虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

「語りかけ育児」の弊害と「語らなさすぎる育児」の弊害

2021-09-11 09:18:30 | 幼児教育の基本

このブログの「0~2歳児のレッスン ベビーの発達」のカテゴリー内の記事で、これまで繰り返し書いていることなのですが、日本風?自己流?「語りかけ育児」(一方通行の教える形のインプット育児)が、乳幼児の発達に深刻な被害を及ぼしているように感じています。

語りかけていなくても、脳科学などの本を意識しすぎた、過剰な期待を伴う一方向のまなざしを主とする育児も、同様の弊害を生んでいるように感じています。

 

発達上は何の問題もないように見える子が、親御さんの接し方が原因で、次のような問題を抱えているケースによく出会います。

★ 人とコミュニケーションを取ろうする意欲が薄い。

★ まるで耳が聞こえていないような行動をすることが多い。(呼びかけても振り返らず、うろうろする) 

★ 言葉の遅れ。

★ 強迫的な性質になる。ハイテンションすぎる。物を壊すなどする態度が内側に潜在している怒りの表現のように見えることが多い。

★ 視野が狭まり、物の一部に反応して言葉を発し、周囲に関心を広げようとしない。

★ 物事全般に興味が薄く、浅い関わり方をする。感情の働きが鈍い。表情が固い。

★ 他の人や外の世界と関わることを極端に恐れる。

(ハンディーキャップを持っていない子の場合、親御さんに「自己流の語りかけ育児=教える形のインプット育児」をやめていただき、自然な双方向コミュニケーションを心がけていただくと、たいてい短期間に問題は消えていきます。)

 

↓ の記事は、「語りかけ育児」の誤用の問題について取り上げた過去記事のひとつです。

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赤ちゃんが早く言葉を覚えるように、「ママ」とか、「パパ、会社」など、たくさん言葉をかけている方はよく見かけます。
「それでも、うちの子、言葉が遅いんです」とおっしゃる方はたくさんいます。

そうした方のお子さんだけではないのですが……最近の傾向として、ちょっと気になっていることがあるのです。

それは、子どもに、大人に何かを伝えたいという意志があまり見られないということです。

ちょうどおしゃべりをはじめる前の子たちや、1語文が出はじめた子たちというのは、お母さんとの間で、ちょっと特別なコミュニケーションを取るようになります。

子どもの方は、自分の出す大きな声や、目で訴える欲求を、お母さんが気づいて受け止めてくれるのが、うれしい!おもしろい!もっとやりたい!と、感じているのが、外からもすごくわかるのです。
茶目っ気たっぷりに、しょっちゅう相手の反応を誘うような行動しています。

お母さん側は、子どもが「あ~」と言うだけで、何が言いたいのかピン!ときて、まだ、「○△□~」の宇宙語が、ちゃんとわかって聞こえているかのように返事をしながら、子どもと会話のキャッチボールができちゃっているのです。

ところが、最近、1~2歳の言葉をしゃべりだす前の子たちとお母さんが、会話の前段階とも言える、言葉のない世界でのコミュニケーションのキャッチボールをする姿をめったに見かけなくなって、あれれ???と感じることがあるのです。

子どもは自分が発する欲求を大人が敏感に察して、フィードバックが返ってきた~という経験を繰り返すうちに、お母さんの耳は自分の声が聞こえるのか~とか、自分から働きかけると、向こうからも返ってくるな~など、だんだん理解していきます。

ところが、そうした子どものサインをきちんと受け取らず、大人は大人で、本を指差して「りんご!」とか「イエロー!」とか自分が子どもに教えたいことを言うというコミュニケーションのキャッチボールではなく、<インプット>という一方通行の関わり方が多いように見えます。

そのため、子どもの中に、おしゃべりしたい!なんとか声を出して訴えたい!欲求を表現して得したい!という溢れるような意欲が育っていないようなのです。

言葉の発達は個人差があるので、早い遅いをそれほど気にしなくてもいいですが、コミュニケーション自体への意欲が薄い場合は、お散歩の際も、できるだけベビーカーには乗せずに、手をつないだり、抱っこしたりして移動して、会話の前の段階といえるような気持ちと気持ちがスムーズに行きかう時間をたっぷり取るようにすると良いと思います。

子どもは言葉を教えたからしゃべるのではなく、子どもの中にしゃべりたい!伝えたい!共感し合いたい!
という意欲が育ってきてはじめて、言葉が急速に発達することに大人が気づくと、子どもの姿に大きな変化が見られますよ。

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ずいぶん前から、私は、親子で遊んでいるときに、まるで親の気持ちが子どもの内面に侵入していくかのような強い一方通行の圧力を親御さんの態度から感じることがたびたびありました。

それが子どもに対して愛情深い、周囲から微笑ましく見られるような接し方の場合にも結構あるため、それを親御さんに伝えるのに非常に苦心していました。

親御さん側にすると、何をどのようにダメ出しされているのか、さっぱりわからないのです。

ただ一生懸命子育てしているだけなのですから。

 

