雪の朝ぼくは突然歌いたくなった

2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。

髭彦閑話53 マティアス・ゲルネの時代

2011-10-18 17:36:17 | 髭彦閑話

愛と死と戦を歌ひ吾らから時を奪ひぬマティアス・ゲルネは

バリトンでフィッシャー・ディスカウ超え継ぐをつひに聴きたりゲルネの歌に


10月16日(日)に開かれた「マティアス・ゲルネ バリトン・リサイタル」(東京オペラシティ・コンサートホール)に行ってきた。
聞きしに勝る歌手と演奏だった。
終演後、思わず「ゲルネの時代」と言う言葉が口から洩れた。
数年前にある音楽雑誌で、次代を担うバリトン歌手として名前があがっていた。
図書館でシューベルトの『冬の旅』を借りて聴き、その深い美声と音楽性の豊かな表現力に心を奪われた。
半世紀も前の高校生の頃から、日本でもフィッシャー・ディスカウの時代が始まり、その時代が終った後、フィッシャー・ディスカウを超えるバリトンのリート歌手は出現しなかった。
40代半ばのゲルネは若き日に、そのフィッシャー・ディスカウとこれまた一時代を代表したソプラノ歌手シュヴァルツコップの薫陶を受けている。
フィッシャー・ディスカウの歌のうまさは天下一品だったが、声自体はどこか金属的な響きがあり、決して美声という訳ではなかった。
それに対して、ゲルネは歌のうまさに加えて実に声が美しい。
ピアノではアンスネスの時代が、リートではこのゲルネの時代が始まっている。
しかし、オペラシティの決して大きくはないホールの3分の1は空席だった。
日本ではゲルネの認知がまだ遅れている。
だが、それも時間の問題だろう。
当日のプログラムは、シューマンとマーラーの歌曲を休憩なしで、愛と死と戦のテーマ毎に交互に歌うという、異例の意欲的なものだったが、その意図は十分に成功したと言ってよい。
時を忘れてゲルネの歌に聴き入った。
ピアノのアレクサンダー・シュマルツも、実にうまかった。
プログラムは、以下の通りである。
 
 <Ⅰ>
マーラー:   私はやわらかな香りを吸いこんだ (「リュッケルトの詩による5つの歌曲」から)
シューマン:  詩人の目覚め (「6つのリート」op.36から)
        愛の使い (「6つのリート」op.36から)
マーラー:   美しいトランペットが鳴りわたるところ (「子供の不思議な角笛」から)
シューマン:  ぼくの美しい星 (「愛の相聞歌(ミンネシュピール)」op.101から)
        隠者(「3つの歌」op.83から)
マーラー:   原光 (「子供の不思議な角笛」から

 <Ⅱ>
シューマン:  夜の歌 (「リートと歌」第4集op.96から)
マーラー:   浮世の暮らし (「子供の不思議な角笛」から)
        なぜそのような暗いまなざしで (「亡き児をしのぶ歌」から)
        おまえのお母さんが入ってくるとき (「亡き児をしのぶ歌」から)
シューマン:  ものうい夕暮れ (「レーナウの6つの詩」op.90から)
マーラー:   私はこの世に忘れられ (「リュッケルトの詩による5つの歌曲」から)
シューマン:  終わりに (「ミルテの花」op.25から)

 <Ⅲ>
シューマン:  兵士 (「5つのリート」op.40から)
マーラー:   死んだ鼓手 (「子供の不思議な角笛」から)
シューマン:  2人の擲弾兵 (「ロマンスとバラード」第2集op.49から)
マーラー:   少年鼓手 (「子供の不思議な角笛」から)

<アンコール>
シューマン:  献呈 (「ミルテの花」op.25から) 


Yotubeにゲルネとシュマルツの演奏があったので、リンクしておきたい。

Matthias Goerne - Alexander Schmalcz - Wanderers Nachtlied Schubert - Goethe




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