「魚を与えればその場の飢えはしのげる。しかし明日も同じ状態になる。
つり方を教えれば、その後もずっと食べていける」という意味ですが、
いや、もっというと釣り方ばかりを教えてきたからダメなんだと思います。」という意見。
「魚を与えるのではなく"釣り方"を教えよ」
ではなくて、
「魚を与えるのではなく"釣り"を教えよ」だそう……。
だからこそ、人に何かを教えるには「釣り」を教えることが最も大事だと思います。
楽しさや意義という土台から、テクニックまで。
「釣りとはなんぞや」を教えることが、大切なんじゃないかと思います。
↑ 無我夢中。
「釣り方じゃなくて
釣りを教える」
まさしくわたしが子どもの教育に最も大切だと感じているものを
的確に言い表した言葉だと思いました。
教室でレッスンをしていると、
レッスンの内容からそうした思いがきちんと子どもにも親御さんにも伝わっている場合もあるし、
そうでない場合もあります。
「そうでない場合」というのは、
とにかく親御さんは「テクニックを学びにこよう」「テクニックを子どもに学ばせよう」と考えていて、
子どもがレッスンでする課題を習得しているかどうかを
常に気にかけておられます。
その子が学んでいる内容に興味を抱いたり、活動に喜びを見出したり、うまく頭を使えて幸福そうにしている時に、
すかさず「それならもう1つこれがんばってみよう~」というプッシュをして、
子どもが常に最後には学習に対する少しイライラした感情と自分に対する自信のなさとを体感して
いるように見えます。
おそらくたくさんテクニックを教えれば教えるほど、テクニックを習得させればさせるほど
子どもは伸びるはずで、そのために多少、子どもが気分を壊したり、学習に対する愛着を失うくらい
どうってことなくて、
きっと良い成績さえ取れたら、そんなの全て忘れてやる気が出てくるはず……と思っている
みたいです。
子どもから学ぶことの楽しさや意義を奪ってしまう親御さんたちがいるのは
とても残念です。
とはいえ、それもこれも子どもへの愛情がなせるわざでもあるのです。悪気があるわけじゃありません。
幼い子らを育てている親御さんたちが、子どもから学ぶことの楽しさや意義を奪ってしまうこともあります。
ひとりの子が「風船欲しい!」と言って、わたしがその子に風船を選ばせて
膨らましてあげているとしますよね。
すると、すかさず、「先生が風船くれるよ。もらっといで」
と子どもをプッシュする2、3歳児のお母さんがいるのです。子どもが無関心だと
無理にでもらいにいかせようとします。
でも幼い子は、
「あっ風船だ、いいな、ぼくも欲しいな」と考える時間を与えてもらえなかったら、
ほんの少しの飢餓感を味わうことも、
「何かをほしい」「やってみたい」という気持ちが自分の内部から湧きあがってくるのを
経験することもできません。
そこで、「この風船は赤色よ」とか「ありがとうは?」などと
テクニックだけ教わっても、自分がない感じを味わうだけですよね。
もしそこで少し親御さんが待ってあげたら、子どもは
風船をもらいにいったとしても
もらいにいかなかったとしても経験からさまざまなことを学ぶはずなのです。
たとえば、ぼんやりしていて自分の分がなくなたとしても、
「ある」ということと「ない」ということ、
「自分から積極的に働きかけていく大切さ」「お友だちがしていることへの関心に
つながっていたかもしれないのです。