怠感を帯びたこうした年長児の姿と対になっているのは、

「急に全体像が見えてきた」「先が読めるようになって、やった後のことまで

見えてきた」という自分のしていることをメタな視点でとらえだした

兆しがあります。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。