夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

小学校での英語教育・その続き

2009年11月12日 | 言葉
 一昨日書いた事に言い足りない部分があったので、再びこの問題について考えた。
 私は二カ国語以上に堪能な事は素晴らしい事だと思っているし、私自身、他の諸言語に強い興味を持っている。母語とは異なる言語に通じていれば、その言語独特の発想方法も手に出来る。それが母語同然に幼児から習得したのであれば、言う事は無い。民族が異なるのだからその言語が発音にしろ、構造にしろ、表現にしろ、発想方法にしろ、互いに違っているのは当然。それは自然発生的に生まれたのであって、あのブログのコメンテーターの一人が言っている「英語はその他の欧米諸国の言語と同様、自然から抜け出て神に近づこうとする精神性が、自然のあり方そのままでないようにことさらに人工的な脚色を加えて創られた言語」だとは思えない。何故に神に近づく事は自然から抜け出て殊更に人工的な脚色を加えなければならないのだろうか。神イエスは自然そのままを愛したのではなかったのか。
 人工的な言語に対して日本語は自然な言語だと言うのだが、その根拠の一つが自然な母音らしい。五行思想に従えば現在の日本語のような自然な母音になると言う。それが江戸時代の安藤昌益の説明を使っての次のような説明になる。

 〈たとえば、アイウエオは五行の中心である土の音で咽音と言って咽を開いて発声します。次のカ行は木音で牙音とされています。これは前歯を付けて発声するということですが、前歯を付けなくとも咽を一旦絞めてから発声すれば可能ですので私は順番的にア行の次に来ルのだと思っています。
 五行的な順番に従えば次は火音(舌音)でタ行とナ行がそれです。これは、舌を口の上壁につけてから発音します。五十音的には順番が前後しましたが、その次はサ行とラ行でこれは金音(歯音)といって奥歯を付けてから発音します。最後は水音(唇音)で唇と一旦閉じてから発音するハ行とマ行です。ハ行はパにするとより強く口を閉じることになります。〉

 だが、こうした発音は日本語独自の物とは言えない。これは人間として自然な事なのではないのか。中国語にも同じような発音はある。しかもこちらの方が五行思想の本家本元である。その中国語はこのコメンテーターの忌避する「私 好き あなた」の言語なのである。それにハ行は口を一旦閉じてから発音とあるが、現在のハ行はそうではない。パ行だった時にはそうだったが、バ行はファ行に変化し、現在のハ行になっている。そうした事は無視するのか。子音の発音がそんなに大きな問題になるのなら、パ行がハ行に変化した事で、日本人の発想法も変化したと言う訳だ。それに、サ行は中世でもシャ行だった事はどうなるのか。上の説明に無いヤ行、ワ行、ガ・ザ・ダ・バ行などはどうなるのか。更には八つあった母音が五つに減った事は発想法とはどのような関係があるのか。より単純になった事で、より自然な言語になったとでも言うの。

 朝鮮語だって五行思想の波を受けている。韓国語では曜日の火曜から土曜までは五行の木火土金水である。それは日本と同じ。暦学者はこれを惑星の名前だと言うが、それは間違いだ。この事はまた別の問題にしたいが、惑星の名前と思っているのは、本当は神の名前なのである。たまたま、多くの言語で神の名前を惑星の名前に付けているから、そう思ってしまうだけの話。だから英語では曜日の名前は惑星の名前ではないのだ。英語では惑星の名前はローマ神話の神の名前、曜日の名前は北欧神話の神の名前なのである。日本語では土曜日は土星の名前だと言うのなら、世界中で土星の名前を土曜日に使っている言語は無い事をどのように解釈するのか。土曜日の「土」は五行の「土」なのである。それは韓国語も同じ。ならば朝鮮語も明確に五行思想から考える必要がある。つまり、それは朝鮮語も日本語と同じだと言う事になる。
 次の説明も私には分からない。

 〈加えてもっと大事なことは、日本語が何故他の言語に比して認識の細かい襞を表現できるのかということです。その秘密は“てにをは”の存在にあります。それを可能にしているのが一音で意味を表せることのできる母音中心の構造ですが、これは口の構造を素直に使っているということなのです。〉

 確かに必ず母音を伴う日本語なら一音で意味を表す事が出来る。だが、それだからこそ、同音異義語が多くなってしまう。それは決して「認識の細かい襞を表現出来る」事にはならない。むしろ、細かい襞など消えてしまう。開音節(母音終わり)にしなければ、例えばkak、kat、kab、kap、kafなどの発音が可能になれば、もっとずっと細かい襞の表現が出来る事になる。
 このコメンテーターは自分が英語を使って外国人と話をする時の事を次のように書いている。

