ブログにコメントを頂くのはとても嬉しい。否定にしても肯定にしても、そこから更に考えが深まる。
先日、大工仕事のかんなの刃の角度についての疑問に答えてくれた人が居る。私のそのブログはタイトルは全く別の事だった。その最後にこの問題を挙げた。それに対して返事を下さったのだから、とても注意深く読んでくれている訳だ。
私の疑問は、テレビの番組で、確か37・5度が刃の角度としては最良なのだ、との事をその削りかすと削った板の表面の拡大写真で見せていた。しかし、その前後の角度については無言のままだった。だから、私は最良の角度にはある幅があるのでは、と疑った。そしてそれを見せない番組に不信感を持った。
思った通りの答がもらえた。ハンドルネーム「大工」さんが、御自身の経験で最良の角度は削り方と板材の質とで違う、と教えてくれた。
私がこうした事に重きを置くのは、「…は○○ですよ」と言われて、そのまま鵜呑みにしてはいけない、と常日頃から考えているからだ。そう言われたなら、では「…は××ではない」との証明をする必要がある。だが、世間は往々にしてそれをしない。「…は○○です」なんて事、あったり前じゃないか、と高飛車に出る。
もう本当に一方的な事しか言わない。様々な本もそうした物が多い。
先日、私は日本語の事で良い勉強をした。ある人が日本語は発音に無理をしないので、自然な考え方が出来る最高の言語である、と言った。他の言語では複雑に口の形を変えたり、舌を巻いたりして多くの発音を生み出しているが、その複雑さが自然な考え方を損なっていると言うような発言をしていた。日本語の単純な発音を補うのが「てにをは」で、それでほかの、語順によるしか意味が表現出来ない諸言語よりも情緒豊かな表現が出来る、と言う。言い方は違うが、趣旨は間違っていないはずだ。
それには確かに一理ある。しかし日本語が最良の言語だとどうして断定出来るのか。他の言語では情緒豊かで合理的な表現が出来ないのだ、との証明をしなければ、それは成り立たない。分かり易い例として韓国語がある。言語の系統としては日本語とそっくりである。だが、韓国語は日本語よりもずっと発音が複雑である。だが「てにをは」もある。そうなると、韓国語も日本語ほどではないにしろ、世界で最良の言語になるはずだ。そうした証明をする必要がある。
その日本語と韓国語の違いだが、大きな違いの一つに漢字の訓読みの有る無しがある。韓国語では漢字の訓読みはして来なかった。取り入れたすべては字音語である。だから、我々は漢字無くしては字音語の意味が分かりにくいと思っている。だが、韓国は漢字を捨てた。ハングルだけで、と言う事は日本語なら仮名だけで、になるが、それで良しとした。
ハングルだけで用が足りているように思えるのは、ハングルは仮名とは本質的に違うからである。仮名は音節文字だが、ハングルは完璧な表音文字なのである。しかもハングルでは例えば「大学生」のような字音語を、日本語なら「だいがくせい」としか出来ないのに、「テー・ハク・セン」と三つの部分に分けて表示する事が出来る。漢字の意味は分からないにせよ、これが字音語であり、元は漢語なのだ、と分かる。それだけで、日本語の「だいがくせい」よりはずっと分かり易くなる。「だいがくせい」を文章中に取り込んでみれば、すぐに分かる。
そうした、日本語とほぼ同じと見える韓国語では、発音の自然さはどうなのか、についてきちんと説明が出来なければいけない。
この発言者は日本語は漢字を取り入れて、飛躍的に表現が豊かになった、と言う。それはそうだ。しかし、その陰で本来の日本語を磨く事を怠った事を何とも思っていない。上に挙げた韓国語の例はその良い例である。そしてそれで漢字を捨てている。
それに対して、日本語は造語力が無いから字音語しか無いのだ、と言うのだろう。「造語力」を「言葉作りちから」とは出来ないと言うのだろう。だが、それは単なる思慮不足に過ぎない。ドイツ語ではこの「言葉作りちから」のような造語法を採っている。それで少しも違和感は無いし、意味がとても良く分かる。英語ではそれが出来ないようなので、やたらと難しいラテン語などを取り入れるのだ。日本語が漢語を取り入れたのと同じように。
日本語がドイツ語のような方向をたどらなかったのは、ひとえに漢語を流用した事に原因がある。先進文化だったのだから、当然ではある。そしてそれを恰好良いと思ったのだ。それがなければ、「言葉作りちから」のような言い方がごく自然だと思われていたに違いない。疑うなら、現在、カタカナ語を安易に使いたがる事を考えれば簡単に納得が行くはずである。
この発言者は言葉でしか考えていない。言葉が体感とか経験に裏付けされていない。それに比較して、「大工」さんは、自分の経験から物を言っている。だからこそ、その発言には貴重な重みがある。
誤解されたくないが、私の発言が経験による重みがある、などと言うのではない。だが、きちんと様々な事をああでもない、こうでもない、と長い物では2年も3年も考えた末の結果を書いている。決していい加減な思いつきではない。
もう一つの嬉しいコメントは、4月のブログで私がパソコンではほとんど希少とも言える親指シフトキーボードを使って、快適な作業が出来ている、と書いた事に対してである。そのキーボードが冷遇されている事を嘆いた。その事について、遅ればせながら、とコメントをくれたのだ。御自分のシステムを説明してくれて、私の励みにもなるし、参考になるホームページの紹介もしてくれている。そのホームページは知っていたが、それにしても厚意が有り難い。
否定のコメントでは、割り箸事故で、私が事実の確認を怠っていた事を指摘された。それはすぐに訂正した。その後、事実確認は慎重にするようになった。発言は自由だ。だが、その発言には責任が伴う。