優しい口調で愛情をこめて、シャワーのように言葉を降り注ぐことは、子育ての基本だと思っておられる方はとても多いのです。

でも、それが私の目からすると、一方通行に相手に侵入するように接しているように見える理由は、親御さんがそうした良い親としての接し方に夢中になっている間、子どもの返すフィードバックが親御さんに正しく受信されておらず、子どもの言動が次第に不快さに耐えているものに変わっていくのがわかるからなのです。

 

また、親子間でとても親しげにコミュニケーションが交わされ続けていても、それが原因で子どもの興味が外の世界から閉ざされていたり、親御さんのように対応してくれない他の人々に対する無関心や恐怖心につながっている可能性があるケースもあります。

 

といっても、子どもが健常児の場合、不快な刺激をうまくかわすことも上手ですから、親御さんが話しかけはじめたとたん、それがたとえ不快だったとしても、無視して好き勝手な遊びに興じるとか、緊張して張り詰めた様子で、親御さんの顔色をうかがいながら、自分の手元を見ずに活動するとかするだけで、発達上の目立った遅れが生じるわけではありません。

親御さんの前ではいい子で、子どもだけになると破壊や暴力的な行為を繰り返すとか、にこやかにほほ笑みかける親御さんを試すように、お友だちに乱暴を働いたり、おもちゃを乱雑に扱うといった程度の、どの子にもありがちな成長の一過程のように見える行動が主です。

 

こうした発達障害を伴わない子の母子関係による気になる行動は、幼稚園などではそこそこうまく過ごせるために問題が先送りされやすく、就学前や就学後に、顕在化することが多いようです。

 

「相手から求められている活動をするエネルギーがほとんどない」とか、「目の前の活動にしっかりコミットメントできない」とか、「先生の話に集中できない」「自分の身体と心が調和しておらず、何事もやる気がない」「多動気味で、まるで心で何も感じていないかのように動く」といった状態としてあらわれます。

 

それって、もともと発達障害がある子だったのでは?と思う方もいるかもしれませんよね。

もともと発達障害があってこうした気になる行動をする子と、発達障害がないのにこうした問題を抱えていると思われる子の違いは、場面や相手次第で、できたりできなかったりするか、親御さんが母子関係を改めたとたん急速に問題行動が減るかどうかでだいたい判別できるように思います。

(きちんとした診断は専門の病院を受診してすることをお勧めします)

 

もちろん、発達障害を持っている子も、母子関係を改めると、急速に発達が促進されていきますが、やはり、障害がないのに問題行動が出ている子とは経過がずいぶん異なるように感じています。

 

「語りかけ育児」 (一方通行の教える形のインプット育児)から生じる問題は、「知識を教えるからよくない」とか、「英語は母国語ではないからよくない」という「何かをたくさん与えすぎる」弊害というより、乳幼児が言語を習得し、身の回りの世界を理解していくために必要不可欠な、後から取り返しがつかない種類の学習が、「足りなくなる」「なくなる」弊害と言えるのではないかと思っています。

 

「おやつを与えすぎたら、子どもが食事を食べなくなる」とか、「水を与えすぎたら、植物が枯れる」といった話は、誰もが過剰さの害を認識していることと思います。

 

けれども、言葉や知識のように、目で見ることができないものに関しては、それこそ知識と言葉をシャワーのごとく降り注げば、子どもはたくさんの語彙を得て、天才児のように賢くなり、たくさん質問すればするほど、よく考えるようになると捉えておられる方が多いようです。

 

でも、実際には、そうした、もっともっと知識を与えよう、もっともっと子どもを考えさせよう、英語に慣れさせ、数字を教え、文字の読み書きが早くできるようにしようとする、どこか強迫的な、まるで「情報という怪物に憑かれているかのような親たちの関わり方」は、子どもの脳の成長にとって「今、その時期に必要不可欠な体験」「後から二度とやりなおすことができない大事な学習」を奪ってしまうことが多々あるようです。

 

赤ちゃんは、時間の経過とともに勝手に脳が成長していって、言葉が話せるようになる印象があります。

でも、現実には、そうじゃありません。

 

『そだちの科学』創刊1号 日本評論社 に、大正大学人間学部教授の滝川一廣氏が『「精神発達」とはなにか』という記事を寄稿されています。

その中に次のような記述があります。

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1ヶ月半からに2ヶ月月を過ぎた乳児は、「あー」とか「くー」とか一音節だけの声をあげはじめる。

これはご機嫌なときなどに独りで発せられる声で、科学的にはコミュニケーションの意味や意図はないとされる。

しかし、養育手はそうは感じないだろう。

ここでも「思い入れ」によって、親はそれが「おしゃべり」かのように応答している。

その応答に導かれるように、やがて「だーだーだー」「ばぶばぶ」など複数の音節からなる発生、つまり喃語をまねして応答したり、相槌をうってみたりさかんに応答し、またそれを歓び楽しんでいる。