 〈私が日本語が特殊という結論に至ったのは、英語での会話を外国人として政治の話等をするとき、なぜか自分も思いやりのない外国人のようにその時なる(あたかも違う人格のように)。〉

 違う人格になったように思うのは当然だろう。発想法も何もかもすべて日本語とは異なる言語で語るのだ。それと自分も思いやりのない外国人のようになる事とは全く関係が無い。はっきりと言おう。それはこの人が思いやりの無い人だからである。だから、日本語にはあると言うその「思いやり」を英語で発揮する事が出来ないだけの話。それは単に日本語もよく分かっていないし、英語ならなおさらに分かっていない、と言う事である。日本人として思いやりを意識しているのなら、なんとかしてそれを英語でも伝えたいと思うのが当然である。テレビにも芸能人を始めとして、二カ国語以上に堪能な日本人が登場する。彼等は英語で話すと思いやりの無い人間になるのか。
 吉田茂や白洲次郎といった英語が堪能な日本人は英語で堂々と日本人の真意を相手に伝える事が出来た。日本人の微妙な心の襞をはっきりと相手に伝える事が出来た。ただ、たまたま相手の程度が悪過ぎて、そうした微妙な心の襞を理解出来なかった、あるいは理解しようとしなかっただけの話なのである。
 どこから、日本語だけが自然で優しい言語であり、欧米諸語は不自然な人工物で微妙な心を持たない言語だとの認識が生まれたのか、私には不思議でたまらない。日本人が虫の音を聴き分ける能力があり、欧米人がどの虫の音も同じにしか聞こえない事は私も知っている。しかしそれは脳の働かせ方の違いだと聞いている。それと母音が明瞭な日本語と子音を巧みに使い分けている欧米諸語の違いに結び付くとは思いもしなかった。母音が単純でおおらかなイタリア人はさぞかし日本人と同じく虫の音に聞き惚れている事だろう。
 日本語が劣っている点についても考慮する必要があるはずだ。日本人は論理的な展開が苦手な人が多い。それは前に述べた事が曖昧なまま次に進むから、どんどん曖昧さが増幅してしまうのである。例えば、何でも「もの」で通してしまう。最初の「もの」が何を指しているのかが明確になっていないで、次の展開が理解出来る訳が無い。だが、多くの人々がまあ、こんな事なんだろう、とたかをくくって済ませて文章などを読んでいるから、論理が間違っていたって気が付かない。

 小学校低学年からの英語教育に大きな疑問があるのは、それは単に「教育」だからだ。生活の中から生き生きと身に付けた言語ではないからだ。母親から子守唄などで伝えられた日本語、暮らしの中で、あるいは友達とけんかしたりしながら覚えた日本語、そうした日本語とは遥かに離れた英語で、どうやって自分の心を正しく伝える事が出来るのか。前にも書いたが「君が僕は好きなんだ」の言い方を英語では出来ないのなら、それに近い表現を工夫すれば良いだけの話である。「は」と「が」の使い分けは日本語の日本語たる代表的な能力だろうが、日本語には出来ないが英語には出来る表現もある。

 〈「日本人の情緒を壊滅させるために英語を幼児期から教えるのです。」〉
 「第二外国語での表現力は第一外国語の表現力の7-8割なので、第一外国語での表現力減少にも役立ちます。こうなると、抽象的かつ複雑な思考はできない人間になります。」〉

 幼児期から英語を教えたらなぜ日本人の情緒を壊滅させる事になるのか。この人の言う「情緒」とは一体何なのだろう。多分、ふわふわとした捉え所の無い表現を指しているのだろう。真実の情緒なら、英語を教わったからと言って簡単に壊滅するような物ではない。
 それに第二外国語が第一外国語の表現力の7~8割しか無いと言うのは分かるが、幼児期から教えられたのならば、第二外国語とは言えない。これも第一外国語になり得る。昔、受験生に英語をラジオで教えていたジェームス・B・ハリスと言う米国人が居た。日本語などそれこそぺらぺらである。ある人が尋ねた。考える時、日本語ですか、英語ですか、と。彼はちょっと考えて、「英語です」と答えた。
 本人でも考えないと分からないくらい、日本語と英語が自分の母語と言えるくらいに差が無くなっている。表現力はどちらも同じはずである。表現力に大きな差があるなら、彼は意識して日本語と英語を使い分けているはずである。それが無いのである。
 つまり、この論理は根本から破綻している。何か、頭からある種の思い込みがあって、それにがんじがらめに縛られている。
 
 〈情緒がなく抽象的かつ複雑な思考はできないにんげん、これが支配者層にとってはのぞましいものであり、現在では世界中でも日本にのみ少数のこっているのです。これを排除できないと世界支配ができないのでしょうね。〉

 一体、どこからこうした考え方が生まれているのか、私は本当に分からない。