雪の朝ぼくは突然歌いたくなった

2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。

髭彦閑話51「93歳の恩師・大田尭を描いた映画<かすかな光へ>の公開に寄せて」

2011-07-13 17:21:44 | 髭彦閑話

僕の大学時代の恩師・大田尭(たかし)先生は93歳になる現在も、学びを軸とした教育の独創的な探求を旺盛に続けられている。その大田先生の<夢とあこがれ>を描いたドキュメンタリー映画「かすかな光へ」が完成し、もうすぐ公開される。
監督:森康行/音楽:林光/詩:「かすかな光へ」作・朗読 谷川俊太郎/ナレーション:山根基世
●東京完成披露有料試写会情報
・2011/7/16(土)14:00開演(13:30開場)
・会場:早稲田大学文学部キャンパス38号館AV教室
●劇場公開情報
・2011/7/30(土)~ポレポレ東中野にて公開決定
http://kasuka-hikari.com/
                              *

僕は東大教育学部教育学科教育史・教育哲学コース(略称「史哲」)を1968年に卒業し、同じく大学院に進学して「落ちこぼれ」、中高の社会科教師になったのだが、不肖の弟子として今でも時おりおつきあいをしていただいているお一人が大田先生である。
その大田先生から、まさに3.11の当日に最新著の『かすかな光へと歩む 生きることと学ぶこと』(一ツ橋書房)が届いた。
しかし、せっかくお送りいただきながら、生まれ故郷を襲った原発大震災の強烈なショックで、しばらくはそのごく一部しか目を通すこともできないまま、机の上に積んでいた。
ようやく少し落ち着いて読み終わったのは、6月になってからである。
ちょうどその後、6月末に、その本の一節とも関わって、埼玉県東浦和の先生のご自宅で開かれた「見沼フィールドミュージアム勉強会」に参加することになった。

元社会科教師の僕は、定年退職した2年前の4月から不思議な縁で、毎週木曜日、埼玉県<見沼田圃>の野草の勉強に通っている。その見沼田圃の野草を独力で35年間研究してこられた山田貞ニ郎先生と、5年前から山田先生について勉強してきたH田久美子さんの仲間に、なぜか僕が加えていただいたのである。
実は、H田さんは僕が駒場時代に学生運動を通じて知り合った友人で医師のH田泰君(父親が、内部被曝に先駆的に取り組んできた彼のH田舜太郎医師)のつれあいである。そのH田さんを山田先生に紹介したのは、やはり駒場時代の友人で緑区三室に住んでいるK部勝秀君だ。K部君は法学部を出た後、埼玉共同病院の設立と運営の中心的役割を果たし、60歳で定年退職した後は、自宅近くの芝川沿いで300坪の無農薬野菜農園(時おりもらう野菜の味は絶品である)を独力で営みながら、多様な地域活動を展開している。
僕は大学院を中退して海城の社会科教師になってからは、駒場、本郷を問わず東大時代の友人とは、ごく一部を除いてほとんどつき合いを断ってきた。
わずかに時おり連絡のあった一人は、大月書店と柏書房で長く編集者を務めたS保勲君である。そのS保君が定年退職後、2007年の夏に家族と一緒に登った八ヶ岳の硫黄岳で心臓発作に襲われ、結局、9月に亡くなってしまった。
そのS保君の死をいわばきっかけとして、駒場時代の友人たちとのつき合いが復活したのである。
2008年の夏に、S保君の追悼登山ということで、10人ほどの仲間と一緒に僕も硫黄岳に登った。その帰りの電車で偶然2人だけになったのが、K部君だった。40年近い空白を埋めるために、色々な話を互いにし合った。その一つが、K部君が長年住んでいるという見沼のことだったのだ。
僕は海城中学高校で創設した社会科総合学習の教材づくりのために情報収集をしている過程で、見沼田圃の存在に注目したことがあった。いつか足を踏み入れたいと思いながらも、果たせていなかったのである。そこにK部君が住んでいるというのだ。ぜひ訪ねたいと言うと、それなら地域の自治会で<見沼を歩く会>というのを毎月やっているから来ないかと言う。願ったり叶ったりだった。
8月の会に参加させてもらい、以後、何回か見沼を歩いているうちに知り合ったのが、野草の講師役として参加されていた山田貞ニ郎先生だったのだ。
K部君が前回の国勢調査の際、調査員として山田先生宅を訪問し、先生が独力で見沼の野草を研究調査してこられたのを知り、<見沼を歩く会>の講師に頼み込んだのだという。
思いがけないことに、その山田先生から毎週木曜日に見沼を歩いているので来ないかとお誘いを受けたのである。なぜど素人の僕などに声をかけてくださったのかは、今もってナゾである。
そして、定年退職した2009年4月からはほぼ毎週木曜日の午後、山田先生、H田さんと一緒に見沼田圃を歩いてきたのだ。当初、ホトケノザとヒメオドリコソウの区別さえつかなかった僕でも、今は家族や友人たちにさも100年前から知っていたような顔をして教えてあげられるようにはなった。もちろん、山田先生やH田さんと較べれば僕は落ちこぼれ寸前の覚えの悪い初心者にすぎない。
ところで、70代後半で健康問題も抱えられている山田先生は、35年間独力で研究調査した成果の集大成を急がれ、先ごろついに『見沼田圃の野草 実態調査の記録 1975~2010』(上・中・下)という大部の写真図鑑を完成し、自費出版された。前人未到の貴重な研究調査の記録である。

