
アルフィーが下積み時代に、ツアーに連れて行っていただいたり、そこで前座をやらせていただいたり、大変お世話になったという、
ミュージシャンの ムッシュかまやつ (本名:釜萢 弘(かまやつ ひろし) さん が3月1日、78歳でお亡くなりになりました。

日本のGSはここからスタートしたと言われる 『フリフリ』(1965年5月10日、作詞作曲:かまやつひろし)。
( 嬉しいことに当時のままのドーナツ盤を、近年 「新品」 でゲットできました


事実上のスパイダース・デビューシングルで、しかも当の作詞作曲者なのに、遅刻したからとジャケ写にかまやつさんが写ってないなんて・・・
のどかな時代だったんですねぇ。



この曲をタカミーがメタルにアレンジして、まず2015年のソロで発表演奏したんですが、
それを ザ・カンレキーズ(アルフィー) 用に再びアレンジし直して、昨年末発売になった 「カンレキーズのアルバム」 に収めました。
メタルバージョンをラジオで聞いたかまやつさんは 「ほんとに?」 「これは、ロックだね~」 ととてもうれしそうでしたが、
聞き直したところ、 下に挙げる 『ロックばん』 ではありませんでしたので、きっと 『終わらない夢』 の方だと思います。

この日の放送は録音してあったので聞きなおしてみましたが、
自分はいつまでもアマチュアであり続けたい、向こうに迎合してはダメ、そういうのは自分の中から消し去りたい、
今度のバンドね (2013年結成の、31歳のKenKen、17歳の山岸竜之介と3人でのユニット 「LIFE IS GROOVE」 のこと) 自分はこういうのが一番やりたかったんだってわかったの。
と楽しそうだったのが、なんだか哀しかったです。
ムッシュはとてもお元気で、タカミーも楽しそうに笑い、お二人とも生き生きと、実に楽しそうに喋っていました。
( 実は放送の少し前に、かまやつさんの 『喜寿をお祝いするコンサート』 が、2016年7月7日、昭和女子大学 人見記念講堂にて開催される予定で、チケットも発売開始していたのにもかかわらず、ご本人の体調不良により中止になったと告知されてびっくりしていたのですが、ラジオ収録はその前だったのか、告知後にこの日の放送が行われたのです。 )
大ヒットした 『我が良き友よ』 (1975年2月5日) は、かまやつさんではなく、実は吉田拓郎 (当時はよしだたくろう) さんの作詞作曲で、
しかも、この曲に歌われたバンカラ学生は、拓郎さんの大学時代の同級生がモデルだったらしいのが大人になってわかり、びっくりしたものですが
子供だった私は、かまやつさんが自分で作った、自分のことを歌った歌だと信じ込んでいました。(子供は作詞作曲者なんてあんまり気をつけて見ていないものです・笑)
『我が良き友よ』 は大ヒットして、彼の代表曲のように言われているけれど、
かまやつさんご本人としてはもしかしたら、 「あっち側の作品」 だったのかもしれません。
長く下積み時代を過ごし、 “ヒット=売れること” を一番の目標に頑張ってきたタカミー (私もですぅ~) は、
これらの発言には 「えー!?」 と驚きの (脱力笑い) 悲鳴を連発していましたが・・・
始めから売れていた かまやつさん ならではの発言ともいえるのかもしれませんね。
私は本当につい最近、タカミーを通してその活動内容や存在、音楽史的大きさを知った訳ですが・・・、
タカミーが尊敬してやまない偉大なる先輩のご逝去、
謹んで心からご冥福をお祈りいたします。
「フリフリ・メタルバージョン」
「フリフリ・カンレキーズバージョン」
ぜひ、歌い継いでほしいです。




後半、 タカミーの原点 『GS-グループサウンズ-』 に出てきます。


こちらも、タカミーの影響で買いました。
今回CDを探してみたけれど、ザッとみたところでは見つからなかった (必ずどこかにあるはずなのだが、整理が悪いため探し物がすぐに見つからないタチσ(^^;) ので、
ウォークマンに入れた物の写真で失礼します。
他に、タイガースやブルーインパルスのCD (ザ・リードとの抱き合わせ) を買ったり、またはGSグループの中から一曲だけのDLなどをしたり、タカミーのGSマイブーム到来の影響を少しだけ受けました。
( タカミーが好きだと言ったり、ラジオなどで口ずさんだ曲などが、どんなのか知りたくてDLしてみたものもありますが、
主には、『2015年 Takamiy ソロ』 で演奏された通りのセトリでウォークマンの 「お気に入り」 を作りたかったので、GS曲のメタルアレンジはまだCDなどになっていないため、GSの原曲でそろえたのです。 )


