夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

小学校での英語教育は疑問だ

2009年11月10日 | 言葉
 私は小学校低学年からの英語教育には反対だ。バイリンガルは望ましい事だ。それは言語体系が異なる事で、別の発想が出来ると思うからだ。例えば、情緒的な日本語と理性的な英語の両方が分かれば、そのどちらの発想も出来る。しかし、それには自分の母語をきちんと習得している必要がある。当たり前の事である。片方が、あるいは両方が中途半端でどうしてきちんとした発想が出来るか。
 学校での英語教育には親の愛情は伴わない。自分の生まれながらの言語を「母語」と言うのは、まさしくそれが母親によってじかに伝えられるからだろう。母親が子供に呼び掛ける言葉、それはまさしく愛情の言葉である。そうして身に付いた言葉だからこそ、心情を表現出来る。米国人の子供を遊び仲間とする日本人の子供が「赤はウレで、白はワイだ」と言うのは正常なバイリンガルへの道である。理屈ではなく感覚で英語を習得している。
 私が小学校低学年からの英語教育に反対するのはこうした理由がある。しかし世の中にはとても難しい事を考える人々が居ると言う事を知って、驚いた。と言うのは、「心に青雲」と言うブログで英語教育の問題を読んでいたら、そこに非常に多くの(羨ましいくらいの)コメントが寄せられていて、それが私にはとても難しい考え方だったからだ。

 日本語の母音で終わる開音節の言語と子音で終わる閉音節の言語では発想がまるで違うのだ、と言う人や、「てにをは」で言葉が成り立つ日本語、例えば「私はあなたが好き」と、単に語順で、例えば「私 好き あなた」で成り立つ言語とでは発想が違う、と言う人が居る。
 確かにそれは違う。日本語なら「私はあなたが好き」と「あなたが私は好き」とではニュアンスが大いに違う。一番重要な物が「あなた」なのか「私」なのかが、それで分かる。そして我々はそれをきちんと分かっている。
 しかし「あなたが私は好き」との言い方を英語でしようと思えば出来る。言語の構造が違えばそれなりにそうした工夫をする。それが出来ないようでは母語を習得しているとは言えない。
 開音節と閉音節の違いを言い立てるなら、母音の数の多さも言わなくてはならなくなる。
 日本語と朝鮮語は構造がとてもよく似ている。構造の違いを云々するなら、日本人と朝鮮人は発想が同じになる道理である。そこに開音節と閉音節の違いが絡んで来ると、発想は同じとは言えなくなる。しかも朝鮮語は日本語のわずか五つの母音とは違い、十もの母音がある。それだけで発想は違うはずだ。
 民族の発想の違いとはそうした事が原因なのだろうか。もしそうだとするなら、朝鮮語は古くは日本語と同じく開音節だったと韓国の学者が言っているし、日本語も古くは八つの母音があったのだから、日本人と朝鮮人は古代においては、ほとんど同じ発想法だったと言う事になる。そしてそれが後世発音の違いによって変わって来たと言う事になる。本当にそうだろうか。
 日本語は開音節だと言うが、日本語にも母音の無い発音はある。「覚悟」などの「かく」の「く」には「ウ」の母音はほとんど無い。「富士山」などの「ふ」にも「ウ」の母音はほとんど無い。だが、関西の人の発音にはそのどちらにも「ウ」が強く響く事が多い。東京人の私にはそれがとても奇異に感じられるのだが、開音節、閉音節を云々するなら、関西人と関東人ではそれだけで、もう発想が異なると言う事になる。
 外国語にしてもイタリア語はどちらかと言えば開音節だろう。それで日本人とイタリア人は発想がよく似ていると言えるのか。外国語にはロシア語とか、子音がとても強く響く言語がある。そうなると、日本人とロシア人などは全く別の世界の人種になるとも言えるが、本当にそうなのか。

 発想の違いは民族によるだけではなく、個人の差にもよる。そして重要な事は、日本語が曖昧、つまりは日本人の発想が曖昧だと言われるのは、言語構造によるのではない。言葉の使い方が曖昧なのである。ほんの一例を挙げれば、「かなしい」を「悲しい」と「哀しい」とで書き分けようとする。「よろこび」を「喜び」と「歓び」、更には「慶び」で書き分けようとする。「悦び」だってある。それは日本語が開音節であるとか、「てにをは」の言語であるとかが理由ではない。全く構造の異なる中国語を表す漢字を使って日本語を表す事を始めたからである。
 漢字のニュアンスの違いに頼って、日本語の発音を鍛える事を怠って来た。例えば「忍び」と「偲び」はまるで別の言葉なのに、漢字の違いに頼って同じ発音で済ませてしまった。本来は「しのひ」の「ひ」の「i」の発音が違うのである。それで使い分けていた。しかし二つの「i」の発音が同じになってしまっても、漢字に頼って発音を磨かなかった。
 「……ではないのではないか」などの二重否定のような複雑で分かりにくい言い方も、民族性であって、言語構造や発音の違いなどではない。