その出版を受けて、K部君から大田先生宅で開かれている「見沼フィールドミュージアム勉強会」で山田先生に「見沼の野草と自然」というテーマで報告して欲しいとの依頼があり、H田さんと僕にも声がかかった。
法学部出身のK部君が大田先生と知り合ったのは、大学時代ではなく見沼での地域活動を通じてのことだったという。特に、10年近く前に大田先生が奥様を亡くされた後、ある夏にそれこそ「熱中症」のような危機に陥ってしまった大田先生を、埼玉共同病院に担ぎ込んで救助したのがK部君だった。
健康を回復された大田先生は、都留文科大学の学長時代に構想・実現した<フィールドミュージアム>を、見沼に残された貴重で広大な緑地でも実現したいという夢を抱かれるようになり、K部君もそれに協力するようになったのだ。
大田先生は多額の私財を埼玉大学に寄付され、それを基に昨年度から環境学科の安藤聡彦教授の下で「見沼学」という講座が設けられた。この安藤教授を中心に、見沼の自然・歴史・文化・行政に関わるさまざまな活動をしている人たちが、定期的に大田先生宅で開いているのが「見沼フィールドミュージアム勉強会」である。
山田先生の報告と資料として回覧された『見沼田圃の野草 実態調査の記録 1975~2010』は、大田先生をはじめとする参加者に大きな感動を与えた。大田先生からは翌日わざわざ僕に電話があり、改めて山田先生の研究調査に対する感銘・敬服の念と僕がそれに協力していることへの過分の評価が伝えられた。

その勉強会の席上で配られた資料の中に、映画「かすかな光へ」のチラシがあった。3.11の地震直後に先生から届いた『かすかな光へと歩む 生きることと学ぶこと』のなかに、『朝日新聞』の2008年元旦号に載ったという谷川俊太郎の詩「かすかな光へ」が全文引かれていた。映画も本も、その題名はこの詩から取られていたのだ。
僕は20代の半ばから谷川俊太郎の詩を読み始めた。今でも僕が詩人の中で最も敬愛するのは、男では谷川俊太郎である(女では茨木のり子)。
最近、谷川俊太郎と岩波の元編集者で谷川の友人でもある山田馨が対談して、谷川の詩の真実に迫った実に興味深い本を読んだ(『ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る』ナナロク社、2010年)。それには、この詩はとり上げられていないが、関連する詩はいくつかとり上げられて分析されている。
谷川はやはり端倪すべからざる天才であった。その多様な詩を通じて、誰よりも鋭く、また豊かに人間の本質に迫ってきたのだと改めて感嘆した。「かすかな光へ」もまた、まちがいなくそうした詩の一つである。であればこそ、大田先生がこの詩を人間の生涯にわたる学びの本質に迫るものとして感動し、著書に続いて映画の題名にも選ばれたのであろう。
映画では、谷川俊太郎自身がこの詩を朗読するという。ナレーションはこれまた僕が敬愛する山根基世だ。林光の音楽も楽しみである。
16日の試写会には、森康行監督と大田先生のトークもある。大田先生とは会場でまたお会いしますと、電話で伝えた。

最後に、谷川俊太郎の詩「かすかな光へ」の全文を載せておきたい。

                              *

 かすかな光へ     谷川俊太郎


あかんぼは歯のない口でなめる
やわらかいちいさな手でさわる
なめることさわることのうちに
すでに学びがひそんでいて
あかんぼは嬉しそうに笑っている

 言葉より先に 文字よりも前に
 波立つ心にささやかな何故? が芽ばえる
 何故どうしての木は枝葉を茂らせ
 花を咲かせ四方八方に根をはって
 決して枯れずに実りを待つ