(吉岡つとむ著:1988年少年画報社-現在は絶版。
2004年に幻冬舎より、復刻版としてコミック5巻+メンバーと著者の座談会や撮りおろしフォト、漫画の番外編などを加えた別巻1冊付の 『ドリームジェネレーション 〜ジ・アルフィー物語〜 Complete Box』 も発売された。もちろん入手。) には、
かまやつさんのバックバンド時代のエピソードも。
(



京都 「まくら投げ事件」 や

沖縄 「いっぱい食わされちゃった事件」




売れてはなかったけれど、そして、お金もあんまりなかったけれど、
大好きな音楽が大好きな仲間たちとやれて、まだ学生時代の延長のような気分で (ん?いまでもか・笑) 先輩たちに可愛がられ、イジられ、
みんなで旅に出て、仕事が終わるとホテルで毎晩のように一杯 (いっぱい=沢山?) 飲んで・・・






アルフィーが、若く楽しかった時代・・・

このころのことを読みだしたら、もー止まらないほど (なので普段は「禁断の書」にしている) ある意味、一番いい時代だったのかもしれません。
(端から見て、個人的に・笑)
改めまして、今一度アルフィーの良き “アニキ的存在” だった かまやつひろしさん のご冥福を心よりお祈りいたします。

ムッシュかまやつ(本名:釜萢 弘(かまやつ ひろし)、1939年1月12日 - 2017年3月1日[1])は、日本のミュージシャン。通称「ムッシュ」。「ザ・スパイダース」の元メンバー。1989年以降は、ミュージシャンとしては「ムッシュかまやつ」が正式な活動名である。
東京都出身。

長男のTAROかまやつこと、かまやつ太郎はアーティスト。
ジャズシンガーの浅田陽子は母方の叔母、ジャズ・トランペッターの森山久は義理の叔父(浅田の夫)。
浅田を両親に持つフォーク歌手の森山良子は従妹、元歌手の森山奈歩(おぎやはぎの小木博明の妻)は従姪、シンガーソングライターの森山直太朗は従甥にあたるという音楽一家。
ジャズ・ミュージシャンの父ティーブ・釜萢 (米、ロサンゼルスにて日本人を両親に持つ日系アメリカ人2世として誕生。第2次大戦前までアメリカで育ち、来日後は日本人と結婚し日本にて音楽活動を展開した) の影響で幼少時から音楽に親しむ。
青山学院中等部卒業、青山学院高等部時代にカントリー&ウェスタン歌手としてデビュー。青山学院大学中退。
ミッキー・カーチスらと共にロカビリーや歌謡曲などもこなし日劇ウェスタンカーニバルにも出演。テイチクレコードにてレコードも多数吹き込む。
また田辺靖雄を中心にした 「六本木野獣会」 のメンバーでもあった。メンバーには峰岸徹、中尾彬、大原麗子、小川知子、井上順、福澤幸雄らがいる。野獣会といってもワイルドな集団ではなく、富裕層の子女が多かった。
様々な盛場へ出向くことや、ロカビリー歌手時代の映画出演の際の東宝や日活の撮影所での交流などで、時代に名を残すスター達と出会う。
これらの活動から、松村雄策はかまやつを日本初のロック・ミュージシャンと位置づけている。

スパイダースは、1961年田辺昭知(現・田辺エージェンシー社長)が結成し、ジャッキー吉川とブルーコメッツとともにGSの礎を築いたグループで、
ヒット曲には『夕陽が泣いている』、『なんとなくなんとなく』、『あの時君は若かった』などがあり、1970年に解散。
当時流行った多くのGSとは一線を画し、息の長い活動を展開、
当時の音楽の先端であったブリティッシュ・ビートに強く影響を受ける一方、堺正章、井上順、かまやつひろしの3人を主体に繰り広げられる軽妙なやりとりで、コミカルな要素が強い人気グループであった。
かまやつは始めゲストボーカルで参加した後、正式メンバーとしてヴォーカル及びリズムギターを担当、
代表曲である 「あの時君は若かった」「いつまでもどこまでも」「バン・バン・バン」「ノー・ノー・ボーイ」「フリフリ」「なんとなくなんとなく」 などを作曲した。