 「心に青雲」のコメントにはもっともっと複雑な事が言及されているのだが、残念ながら、私には難しくて理解が出来ない。それで細部まで検討はしていないのだが、ざっと読んでいる限りは、どうも理屈に過ぎるのではないか、と思えてしまう。そしてそれはブログ主の考えている事とは大分ずれてしまっていると思う。
 私はブログ主の、愛情の籠らない言語教育では言葉は心情を表現出来ないから駄目だ、との考えに全面的に賛成だ。だからそれとは趣旨の全く異なるコメントに、ブログ主は当惑したのではないか、と心配する。それでもコメントを公開しているのだから、問題は無いのだろう。だが、そうなると、ブログ主の考えが素直に伝わらないのではないか、と危惧する。もちろん、私如きが心配するような事ではないのは百も承知である。ただ、私だったら、とても困ってしまうだろうなあ、と、これは全くの余計なお世話です。

トヨタF1からの撤退で担当者が泣いた

2009年11月09日 | 社会問題
 テレビでも報道したし、新聞にも担当者の泣いている姿が載っていた。確かに心血を注いで来た仕事からの撤退は悔しいだろう。だが、自動車レースの最高峰とは言っても、そこに出場する事がそんなにも素晴らしい事なのか。モータースポーツとは言うが、車のスピードを競う事がスポーツだろうか。レースでは人の技術は整備の技術もあるが、ほとんどはレーサーの運転の技術ではないか。
 車はある程度はスピードが必要だが、際限なく必要なのではない。技術陣として、スピードを追求したい気持は分からなくはないが、何事にも「程」と言うものがある。スピードよりも安全を追求すべきではないか。車同士の接触事故は技術で解決出来る所まで行っている。あとは採算だろう。そうした事に全力を挙げて取り組むべきである。
 それにF1の年間経費は数百億円にもなると言う。それだけのカネがあったら、リストラなどもずっと少なく出来る。苦しいからリストラだと言いながら、レースに数百億円も掛けていた。何と言うパランス感覚か。
 F1に賭ける技術陣にしても、それは数多くの労働者達の犠牲の上に成り立っていた訳だ。何も泣いて悔しがる事はない。自分の事しか考えていないと思われても仕方が無い。

 技術の進歩は望ましい事ではある。より便利になるのに苦情を言う事は無い。だが、便利さも程度問題になる。上を見れば切りが無いから、新幹線は少しでもスピードをと躍起になっている。やれ世界一だのと大騒ぎだ。では、新幹線が出来て、しかもどんどん速くなって、それだけ多くの幸せも我々は得ていると言えるのか。東京―大阪が5時間掛かっていた時よりも、2時間半と半分になった今が倍の幸せを得ているか。まあ、こうした比較の話が合理的だとは言わない。酒なども倍以上の値段だからと言っても旨さはほんのちょっと上になるくらいだ。それと同じと言えば同じ。
 わずかの差で大枚をはたくのは個人の自由。だがそれを国単位でやる事はなかろうに。人間には人間に合った速度と言うものがある。それは何万年も掛かって我々の体内に染み付いてしまっている。それを遥かに越える速度で果たして人間の生理は正常でいられるのか。
 宇宙空間に行けば重力が無いために人間の体は弱ってしまう。あらゆる機能が退化してしまう。重力の有る無しは極端だからその結果も極端になるが、速度だって同じはずだ。普通には我々は時速4キロくらいで歩いている。時速6キロになると結構な運動になる。そしてそれが我々の普通の生理状態だろう。それがたとえ自分の体は動かさなくても、時速300キロとか500キロなどの情況に正常に付いて行けるのか。目をつぶり、耳をふさいでも体はその速度を感じているはずだ。それが本当に正常でいられるのか。
 我々にはもっと重要で喫緊の考えるべき事柄が山積みになっている。