子どもは意味なく駆け出して
つまずきころび泣きわめく
にじむ血に誰のせいにもできぬ痛みに
すでに学びがかくれていて
子どもはけろりと泣きやんでいる

 私たちは知りたがる動物だ
 たとえ理由は何ひとつなくても
 何の役に立たなくても知りたがり
 どこまでも闇を手探りし問いつづけ
 かすかな光へと歩む道の疲れを喜びに変える

老人は五感のもたらす喜怒哀楽に学んできた
際限のない言葉の列に学んできた
変幻する万象に学んできた
そしていま自分の無知に学んでいる
世界とおのが心の限りない広さ深さを



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6 コメント

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赤い月 (芙蓉)
2011-07-15 22:59:32
髭彦さま、こんばんは。
今日はまた一段とお月様が綺麗ですね。
谷川俊太郎、私も大好きな詩人です。
かすかな光へ、
学びがひそむ...ほんといい詩ですね。

以前、「題名のない音楽会」の公開収録で、
谷川俊太郎、賢作親子の朗読と音楽のコラボを聞きにいったのですが、父が子を、子が父を、それぞれお互いの才能を認め合い、尊敬しあい、必要とする関係で、とても感動しました。
俊太郎さんの朗読は心に響きとても素晴らしかったです。あったかい人柄がずしんと伝わってきました。

そういえば、手塚治虫作品「鉄腕アトム」の主題歌を作詞したのも、谷川俊太郎さんですね。
未だ衰えることのない創作意欲、気力に圧倒されます。

試写会ですか?
いい時間を過ごされますように。

返信する
芙蓉さん、こんにちは (髭彦)
2011-07-16 11:40:32
昨夜は、近所に住む娘の誕生日を祝って根津のおいしい鮨店で夕食を食べてから、一緒に僕のマンション(タウンハウス型)に帰って屋上でコーヒーを飲みました(僕だけはアルコール!)。空には満月とおぼしき美しい月が輝いていました。東京では赤くは見えませんでしたが、その月ですね。

もうすぐ、「かすかな光へ」の試写会に出かけます。
僕も谷川親子のコラボレーションを聴いたことがありますが、いいですね。
まさかその谷川俊太郎と恩師の大田尭先生のコラボレーションが生まれるとは、まさに「想定外」でしたが、こういう「想定外」なら大歓迎です。

猛暑が続いています。ミルク・クルミちゃん共々、元気に暑い夏を乗りきられますように。
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大田先生と見沼のために (関正則)
2011-10-12 19:18:57
関正則(55歳)と申します。出版社に編集者として勤めておりますが、大田先生のご自宅の近くに住んでいて、大田先生宅より見沼田んぼに近いのが唯一の自慢です。ご紹介されていた『かすかな光へ』を早稲田大学で見て、大変感銘を受け、上映運動のお手伝いのようなことをしています。来週には、大田先生と一緒にソウルに行き、映画をソウル大学で上映いたします。「見沼を歩く会」にも参加したいと思いますので、ぜひ一度お誘いいただければと思います。
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関さん、ようこそ (髭彦)
2011-10-13 20:23:35
はじめまして。
大田先生との御縁(地縁?)や、『かすかな光へ』上映会のために93歳の先生とソウルに行かれることなど、関さんが編集された本は何冊か読んでいますので、なおのことビックリしました。
光栄です。
「見沼を歩く会」というのは、Y先生を師に僕を含め3人で毎週木曜日の午後、見沼たんぼを歩いていることを指しているのだと思います。
もし時間的に参加可能でしたら、Y先生も大歓迎されることでしょう。
GZA01761@nifty.com(@は全角になっています)にメールをいただければ、幸いです。
よろしくお願いします。
返信する
見沼たんぼ (柴田勝征)
2012-01-18 09:41:15
僕は埼玉大学在勤中は大宮市の住宅に住んでいて、見沼用水に沿って、よく徒歩や自転車で散歩していました。目良君のフェイスブックのカラー写真も、懐かしい想いで見させてもらっています。特に、娘が浦和西高に通学していたころは、家から見沼用水沿いに自転車を片道40分くらいだったか飛ばして、見沼用水沿いに建っている浦和西高校の校庭に入って、娘が部活をやっている吹奏楽部の練習風景などを盗み見したりしていました。「変な覗き見オヤジ」として摘発されなかったのは幸いでした。
返信する
そういえば… (髭彦)
2012-01-18 15:41:43
柴田くんもかつては、見沼田圃が生活圏に含まれていたわけですね。
神部くんは、300坪もの無農薬有機農園を自力でやっていて、時々とびっきりおいしい野菜を山のようにくれます。
大田先生のことも含めて、不思議な縁です。
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