夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

小学校での英語教育は疑問だ

2009年11月10日 | 言葉
 私は小学校低学年からの英語教育には反対だ。バイリンガルは望ましい事だ。それは言語体系が異なる事で、別の発想が出来ると思うからだ。例えば、情緒的な日本語と理性的な英語の両方が分かれば、そのどちらの発想も出来る。しかし、それには自分の母語をきちんと習得している必要がある。当たり前の事である。片方が、あるいは両方が中途半端でどうしてきちんとした発想が出来るか。
 学校での英語教育には親の愛情は伴わない。自分の生まれながらの言語を「母語」と言うのは、まさしくそれが母親によってじかに伝えられるからだろう。母親が子供に呼び掛ける言葉、それはまさしく愛情の言葉である。そうして身に付いた言葉だからこそ、心情を表現出来る。米国人の子供を遊び仲間とする日本人の子供が「赤はウレで、白はワイだ」と言うのは正常なバイリンガルへの道である。理屈ではなく感覚で英語を習得している。
 私が小学校低学年からの英語教育に反対するのはこうした理由がある。しかし世の中にはとても難しい事を考える人々が居ると言う事を知って、驚いた。と言うのは、「心に青雲」と言うブログで英語教育の問題を読んでいたら、そこに非常に多くの(羨ましいくらいの)コメントが寄せられていて、それが私にはとても難しい考え方だったからだ。

 日本語の母音で終わる開音節の言語と子音で終わる閉音節の言語では発想がまるで違うのだ、と言う人や、「てにをは」で言葉が成り立つ日本語、例えば「私はあなたが好き」と、単に語順で、例えば「私 好き あなた」で成り立つ言語とでは発想が違う、と言う人が居る。
 確かにそれは違う。日本語なら「私はあなたが好き」と「あなたが私は好き」とではニュアンスが大いに違う。一番重要な物が「あなた」なのか「私」なのかが、それで分かる。そして我々はそれをきちんと分かっている。
 しかし「あなたが私は好き」との言い方を英語でしようと思えば出来る。言語の構造が違えばそれなりにそうした工夫をする。それが出来ないようでは母語を習得しているとは言えない。
 開音節と閉音節の違いを言い立てるなら、母音の数の多さも言わなくてはならなくなる。
 日本語と朝鮮語は構造がとてもよく似ている。構造の違いを云々するなら、日本人と朝鮮人は発想が同じになる道理である。そこに開音節と閉音節の違いが絡んで来ると、発想は同じとは言えなくなる。しかも朝鮮語は日本語のわずか五つの母音とは違い、十もの母音がある。それだけで発想は違うはずだ。
 民族の発想の違いとはそうした事が原因なのだろうか。もしそうだとするなら、朝鮮語は古くは日本語と同じく開音節だったと韓国の学者が言っているし、日本語も古くは八つの母音があったのだから、日本人と朝鮮人は古代においては、ほとんど同じ発想法だったと言う事になる。そしてそれが後世発音の違いによって変わって来たと言う事になる。本当にそうだろうか。
 日本語は開音節だと言うが、日本語にも母音の無い発音はある。「覚悟」などの「かく」の「く」には「ウ」の母音はほとんど無い。「富士山」などの「ふ」にも「ウ」の母音はほとんど無い。だが、関西の人の発音にはそのどちらにも「ウ」が強く響く事が多い。東京人の私にはそれがとても奇異に感じられるのだが、開音節、閉音節を云々するなら、関西人と関東人ではそれだけで、もう発想が異なると言う事になる。
 外国語にしてもイタリア語はどちらかと言えば開音節だろう。それで日本人とイタリア人は発想がよく似ていると言えるのか。外国語にはロシア語とか、子音がとても強く響く言語がある。そうなると、日本人とロシア人などは全く別の世界の人種になるとも言えるが、本当にそうなのか。

 発想の違いは民族によるだけではなく、個人の差にもよる。そして重要な事は、日本語が曖昧、つまりは日本人の発想が曖昧だと言われるのは、言語構造によるのではない。言葉の使い方が曖昧なのである。ほんの一例を挙げれば、「かなしい」を「悲しい」と「哀しい」とで書き分けようとする。「よろこび」を「喜び」と「歓び」、更には「慶び」で書き分けようとする。「悦び」だってある。それは日本語が開音節であるとか、「てにをは」の言語であるとかが理由ではない。全く構造の異なる中国語を表す漢字を使って日本語を表す事を始めたからである。
 漢字のニュアンスの違いに頼って、日本語の発音を鍛える事を怠って来た。例えば「忍び」と「偲び」はまるで別の言葉なのに、漢字の違いに頼って同じ発音で済ませてしまった。本来は「しのひ」の「ひ」の「i」の発音が違うのである。それで使い分けていた。しかし二つの「i」の発音が同じになってしまっても、漢字に頼って発音を磨かなかった。
 「……ではないのではないか」などの二重否定のような複雑で分かりにくい言い方も、民族性であって、言語構造や発音の違いなどではない。

 「心に青雲」のコメントにはもっともっと複雑な事が言及されているのだが、残念ながら、私には難しくて理解が出来ない。それで細部まで検討はしていないのだが、ざっと読んでいる限りは、どうも理屈に過ぎるのではないか、と思えてしまう。そしてそれはブログ主の考えている事とは大分ずれてしまっていると思う。
 私はブログ主の、愛情の籠らない言語教育では言葉は心情を表現出来ないから駄目だ、との考えに全面的に賛成だ。だからそれとは趣旨の全く異なるコメントに、ブログ主は当惑したのではないか、と心配する。それでもコメントを公開しているのだから、問題は無いのだろう。だが、そうなると、ブログ主の考えが素直に伝わらないのではないか、と危惧する。もちろん、私如きが心配するような事ではないのは百も承知である。ただ、私だったら、とても困ってしまうだろうなあ、と、これは全くの余計なお世話です。