辞書マニアさんを御紹介します

2009年11月07日 | 言葉
 ブログの整理をしていたら、書いたまま発信し忘れているのが幾つもあるのを発見した。その一つだから、ずいぶんと日にちが経っている。
 私のブログの「檄を飛ばす」(09・8・8)にコメントを下さった方が居て、そのブログを訪問した。お名前は「柊木惇」さん。
 「言語楼―B級「高等遊民」の戯言」と題するブログで、http://d.hatena.ne.jp/hiiragi-june/。
 辞書マニアを自称し、言葉の雑学が趣味と言う。専門的な辞書も取り揃えてきちんと調べている。それに博学である。私など足元にも及ばない。辞書を調べるのが好きなのは私も同じだが、観点などが多少違う。それで私は安心した。と言うとおかしいが、同じような人間が二人居てもつまらない。それぞれに性格も異なり、考え方も違うから面白い。私が面白い、とは言わないが。
 拝読して分かったのは、やっぱり私はしつこいなあ、である。しつこくしないと私如きが言っても説得力が乏しい。しつこい調べは説得力のカバーなのである。ただ、そのカバーの仕方があまり上手くはない。それは様々な人から言われている事でもある。自分でも承知してはいる。ある編集長は、しつこいが、納得させられてしまう不思議な魅力のある文章だ、と褒めて下さる。ええ、私はそれを本気に信じているのてす。それを励みにしつこさをしつこく感じさせない工夫をしたいと試行錯誤をしている。
 それで、同じような事を書いている、柊木さんの文章が参考になるのでは、などと勝手な事を考えている。もっとも、本質的な事を変えない限りは、ただ真似をしたって無駄に終わるとは分かっている。
 三つ子の魂百までも、と言うが、私は以前はそんなにしつこくはなかったと思っている。しつこくなくて、簡単に失敗をした事も少なくない。それなのに、いつの頃からかしつこくなってしまった。
 思い当たるのは国語辞典の説明を徹底的に調べ始めた頃からだ。国語辞典の説明はそれこそしつこく調べないと迷宮入りになる。辞書の執筆者達はそんな事は思いもよらないのだろうが、それは専門家だからだ。我々素人にはきちんと筋の通る説明をしてくれなければ分からない。それが専門家には分からないらしい。そこで、説明の足りない部分をなんとか補おうとする。それはしつこさが無ければ出来ない。
 それが習性となってしまい、見る物、聞く物にしつこくこだわるようになったのだろう、と推測している。それに何度も騙されて来たあほらしさに今更ながら気が付いたのも理由だろう。そして唯一の取り柄であるしつこさを何とか洗練させたいものだと、頑張っているのです。「洗練されたしつこさ」なんてあるのかどうかも分からないが、まあ、取り敢えず、「洗練」に憧れています。あれあれ、人様の紹介のつもりだったのに。いや、紹介になっている。柊木さんはしつこくはない、だからきっと面白いと思いますよ。

 柊木さんのコメントは3ヶ月遅れの御紹介だったが、私の原稿など、1年以上知らん顔をされているのもある。いずれもきちんと相手側の「読みましょう」との了解を取った上で送った原稿なのに、一言も無い。まあ、駄目だったんだろうと思うが、待っている身には辛い一年間になる。
 原稿募集をしている所でも、ほとんどが3ヶ月以上掛かる。本に出来る原稿かどうかなんて、初めの数ページを読んだだけで分かるはずだ。数ページでさえ読めないほどに忙しいのだろうか、と不思議になる。だから自分勝手に、売れるかどうかのぎりぎりの所で、社内でもめているんだろう、と考える事にしている。そうでもないとやってらんない。
 そしてこれは無いものねだりだが、駄目な場合に、こうすれば、売れる本になるよ、と言った助言などどこもしてくれない。もうホント、「駄目」しか無い。そう言えば、前にある出版社に幾つかの原稿を送ったが、そこではある一人の編集者が色々と助言をしてくれた。ただ、その時は、まだ私にはその助言を受け入れてそのように変更出来る力が無かった。今はあるのか、と言えばそんなに自信を持っては言えないが、ある程度までは言えるようになったと思っている。
 今は駄目だと言われた原稿は徹底的に書き直している。内容の構成もまるで違った、趣旨も異なる方向にして書き直している。タイトルを変えただけで、内容は大きく変わってしまう。まあ、そんな事をしても芽の出る可能性は本当に低いのだろうが。何事もやってみなければ分からない。初めからあきらめてどうする。
 民主党政権だって同じだ。訳の分からない連中に反対され、何のかのといちゃもんを付けられ、それでもめげずに初心を貫徹してこそ、「新政権」なのである。何も私如きを引き合いに出して言う事は無いが。