このアルバムは、当時世界的にも珍しかった 「一人多重録音」 という画期的な方法で制作された。


B面曲 『ゴロワーズを吸ったことがあるかい』(作詞・作曲:かまやつひろし 編曲:Greg Adams) はかまわつ曰く 「思い切り好きなことをやらせてもらうことにした」 曲で、
かまやつがファンだった 「タワー・オブ・パワー」(アメリカのファンク、R&Bバンド) が1974年末に来日した際、この曲のバックをやってもらえないかとダメもとで依頼したところ快諾されたということで、彼らが演奏に参加しているのが特徴。
だが発売当初の評判は散々だったらしい。


フュージョン、シティ・ポップ、ニュー・ウェーヴ等、音楽のトレンドに敏感に反応したアルバムも数枚リリース。
80年代以降は、若い世代のミュージシャンたちとコラボ企画で交流を深めていった事でも有名。



松任谷由実、小山田圭吾、ミッキー・カーチスなどがコメントを寄せたり、堺正章との共演曲などが話題を呼んだ。

大口ひろし、ルイズルイス加部と結成した 「ウォッカ・コリンズ」(Vodka Collins) の活動もある。
1999年には堺正章と井上堯之とともに 「ソン・フィルトル」 を結成し、シングル「Yei Yei」をリリース。
2006年頃からザ・ブルーズパワーへの客演を行っていたが、2009年9月2日に発売されたブルーズ・ザ・ブッチャー(ザ・ブルーズパワーの後身バンド、メンバーは永井ホトケ隆、沼澤尚、中條卓、KOTEZ)の 「Rockin' with Monsieur」 に参加し、ブルースやブリティッシュビートのカバーを手掛けている。


東京ヤクルトスワローズの青木宣親の応援歌に 「バン・バン・バン」 が使われていた(2006年度から変更)ほか、
北海道日本ハムファイターズの応援団が同チームの得点時にかまやつ作曲の 「I'm A 北海道 Man(お〜い、北海道)」 (オリジナルは三橋美智也) を演奏している。

常に音楽界の時代の波に乗りながら、あらゆるジャンルの若手ミュージシャンとも積極的に共演、
松任谷由実、伊藤銀次、THE ALFEE、Char、小西康陽、小山田圭吾、カヒミ・カリィ、曽我部恵一など、世代もジャンルも超えた多くの日本人ミュージシャン達から大きな尊敬を受けていた。


2016年9月6日、9月10日に出演予定だったイベントを欠席と肝臓がんであることが所属事務所から発表したが、実はその1年前の15年9月に膵臓がんであることが分かり手術を受けていた。翌2016年年5月の定期検査で肝臓がんが見つかり、この時は手術は行わず通院して抗がん剤による治療を受けていた。

当初は客席後方で観ていたが、堺の呼びかけに応じて登壇。堺と2人で 『サマー・ガール』 を歌った。
がん公表後初の公の場での姿であったが、同時にこれがかまやつ自身最後の公の場での歌唱となった。

一般人であるため公の場に出すことは一切なかったという最愛の妻も同年2月に癌で亡くなっており、自分よりも先にがんであることがわかってからは病院に付き添うなど妻を献身的に介護してきたというかまやつには、最期まで妻の死を知らせなかったという。
(妻の告別式の時点でかまやつ自身も意識混濁状態だったということではあるが)
また、一説によると従兄妹である森山良子が、退院後は自宅にかまやつを呼び寄せそこから通院させたりなど、何稀となく面倒を見ていたという。
かまやつの訃報の際には、覚悟はしていたが突然の死であったため憔悴が大きかったというが
「(かまやつは)たくさんの良き仲間たちに恵まれ、自分の音楽を大切にギリギリまで活動できた。病室でもギターを弾き歌い、最後まで音楽を肌身離さず、どんな時もムッシュらしい一生だった」
とコメントを寄せたという。
また、上記したように下積み時代前座をやらせてもらったりツアーに同行したりとかまやつに可愛がってもらった THE ALFEE はのちに
「かまやつさんはほんとに優しくて後輩の面倒をよく見てくれた。一番の思い出はツアーで京都に行ったときに、スタッフを含めた全員を祇園に連れて行ってくれたこと。まだ若かったから価値もわからなかったけど、あとから考えたらすごいことだなと。(「上記まくら投げ事件」じゃあなかったのね・笑)」(高見沢談)
「いつでもいてくれていると思っていたので、まだいなくなったという実感がわかない。さみしいけれど前を向いて僕らが引き継ぎ、歌い継いでいかなければならないですね。」(アルフィー談)
などと、テレビ、ラジオ、雑誌などで時にかまやつの曲などとともに、ことあるごとに語っている。


