夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

閣僚辞任で麻生総理の本質が判明

2008年09月29日 | Weblog
 中山大臣が辞任した。世間は当然と思っただろうが、私はそうは思わない。なぜなら、罷免すべきだった、と思うからだ。罷免では格好が悪いから辞任した、辞任させたに過ぎない。
 何をどのように考えてもそれは本人の自由である。しかしそれは他人に何の影響も及ぼさない限りにおいてである。
 麻生氏は、中山大臣は閣僚として言うべきではない事を言った、と批判した。つまり、政治家としてなら言っても良い事だった、と言った。とんでもない事を考えている人が総理になったもんだ。政治家と閣僚とでは責任の重さが違うと言う。確かに違う。だが、責任がある事については同じである。
 考えていても良いが、口にしてはならない。つまり口にしなければ、どんな事を考えようと自由だ、と言うのである。そうか「自由民主党」と言う名称の「自由」とはそう言う事だったのか。
 政治家である以上は、その人の考え方が様々な事に反映する。反映しなければ、何の役にも立たない。単なるでくの坊に我々は大金を支払っているのではない。

 成田問題にしても、単一民族問題にしても、日教組問題にしても、事実をきちんと確認もせずに勝手な事の言い放題。中山氏の論理は単純明快。黒は黒だ、である。どんな物事にも白から黒に至る様々な段階がある。その灰色の濃淡の方が、白や黒よりもずっと範囲が広いのに、それを一切無視する。大袈裟に言えば、99・9%を無視して、わずか0・1%にしがみついている。それで良いのだ、と平気な顔をして言うのが麻生氏なのだ。
 大金持ちの麻生氏に果たして国民の痛みが分かるのか、と先日書いた。分かる訳が無い。わずか0・1%、いや、実際にはもっともっと小さい0・01%とか、0・001%程度の人の事しか分かっていない。もっとはっきり言えば、自分自身の事しか分かっていない。

 嫌だねえ、これがあの吉田茂氏の三代目だってさ。
 その吉田茂氏も存命中もその後も、ろくな言われ方をしなかった。さんざんこき下ろされていた。しかし近年の掌を返したような評価振りは一体何なのだろうか。歴史は時が経って見なければ、本当の事は分からないとは言うが、あまりにも分からなさ過ぎると思う。
 だが、私は別の思いを持っている。以前は首相に対する希望があったから、それに対しての吉田茂氏は評価が低かった。だが、日本には首相として希望を持てる人材が払底しているとの事実を身に染みて感じて、相対的に吉田氏の評価が格上げになったのではないか、と私は思っている。
 比較しての話しかそこには無い。当の麻生氏だって、国会議員と閣僚とを比較してその価値を計っている。そこには絶対的な価値など微塵も無い。すべて、比較の世界なのである。そして学校では、その比較さえしようとはしていない。比較して等級を付ける事は差別だ、などとほざいて何から何まで平等にしようと言う。
 どうしてだかお分かりだろうか。

 どこもかしこも「どんぐりの背比べ」である。平凡でぼんくらな人間ばかりなら、努力もせずにのうのうと生きられる。そしてちょっとばかり知恵や才能があれば、それこそまたたく間に頂点に上る事が出来る。つまり、「努力せずに出世する法」なのである。
 でも、日本国内ならそれで通るとしても、一歩外に足を踏み出せば、途端にそれはガラガラと崩れる。それは現に目に見えている。単に気付かずに脳天気で日々を過ごしているだけの事である。だから北朝鮮からでさえ見くびられている。その見くびられた小泉氏は、さらに日本国民の総レベル低下を目論んでいるらしい。その顕著な現れが、次男を後継者に決めた事である。優秀な大学を出て、ほんのわずかばかり父親の秘書役をしたからと言って、政治家としての信念や心情が学べる訳が無い。議員になってそれを学ぶなどと、とんでもない事は許されない。そんなお坊ちゃま修業に国民の税金は使わせない。
 ぼんくら、白痴化を進めている日本に、今夜はやけ酒でも飲みますか。