たばこの増税が「たばこ離れの懸念がある」とは何たる言い分

2009年11月05日 | 社会問題
 今日の東京新聞の社説を読んで、あれっ? と思った。たばこ税の増税について、「値上げにはたばこ離れの懸念があり、税収増をもたらすとは限らない」とある。鳩山首相は「環境や体の面から増税ありうべしかなと思う」と言って、厚労相が示したたばこ税増税に理解を示した、と記事は流ている。それから考えても「たばこ離れの懸念があり」はとんでもない言い方だ。この論説員は喫煙賛成派なのか、と思ってしまう。「懸念」とは「気にかかって不安になる」である。つまり、論説員は「たばこ離れになったら困るなあ、と不安に思っている」訳だ。それとも「懸念」の言葉の使い方を知らないのか。
 多分、増税を考えて「たばこ離れ」が増税にはならない事を心配しているのだろうが、それにしても、「たばこ離れの懸念」は無いだろう。これではたばこをやめよう、との流れをせき止める気か、と言われても仕方が無い。それに、これは単に論説員の文章がおかしいからではなさそうだ。
 「たばこは法律で認められている嗜好品であり、喫煙は他人に迷惑をかけない限り自ら判断すべきものなので、喫煙者に理解を求める手順も忘れてはなるまい。」
 と論説員は言う。法律で認められている、とのその考えが分からない。法律で「成人は喫煙をする権利がある」とうたっているのだろうか。そうではないだろう。「未成年は喫煙してはならない」と言っているだけではないのか。それが喫煙を法律で認めている事になるのか。
 「他人に迷惑をかけない限り自ら判断すべきもの」だと言うが、多くの人々が自ら判断が出来ない境地に立たされている事を何で無視するのか。たばこは麻薬の一種だと誰もが認めている。麻薬だから簡単にはやめられない。やめるために、様々な努力を重ねている。
 彼は更には次のようにも言う。
 「増税はたばこ離れとなって葉タバコ生産農家などに跳ね返る」。だから転作奨励金などの環境整備にも努めよ、と言う。考えが本末転倒している。今、早急に守らなければならないのは、国民の健康なのだ。そんな大事の前に葉タバコ生産農家の保護なのか。論説の最後は「国民の健康を最優先に改正論議と向き合うべきだろう。」と締めくくっているが、なんだか、右を見て、左を見て、どこからも非難を受けないように、と思いながら恐る恐る発言しているようにしか私には見えない。
 へーえ、これが東京新聞の社説ですか、と言いたくなる。
 恐らくは、たばこの増税の話が税制改正全体の話の中で出て来たので、健康問題よりも増税に焦点が当たっていると思ったのだろう。しかしたばこの増税にはついては、健康面から、自民党時代からも取り沙汰されている重要事項なのだ。税制改正の中で出て来たのだから、これ幸いと思う方が真っ当だろう。

菜食について貴重なご意見を頂いた

2009年11月04日 | 暮らし
 きのう、私には菜食は出来ない、とのブログを書いた。それに対して流蛍さんから長いコメントを頂いた。タイトルは「 やはり玄米!」。考えさせられる事ばかり書かれている。コメントとして公開するだけではもったいないので、それに私自身ももう一度考え直してみようと思い、今日のブログにしました。以下はその全文です。〈 〉は私の考えてみた事です。簡単な感想に過ぎない物もありますが。私としてはきちんと考えているつもりです。

玄米を炊くのは何もむずかしくありません。
圧力釜で炊けばベストかもしれませんが、今は玄米が炊ける電気釜が当たり前になっています。炊飯時間が白米よりやや長いだけです。
白米のうまさは小生も承知していますが、もう今や外食でやむを得ず食べる以外は、玄米オンリー。
白米ははっきり言って毒です。
そのわけを書いている間はありませんが、いろいろお調べになればわかります。栄養的に見て、炭水化物だけだから、ではありません。
 〈さてと、どこから調べ始めようか〉

イヌは肉食なのです。ですから納豆とかチーズとかマーボー豆腐などは、食べるイヌもいますが、そういうイヌはお気の毒ですが短命になるでしょう。それにほとんどまちがいなく癌にも。
 〈いや、それは困ります〉

つまり、イヌにとっては肉以外のものは本来胃腸が受け付けないものです。それを味に騙されて食べてしまうと、イヌは喜んでも、イヌの腸は大迷惑なのです。消化に大変な負担がかかります。ごく稀なことならいいのですが、肉以外の、それも人間が加工した食品を恒常的に与えれば、イヌの腸は常に無理を強いられます。
イヌの居住環境も影響しますが、おそらく夏木さんちのイヌはなかなか便の色や形状が一定しないのではありませんか?
 〈いえ、便の色や形状はほとんど同じです。硬さも同じ。それはトイレットペーパーでつまんで捨てているので、よく分かります。時間が経った場合は硬くなりますが、出来立てはいつも同じです。でも消化に無理がかかっている事はきちんと認識をしなければ〉