そのうちに乳児のほうも親の応答を期待している様子が明らかになってくる。

声を出してから、応答を待つように声をとめ、親が応答するとまた声を出すという「やりとり」がはじまるのである。

このやりとりはリズミカルで親和的な、互いの発生が溶けあうような波長の重なりをみせる。

スターンという研究者が「情動調律」と名づけた現象で、そのやりとりのなかで、それぞれに生じている情動が重なり合い、同じものとして「共有」される現象である。

(略)

この時期から、外界のさまざまな事物に自分からあれこれはたらきかけはじめる。

おもちゃを振ってみる、しゃぶってみる、ひっぱってみる、眺めまわしてみる、など。

(略) 子どもはまわりの事物を自分なりに知ろうと調べているわけである。

この調べを通して、外界の事物はひとつひとつのもの(実体)で、それぞれに性質やかたちが備わっているらしいこと、同時にひとつのものでもいろいろな側面や性質をかね備えているらしいことなどを理解していゆく。

この間、養育手のほうも、おもちゃを子どもの前で動かしてみたり「ほらほら、ごらん」と注意を促したりして探索行動をしじゅう手助けしている。

またこのとき、社会的に共有されるべき有意味性へと子どもの注意や理解をリードをしているはずである。

(略) 子どもが世界を知ってゆくとき、まわりと共有できる形で知ってゆくこと、つまり「認識(理解)」の発達は、このようなかかわりに支えられている。

(『そだちの科学』創刊1号 日本評論社 p7.8)                    

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言葉の発達は、紹介した文の中にあるような、子どもの発信するものに引き寄せられるように育てる側が反応を返して、その反応によって、次第に自分が発信したものにある意味や使い方を理解していくという関わりの中で育まれていくものです。

言葉や認識の学習過程は、子どもが先に始めて、大人が自然にそれに付き合って、大人との関わりの中で学ばれていくもので、大人が先に教えようとして、子どもが学ぶものではないのですね。

 

そうした自然の学習過程に逆らって、「教えよう、教えよう」という知識のインプットの姿勢で子どもに接し続ければ、最初に書いたように、乳幼児が言語を習得し、身の回りの世界を理解していくために必要不可欠な後から取り返しがつかない種類の学習が、「足りなくなる」「なくなる」弊害というのが起こってくるのではないでしょうか。

私が、危機的に感じているのは、幼い子を育てている親御さんの多くが、子どもをあやしたり、喃語でおしゃべりしたり、目と目や表情と表情で会話を交わしたり、子どもの態度や雰囲気から気持ちを察したり、子どもの感情の高ぶりを鎮めるためにそっと抱きしめたりすることがほとんどないか、ぎこちない点です。

 

まだ2,3語しかしゃべれない子と長い間おしゃべりしたり、いっしょにいろいろなものに指をさし合って、同じ物を見ている感動を分かち合ったり、子どもが小首をかしげて考え込んでいる様子を見て、そっと黙って見守っていて、子どもの考えている世界にいっしょに引きこまれていって、うなずきながら子どもの発見に耳を傾ける姿が少ないということです。

 

その代わりに育児雑誌で見た情報や、他所の子の発達状況や、子どもに教えたい知識は、大人の頭の中にパンクするほど詰め込まれていて、それこそ、子どもの前でちょっとでも早くそれを吐きださないと耐えられないといった切迫した緊張感があって、子どもの側はテレビのスイッチを切るかのように、耳で聞くことや、心を外に向かって開くことを定期的にストップさせて、その緊張感から逃れているように見えます。

 

私たちが今暮らしている現代の消費社会、情報化社会の中で子育てしようと思うと、「毒抜き」(消費者的感性抜き、情報抜き)とでもいったらいいような本来の自然な自分に返る作業が必要なのかもしれません。

 

赤ちゃんが、「あー」と言えば、それが科学的には勘違いだろうと何だろうと、「あっ、私のことを呼んでるのね」と感じて、「はーい、なあに、あーあーね」と思わず返してしまうような自然な語りかけ育児が自分の内部から生じる状態に戻るように。

 

子どもと大人のバランスのいい関係は、大人の側が一度自分の心の中にあるさまざまな思いをリセットして、子どもとともにいる今という瞬間と場に、ゆったりと自分をゆだねてみる、楽しんでみるという心の調整から生まれてくるのかもしれません。

なぜなら、子どもというのは、感覚の過敏さなどがない限り、今という瞬間と場所にしっかりコミットメントしていくことはとても上手だからです。

大人がそれを乱さない限り、子どもは、本能的な力で、そうして最大限に時間と場所の資源を使いながら、自分が成長するために必要な大人の関わりや働きかけを引き出してサポートしてもらおうとしています

 

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「語らなさすぎる育児」の弊害については、↓のリンクに飛んでくださいね。

「語りかけ育児」の弊害と「語らなさすぎる育児」の弊害 3

「語りかけ育児」の弊害と「語らなさすぎる育児」の弊害 4

「語りかけ育児」の弊害と「語らなさすぎる育児」の弊害 5



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