先日、大工仕事のかんなの刃の角度についての疑問に答えてくれた人が居る。私のそのブログはタイトルは全く別の事だった。その最後にこの問題を挙げた。それに対して返事を下さったのだから、とても注意深く読んでくれている訳だ。
私の疑問は、テレビの番組で、確か37・5度が刃の角度としては最良なのだ、との事をその削りかすと削った板の表面の拡大写真で見せていた。しかし、その前後の角度については無言のままだった。だから、私は最良の角度にはある幅があるのでは、と疑った。そしてそれを見せない番組に不信感を持った。
思った通りの答がもらえた。ハンドルネーム「大工」さんが、御自身の経験で最良の角度は削り方と板材の質とで違う、と教えてくれた。
私がこうした事に重きを置くのは、「…は○○ですよ」と言われて、そのまま鵜呑みにしてはいけない、と常日頃から考えているからだ。そう言われたなら、では「…は××ではない」との証明をする必要がある。だが、世間は往々にしてそれをしない。「…は○○です」なんて事、あったり前じゃないか、と高飛車に出る。
もう本当に一方的な事しか言わない。様々な本もそうした物が多い。
先日、私は日本語の事で良い勉強をした。ある人が日本語は発音に無理をしないので、自然な考え方が出来る最高の言語である、と言った。他の言語では複雑に口の形を変えたり、舌を巻いたりして多くの発音を生み出しているが、その複雑さが自然な考え方を損なっていると言うような発言をしていた。日本語の単純な発音を補うのが「てにをは」で、それでほかの、語順によるしか意味が表現出来ない諸言語よりも情緒豊かな表現が出来る、と言う。言い方は違うが、趣旨は間違っていないはずだ。
それには確かに一理ある。しかし日本語が最良の言語だとどうして断定出来るのか。他の言語では情緒豊かで合理的な表現が出来ないのだ、との証明をしなければ、それは成り立たない。分かり易い例として韓国語がある。言語の系統としては日本語とそっくりである。だが、韓国語は日本語よりもずっと発音が複雑である。だが「てにをは」もある。そうなると、韓国語も日本語ほどではないにしろ、世界で最良の言語になるはずだ。そうした証明をする必要がある。
その日本語と韓国語の違いだが、大きな違いの一つに漢字の訓読みの有る無しがある。韓国語では漢字の訓読みはして来なかった。取り入れたすべては字音語である。だから、我々は漢字無くしては字音語の意味が分かりにくいと思っている。だが、韓国は漢字を捨てた。ハングルだけで、と言う事は日本語なら仮名だけで、になるが、それで良しとした。
ハングルだけで用が足りているように思えるのは、ハングルは仮名とは本質的に違うからである。仮名は音節文字だが、ハングルは完璧な表音文字なのである。しかもハングルでは例えば「大学生」のような字音語を、日本語なら「だいがくせい」としか出来ないのに、「テー・ハク・セン」と三つの部分に分けて表示する事が出来る。漢字の意味は分からないにせよ、これが字音語であり、元は漢語なのだ、と分かる。それだけで、日本語の「だいがくせい」よりはずっと分かり易くなる。「だいがくせい」を文章中に取り込んでみれば、すぐに分かる。
そうした、日本語とほぼ同じと見える韓国語では、発音の自然さはどうなのか、についてきちんと説明が出来なければいけない。
この発言者は日本語は漢字を取り入れて、飛躍的に表現が豊かになった、と言う。それはそうだ。しかし、その陰で本来の日本語を磨く事を怠った事を何とも思っていない。上に挙げた韓国語の例はその良い例である。そしてそれで漢字を捨てている。
それに対して、日本語は造語力が無いから字音語しか無いのだ、と言うのだろう。「造語力」を「言葉作りちから」とは出来ないと言うのだろう。だが、それは単なる思慮不足に過ぎない。ドイツ語ではこの「言葉作りちから」のような造語法を採っている。それで少しも違和感は無いし、意味がとても良く分かる。英語ではそれが出来ないようなので、やたらと難しいラテン語などを取り入れるのだ。日本語が漢語を取り入れたのと同じように。
日本語がドイツ語のような方向をたどらなかったのは、ひとえに漢語を流用した事に原因がある。先進文化だったのだから、当然ではある。そしてそれを恰好良いと思ったのだ。それがなければ、「言葉作りちから」のような言い方がごく自然だと思われていたに違いない。疑うなら、現在、カタカナ語を安易に使いたがる事を考えれば簡単に納得が行くはずである。
この発言者は言葉でしか考えていない。言葉が体感とか経験に裏付けされていない。それに比較して、「大工」さんは、自分の経験から物を言っている。だからこそ、その発言には貴重な重みがある。
誤解されたくないが、私の発言が経験による重みがある、などと言うのではない。だが、きちんと様々な事をああでもない、こうでもない、と長い物では2年も3年も考えた末の結果を書いている。決していい加減な思いつきではない。
もう一つの嬉しいコメントは、4月のブログで私がパソコンではほとんど希少とも言える親指シフトキーボードを使って、快適な作業が出来ている、と書いた事に対してである。そのキーボードが冷遇されている事を嘆いた。その事について、遅ればせながら、とコメントをくれたのだ。御自分のシステムを説明してくれて、私の励みにもなるし、参考になるホームページの紹介もしてくれている。そのホームページは知っていたが、それにしても厚意が有り難い。
否定のコメントでは、割り箸事故で、私が事実の確認を怠っていた事を指摘された。それはすぐに訂正した。その後、事実確認は慎重にするようになった。発言は自由だ。だが、その発言には責任が伴う。