人間もそうですが、夏木さんのお宅ではイヌは室内で飼っておられるようですから、「我々はそれこそ朝起きてから夜寝るまで犬にまとわりつかれているのだ。私の足元にはいつも犬が居る」となると、うっかりすると、ついつい人間の食べるおやつとか、オカズの一片などを始終あげてしまいがちです。
そうすると、イヌの腸はいよいよ休まるときがありません。本来野生の狼や狐は、恒常的に飢餓状態にいるのが普通で、それが彼らにとって当たり前ですから、腸は休止している時間のほうが長いのです。でも人間に(それも室内で)飼われると、のべつエサが与えられます。
 〈これは私も知っていた。三日や四日食べなくてもそれが普通なのだと。でも理性が感情に付いて行かない。それで次のような批判に該当してしまう〉

これはイヌの気持ち(?)としては、嬉しいでしょうが、本来の腸の活動とは相容れない事態なのです。
長く生きさせ、健康を維持したければ、イヌも(人間も、ですが)少食に越したことはありません。


人間の腸、とくに農耕民族であった日本人の腸は肉食に向いていないのです。
ですから肉を食べると調子が悪いと夏木さんがおっしゃるのが当然なのです。
 〈私は間違い無く日本人だった。ただ、私の腸は許容範囲が狭いせいもあるらしい。だから胃の検査でバリウムを飲むと、すぐに出てしまう。多くの人が出なくて困っていると言うのに。変な物を食べるとてきめんに結果が現れる〉

例えば、平安時代を考えてみてください。京都に住んでいた貴族は別として、庶民は肉は一生食べる機会はなかったでしょう。魚も海岸線に住む人でもなければめったにクチにできなかっらはずです。
川や池で魚をとるのがせいぜいですが、それもわずかなもの。ほとんど菜食だったのです。
それでいて、彼らは冬でもろくな暖房もない小屋に住み、常に薄着で元気に働いていたのですよ。
だから短命だったという意見もあるでしょうが、ちゃんと50や60まで生きる老人もいたのですし、今みたいにみんながなにかの病気持ちなんてことはなかったはずです。
それはわれらの先祖は、菜食であり、玄米や雑穀を主食にたべていたからです。
 〈うーん、そうなると海岸近くに住んでいて魚を食べていた人々は短命だった?〉

食事も楽しむものですから、禅坊主のような食事をしろとはいいませんが、カレーや餃子のような「料理」はたまの贅沢にしておくべきものと思います。
それから。
蟹はまず養殖ではないので安全ですが、牡蠣はほとんどが養殖ものですから、これは癌のもとです。天然ものなら癌にはならないでしょう。
 〈天然の牡蠣と言えば、岩牡蠣くらいしか無いか。そうなると、海老もほとんどが養殖らしいし〉

魚であれば、イワシ、カツオ、サンマ、じゃこのような養殖してないものなら安心です。
ウナギ、マグロ、タイなど養殖物は避けることです。
 〈はい、マグロやタイは出来るだけ天然物を買っています〉

肉は、もれはもう「養殖」そのものですから、最悪の癌のもとです。どうしても食べるのであれば、広大な牧場で育てたオーストラリアの牛肉とか、ニュージーランドの羊肉がまあ安全です。
 〈これは大変嬉しい。霜降りなんて、私にはとても贅沢だから。肉を食べると調子の悪い私でも、時々は食べたくもなります。日本人がオーストラリアで牛を養殖しない事を祈ります〉

野菜でも肉でも、大地(地球)から離せば離すほど、癌になりやすくなります。
しかし、短命でもいいし、癌になってもいい、おいしいものを食べて満足したいというのであれば、誰も止めません。
 〈いえいえ、私は図々しくも、おいしい物を食べて長生きしたいんです。結局、何をおいしいと思うかですね〉

よく有名人が癌で死ぬでしょう?
あれは彼らほどグルメをやるからです。テレビでもよくやっていますね、タレントがご贔屓の店を紹介するなんてのを。
ああいう凝った「料理」を日常、食べるからタレントは癌で死ぬのです。
 〈そう言えばそうですね。私の周辺には癌で死んだ人はほとんど居ませんものね。そうそう、私の伯母は100歳まで長生きしましたが、ラーメンには「カンスイ」が入っていて体に悪いから、と絶対に食べませんでした。その他の食生活はあまり知りませんが、今でもはっきりと記憶に残っています〉

 以上で引用は終わります。私は今晩からこれらの注意事項に留意して行こうと思っています。

菜食について貴重なご意見を頂いた

2009年11月04日 | 暮らし
 きのう、私には菜食は出来ない、とのブログを書いた。それに対して流蛍さんから長いコメントを頂いた。タイトルは「 やはり玄米!」。考えさせられる事ばかり書かれている。コメントとして公開するだけではもったいないので、それに私自身ももう一度考え直してみようと思い、今日のブログにしました。以下はその全文です。〈 〉は私の考えてみた事です。簡単な感想に過ぎない物もありますが。私としてはきちんと考えているつもりです。