ムッシュ70歳の年に出たアニバーサリー・アルバム

我らがアルフィーは 『サマー・ガール』 を担当。 海辺が舞台の、都会的なお洒落なハーモニーを披露している。


編曲は武部聡志とMicro(マイクロ-本名:西宮佑騎(にしみや ゆうき)) で、全く古さを感じさせないハイビートな曲に仕上がっている。
ほか、『バン・バン・バン』(feat 一青 窈-ひとと よう)、『エレクトリックばあちゃん』(feat 堺 正章、井上 順、甲斐 名都-かい なつ) など、かまやつの才能を垣間見せるノリの良い曲や
今なお色褪せぬ代表曲 『あの時君は若かった』(feat 秦 基博)、『どうにかなるさ』(feat トータス松本)、『我が良き友よ』 なども網羅。
ラストを飾るのは実息、 TAROかまやつ とのコラボで 『ゆっくりとゆっくりと」(作詞作曲:TAROかまやつ)。

封入の寄せ書きには、TARO氏の幼少からの想いや今になりわかる父の生き方についての暖かいコメントが寄せられていました。
TARO曰く、初デュエット一発録り。照れ臭かったけどいい思い出になったという本曲は、ピアノの優しい調べに乗った父子掛け合いのバラード。
かまやつによく似たTAROの声に、優しい父の語るような言葉がこれに重なる。
歌い終わった直後に
「good job! Taro?」
「Thank you!」
という会話が胸に染みる。
Taroのひと言はアルバムタイトルとも重なる。
1939年はかまやつの生まれ年だが、かまやつを慕うミュージシャンからの、ありがとうの意味を込めたサンキューともかけている。

寄せ書きには THE ALFEE (ひとつ上の写真) ほか、
ザ・スパイダースや音楽界を中心とした著名人が並び、お祝いや感謝など、沢山の暖かい言葉で埋め尽くされている。

アルバムプロデュースは、音楽プロデューサーでキーボーディストの 武部聡志。
アルフィーらとともに早くからかまやつにその才能を買われ、まだ音大生だった武部も目をかけてもらい自身のアレンジやプレイを任されてきた。
その出会いや歩み、感謝の言葉で彩られたリーフレット冒頭に寄せられた武部のコメント。
トレードマークはエルメスのニット帽。
愛用の煙草は曲にある通りのゴロワーズだったという。
1966年のビートルズ日本公演の際、ザ・スパイダースは前座としての出演を打診されたが、前座出演をすると折角ビートルズが来たのにコンサート自体が見られなくなるため、 「PRとしておいしい話ではあったが辞退し、他の何人かのメンバーと共に客席からコンサートを観た」 という逸話が残るなど、
『我が良き友よ』 の友そのままのようなバンカラ、破天荒、我儘なイメージを我々は持っていたが、
実際のかまやつは育ちがよいジェントルマンでいつも笑っているような穏やかで優しい人物だったようであり、多くの若者に目をかけたことから、後輩や仲間内、スタッフなどから広く慕われ、愛されていたという。

リーフレット巻末に載る 70年代にムッシュのバックを務めた 「フラット・アウト」 のメンバーと、当時のスタッフとのスナップショット。
ムッシュ亡きあとに初めてアルバムを聞いた時はなんだか切なかったけれど・・・
改めて聞くと暖かさと明るさ、愛に満ち溢れた素晴らしき記念の一枚だと思います。
皆さんもよろしかったらぜひお気に入りの一枚に加えてみてはいかがでしょうか。
偉大なるムッシュかまやつの足跡が良くわかる一枚だと思います。


※ 以上、略歴はウィキペディア等を抜粋、参照させていただきました。
※ 音楽葬について書き忘れたので、後日追加します。

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