夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

ODAの拠出金が少ないのは恥なのか

2009年11月14日 | 社会問題
●ODAの拠出金が少ないのは恥なのか
 今日の東京新聞の投稿に日本リザルツ事務局長の肩書きの白須紀子と言う人が意見を述べていて、結論として、次のように書いている。

 途上国へのODA拠出額が、ピーク時から比べて40%近くも減少している。今回の会議に出席して痛切に感じたのは、世界に向けて恥ずかしくない援助政策を速やかに実行に移すことである。あすにも日本に「災い」が降りかかり、人の「情け」が必要になるかもしれないのだから。

 そうだろうか。日本でも貧困で自殺する人や飢えている人が居ると言うのに、それには目をつぶって途上国の援助なのか。「恥ずかしくない援助」だって? 自国の民が飢えているのは恥ずかしくないのか。
 この人は、日本は経済不況の真っただ中とはいえ、依然として経済的には世界第二位の大国だ、と言っている。では経済大国の日本なのに、なぜ多くの人々が苦しんでいるのか。経済大国とは本当の事なのか。何かの数字に騙されているのではないのか。本当に世界第二位だと言うのなら、その経済力が我々日本人のためではなく、何か全く別の事に使われている事になる。多分、この人は「雲の上の人」なのだろう。
 「災い」が降りかかって来た時には「情け」が必要だと言っているが、その根拠には関東大震災の時に世界中から援助の手が差し伸べられた事を例に挙げている。だが、これはまさしく「災害」なのだ。災害時に被災国に無事な国が援助の手を差し伸べるのは当たり前の事である。もちろん、関東大震災の時がそうで当然だ、などと言っているのではない。日本はいつだって、被災国に援助をしているではないか。
 日本がいつ「情け」が必要になるかも知れない、と言う結論にこの人の考えが明確に表れている。災害時の援助は普段からの常識の範囲内なのだ。ODAの拠出金は、そうではないだろう。確か、カネの余っている国にも渡っている。
 私はよその国に出すのなら、自分の国に出して欲しいと思っている。多くの人々がこんなに困っているではないか。国にはそれぞれに事情がある。貧乏な国もあれば金持の国もある。それは国民性にもよる。貧乏な国が金持の国に搾取されて貧乏になっているのなら、金持の国は貧乏な国を助ける義務がある。独裁政権が国民を苦しめているのなら、そちらを解決する方が先だろう。確かアメリカはイラクの国民を圧政から救うのだと言って、あの戦争に突入したのではなかったか。もちろん、それが正しい事だとは思えないが。
 世界の国にはそれぞれに特殊な事情がある。民意が低い事が発展を阻害している事もあるだろう。だからと言って、目に見える弊害だけを救っていれば、それで良いのだろうか。北朝鮮だって国民は飢えているだろう。それには知らん顔を決め込んで、カネで解決出来る事だけに専念する。まあ、何事もカネで解決するのが一番手っ取り早いのは確かだが。ODAの拠出金とは一体どのような性格なのか。
 カッコばかり付けて実質が伴わない事をして、何が嬉しいのだろうか。これは貧乏人のひがみだろうか。

●テレビの字幕に疑問がある
 テレビでテレサテンの特集をやっていた。歌も彼女も好きだから見た。その中で「北国の春」などの超有名でアジア諸国でも流行った歌を中国語で歌っていた。中国語はフランス語と並んで、世界で最も美しい言葉と言われている。日本語のような母音が主の言葉も美しいが、どうも陰影に欠ける。
 その中国語の「北国の春」で画面に字幕が流れた。だが、それは中国語の歌詞の日本語訳ではないのだ。日本語のあの歌詞がそのまま字幕として流れた。あれほど有名な歌詞なのだから、誰でも知っている。今更字幕で流してくれなくても分かっている。
 我々が知りたいのは、中国語ではあの歌詞はどのように訳されているのか、である。
 この歌だったか、別の歌だったかは覚えていないが、中国語の歌詞が、中国語そのままの字幕が出た。そんなの我々日本人が見たって分かる訳ないじゃないか。
 英語の歌なら、多くの人が英語を少しは分かるから、字幕で英語が出てもそれなりに有効ではある。もちろん、ほとんど分からなくても、まるで見当が付かない訳ではない。これは私個人の感想だが、英語の歌は英語の字幕と日本語訳の字幕の両方を出して欲しい。中にはまるっきり字幕無しもある。特にポップスの番組に多い。多分、英語の歌詞なんか知っていて当たり前だと思っているのだろう。そうした人だけを対象にしているのだろう。
 もちろん、フランス語だって出してくれるに越した事は無い。耳からでは駄目でも、目からならフランス語が分かる人だって居る。日本人の多くは目で外国語を学習しているのだから。
 けれども、たいていの歌番組がこうした事にはまるで無関心である。手間が掛かるからやらないのか、分かるとは思われていないからやらないのか。多分、どちらでもあるのだろう。まあ、番組の担当者にそれだけの見識が無いのだろう。担当者が歌詞に重きを置いていないのだろう。

 NHKに「アインシュタインの目」と言う番組がある。高感度カメラや電子顕微鏡などの映像を使って、普通には見えない物を見せてくれる。先日、宮大工のかんな掛けの素晴らしさを見せていた。そのかんなの刃の角度が確か37・5度だった。それがどんなに素晴らしい角度なのかを、ほかの角度で削った物と比較して見せる。40度(だったと思うが)でも駄目。だが、38度では、37度ではどうなのか。なぜ37・5度が一番良いとの結論に至ったのか、それは見せなかった。
 番組は90度の角度から始めていたが、誰だってそんな角度では板は削れない事を知っている。そんな馬鹿馬鹿しい事をしているくせに、37・5度に近い角度での削った結果は見せないのである。それでは37・5度が良いとの結論にはならない。そうした事から、もしかしたら37度でも38度でも良くて、板材の性質とか職人の腕とかによってばらつきがあるのではないか、と疑ってしまう。だからその映像は見せられない。けれども37・5度の結論はいかにももっともらしい。

 上記の番組はどちらも、たまたまNHKである。受信料を取っていながら、サービス精神に欠けている。本当は民放だってある意味では有料放送なのだ。番組のスポンサーに視聴者は何らかの料金を支払っている。スポンサーはその料金の中からCM料金を支払っている。だからテレビはいずれにしても、視聴者へのサービスを第一に考えるべきだろう。それなのに、NHKは高飛車だし、民放はスポンサーの顔色しかうかがわない。