玄米を炊くのは何もむずかしくありません。
圧力釜で炊けばベストかもしれませんが、今は玄米が炊ける電気釜が当たり前になっています。炊飯時間が白米よりやや長いだけです。
白米のうまさは小生も承知していますが、もう今や外食でやむを得ず食べる以外は、玄米オンリー。
白米ははっきり言って毒です。
そのわけを書いている間はありませんが、いろいろお調べになればわかります。栄養的に見て、炭水化物だけだから、ではありません。
 〈さてと、どこから調べ始めようか〉

イヌは肉食なのです。ですから納豆とかチーズとかマーボー豆腐などは、食べるイヌもいますが、そういうイヌはお気の毒ですが短命になるでしょう。それにほとんどまちがいなく癌にも。
 〈いや、それは困ります〉

つまり、イヌにとっては肉以外のものは本来胃腸が受け付けないものです。それを味に騙されて食べてしまうと、イヌは喜んでも、イヌの腸は大迷惑なのです。消化に大変な負担がかかります。ごく稀なことならいいのですが、肉以外の、それも人間が加工した食品を恒常的に与えれば、イヌの腸は常に無理を強いられます。
イヌの居住環境も影響しますが、おそらく夏木さんちのイヌはなかなか便の色や形状が一定しないのではありませんか?
 〈いえ、便の色や形状はほとんど同じです。硬さも同じ。それはトイレットペーパーでつまんで捨てているので、よく分かります。時間が経った場合は硬くなりますが、出来立てはいつも同じです。でも消化に無理がかかっている事はきちんと認識をしなければ〉

人間もそうですが、夏木さんのお宅ではイヌは室内で飼っておられるようですから、「我々はそれこそ朝起きてから夜寝るまで犬にまとわりつかれているのだ。私の足元にはいつも犬が居る」となると、うっかりすると、ついつい人間の食べるおやつとか、オカズの一片などを始終あげてしまいがちです。
そうすると、イヌの腸はいよいよ休まるときがありません。本来野生の狼や狐は、恒常的に飢餓状態にいるのが普通で、それが彼らにとって当たり前ですから、腸は休止している時間のほうが長いのです。でも人間に(それも室内で)飼われると、のべつエサが与えられます。
 〈これは私も知っていた。三日や四日食べなくてもそれが普通なのだと。でも理性が感情に付いて行かない。それで次のような批判に該当してしまう〉

これはイヌの気持ち(?)としては、嬉しいでしょうが、本来の腸の活動とは相容れない事態なのです。
長く生きさせ、健康を維持したければ、イヌも(人間も、ですが)少食に越したことはありません。


人間の腸、とくに農耕民族であった日本人の腸は肉食に向いていないのです。
ですから肉を食べると調子が悪いと夏木さんがおっしゃるのが当然なのです。
 〈私は間違い無く日本人だった。ただ、私の腸は許容範囲が狭いせいもあるらしい。だから胃の検査でバリウムを飲むと、すぐに出てしまう。多くの人が出なくて困っていると言うのに。変な物を食べるとてきめんに結果が現れる〉

例えば、平安時代を考えてみてください。京都に住んでいた貴族は別として、庶民は肉は一生食べる機会はなかったでしょう。魚も海岸線に住む人でもなければめったにクチにできなかっらはずです。
川や池で魚をとるのがせいぜいですが、それもわずかなもの。ほとんど菜食だったのです。
それでいて、彼らは冬でもろくな暖房もない小屋に住み、常に薄着で元気に働いていたのですよ。
だから短命だったという意見もあるでしょうが、ちゃんと50や60まで生きる老人もいたのですし、今みたいにみんながなにかの病気持ちなんてことはなかったはずです。
それはわれらの先祖は、菜食であり、玄米や雑穀を主食にたべていたからです。
 〈うーん、そうなると海岸近くに住んでいて魚を食べていた人々は短命だった?〉

食事も楽しむものですから、禅坊主のような食事をしろとはいいませんが、カレーや餃子のような「料理」はたまの贅沢にしておくべきものと思います。
それから。
蟹はまず養殖ではないので安全ですが、牡蠣はほとんどが養殖ものですから、これは癌のもとです。天然ものなら癌にはならないでしょう。
 〈天然の牡蠣と言えば、岩牡蠣くらいしか無いか。そうなると、海老もほとんどが養殖らしいし〉

魚であれば、イワシ、カツオ、サンマ、じゃこのような養殖してないものなら安心です。
ウナギ、マグロ、タイなど養殖物は避けることです。
 〈はい、マグロやタイは出来るだけ天然物を買っています〉

肉は、もれはもう「養殖」そのものですから、最悪の癌のもとです。どうしても食べるのであれば、広大な牧場で育てたオーストラリアの牛肉とか、ニュージーランドの羊肉がまあ安全です。
 〈これは大変嬉しい。霜降りなんて、私にはとても贅沢だから。肉を食べると調子の悪い私でも、時々は食べたくもなります。日本人がオーストラリアで牛を養殖しない事を祈ります〉

野菜でも肉でも、大地(地球)から離せば離すほど、癌になりやすくなります。
しかし、短命でもいいし、癌になってもいい、おいしいものを食べて満足したいというのであれば、誰も止めません。
 〈いえいえ、私は図々しくも、おいしい物を食べて長生きしたいんです。結局、何をおいしいと思うかですね〉

よく有名人が癌で死ぬでしょう?
あれは彼らほどグルメをやるからです。テレビでもよくやっていますね、タレントがご贔屓の店を紹介するなんてのを。
ああいう凝った「料理」を日常、食べるからタレントは癌で死ぬのです。
 〈そう言えばそうですね。私の周辺には癌で死んだ人はほとんど居ませんものね。そうそう、私の伯母は100歳まで長生きしましたが、ラーメンには「カンスイ」が入っていて体に悪いから、と絶対に食べませんでした。その他の食生活はあまり知りませんが、今でもはっきりと記憶に残っています〉

 以上で引用は終わります。私は今晩からこれらの注意事項に留意して行こうと思っています。

私には菜食は出来ない。そして愛犬は?

2009年11月03日 | 暮らし
 サプリメントの害を告発している流蛍さんは菜食だと言う。玄米を食べていますか、と聞かれたが、玄米の良さは知っているが、炊くのが面倒らしいし、と今一つ乗り気になれない。そして私は魚を食べるのをやめる事が出来ない。何しろ蟹には種類が何であれ、目が無い。それにこれからは蟹も牡蠣も旬だしなあ。今の所、懐具合が悪いので蟹は我慢しているに過ぎない。牡蠣は殻付きの新鮮なのが30個入って1500円程度で買えるから、何とか食べられるが。お陰で牡蠣の殻剥きも最近はかなり上手くなった。
 愛犬はテーブルの肉や魚の臭いを嗅ぎ付けて、自分の餌は半分ほど残して、我々の足元にやって来る。腹一杯では旨いものが食えない。魚までやめてしまったら、犬は一体どのような反応を示すのだろうか。
 と思ったが、そんな心配は無駄だった。何しろ、納豆かけご飯を喜んで食べるのだ。くれくれとしつこいから、妻が面白半分にやった。私は、おいおい、いくら何でも食べないよ、やめとけよ、と言ったのだが、案に相違してぺろりと平らげた。そしてお代わりを要求した。お代わりも残さずきれいに食べた。納豆だけは駄目だ、と言う人も少なくないのに。
 以前、大阪に行った時、飲み屋で納豆で酒を飲んでいる男性達を何人も見掛けた。へーえ、大阪の人も納豆食べるんですね、と私は馬鹿な質問をした。それまで、納豆は関東の物だとばかり思っていた。東京でも鱧を食べる時代なんだから、関西の納豆に驚いていてはいけないのだ。
 でも、東京で飲み屋で納豆を食べている人はほとんど見掛けないのだが。

 愛犬は中辛のカレーライスもマーボ豆腐ご飯も大好物だ。もちろん玉葱が入らないようにして与えているが、なんであんな辛い物が好きなのか。今までは多分肉の臭いに釣られているのだと思っていた。だが納豆で、臭覚ではないのかも、と考えるようになった。納豆のあの臭いが素晴らしい、と思う人はほとんど居ないだろう。人間と犬が大いに違うとも思えない。人間が旨いと思う物は犬でも旨いと思うのだから。
 息子は何でもやるからだよ、と我々を非難するが、朝晩にちょっとだけ犬と会っている人間に何が分かるか。我々はそれこそ朝起きてから夜寝るまで犬にまとわりつかれているのだ。私の足元にはいつも犬が居る。ちょっと外に行っただけでも、帰って来れば、大はしゃぎして、いつまでも跳び付いて困る。言う事を聞かず、こんちきしょう、と思う時もあるが、無邪気な顔を見ているといつか、そうかそうか、よしよし、との心境になってしまう。だから足の裏まで可愛く思えてしまう。ホント、あばたもえくぼである。
 変な話だが、私は犬の黒くて濡れて冷たい鼻が大好きだ。あの鼻で触られると、ぞくっとしてしまう。冷たく濡れた鼻をずっと触っていたいと思うのだが、そんな事をしたら鼻が乾いてしまいそうなので、やめている。濡れていないと臭覚が利かないのだそうだ。

 菜食の話が犬の話になってしまったが、私も野菜や果物は大好きだ。でも菜食になったら、献立に困るだろうなあ、などと思ってしまう。それに野菜だけで元気はつらつ、の自信が無い。まあ、だから禅寺では胡麻豆腐やがんもどきのような優れた味覚の物を作り出したのだろうが。私は魚は平気で食べるくせに、肉はちょっと躊躇してしまう事がある。何とか動物を殺さずに植物などから肉を作り出せないものか、と思う。牛にビールを飲ませて霜降り肉にするなどの話を聞くと、無惨だなあ、と思う。そんなにしてまで霜降り肉を食べたいとは思わない。オーストラリア産の肉だって、うまく調理すれば柔らかく、味も良く食べられる。身近に牛を見ていないで肉だけを食べているから平気で居られるのだろうが。だから、子牛でも子羊でもぱくぱく食ってしまうくせに、鯨は駄目だ、などと抜かす欧米人は偽善者だと思っている。
 今日は文化の日。あんまり文化的じゃないなあ、と思いながら発信しています。

超高層ビルで人類の思い上がりを知った

2009年11月02日 | 文化
 テレビで上海の超高層ビルの窓と壁の清掃の仕事をしている若者達が紹介された。まさに「スパイダーマン」の名がぴったりの決死とも言えそうな仕事だ。それにしても、デザインを優先したのか、変な形のビルが多い。だから仕事は至難らしい。
 上海は世界一番の超高層ビルだらけの街だと言う。何でそんなに高い建物を建てたいのか。限られた土地に出来るだけ多くの床面積を持たせたいとのせこい考えに尽きる。そんなにも金儲けがしたいのか。そして、土地を持てば、その上空はすべてその土地の持ち主の物になるのか。そうじゃない。上空は昔は鳥達の生活区域だったはずだ。人類は大地にはいつくばって生きて来た。それなのに、他の生物の領域を平気で侵略している。
 カナダだったか、全面ガラス張りのビルのせいで、渡り鳥が空だと思って衝突して死ぬ。当たり前だ、そんな所に進路を遮る物があるなどとは思いもしない。
 上海の風景をテレビで見るたびに、嫌な所だなあ、との思いしか私には浮かばない。あくなき欲望を目の前に突き付けられた気がする。それは日本にしても同じ事。パリを始めとしてヨーロッパの都市の景観を見るたびに羨ましさを感じてしまう。低層の美しい街並。それで十分に都市の機能を果たせている。
 ドイツにはバッハが暮らしていた家が健在している。それはほんの一例に過ぎない。そしてそこで人々は暮らしを立派に成り立たせている。実質的に見れば、日本より数等上だろう。

 人類はいつの時からか自らの道を踏み誤ってしまった。人類がこの地球の最高の生き物だと慢心してしまった。人類など、地球にとっては単に様々な生物の一つに過ぎない。ホーキング博士は、視認出来る限りの宇宙には地球と同じ程度の文明の発達した星は200万はあると言っている。それなのに宇宙人と遭遇しないのは、地球のような文明の進んだ星は加速度的に不安定となり、自滅消滅してしまうからだ、と言う。
 あと何十年も経たない内に地球の気温は上がり、陸地の大半は水没し、内陸は乾燥地帯になってしまうと考えられている。それはすべて人類の思い上がりの結果である。かつて、どの生物も地球をこのような破滅の情況に導いた事は無かった。自らは消滅しても、地球を消滅させる事だけはして来なかった。
 地球を消滅させるその象徴が超高層ビルの建設だと私には思える。上海の超高層ビルの姿を見て、日本のビジネス業界と建設業界は手本のように思っているに違いない。彼等はじきにあの世に向かうのだろうからいいだろうが、残された子供や孫達はどうなる。全く目先の事しか考えない輩がうようよしているから、どうにもならない。

●曇り空には千変万化の表情がある
 朝食を摂りながら窓の外を眺めた。今朝は曇りだ。我が家はいささか眺望には恵まれていて、視界は180度、その上半分はすべて空になる。そこには様々な形と色合いの雲がある。単に灰色の濃淡に過ぎないはずなのに、その濃淡の微妙で美しい諧調に改めて驚かされた。何しろ広いから、ありとあらゆる諧調と形が繰り広げられている。今まであまり曇り空をしみじみと見た事が無かった。曇り空なんて嫌な物だとばかり思っていたからだ。青空に浮かぷ鰯雲や筋雲などには見とれる事があるが、曇り空には魅力を感じなかった。浅はかだった。
 超高層ビルに憧れる人達には、この曇り空の美しさは多分通じまい。