夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

放送禁止用語の怪・何でこれが禁止なの?

2008年09月19日 | Weblog
 東京新聞の「大波小波」と題するコラムに「自動化する禁止用語」との記事がある。9月16日夕刊。禁止用語は多くの人々が知っている。公序良俗に反する言葉や差別用語が該当する。「自動化」とはそうした禁止用語について、どのような理由で禁止にするのかをまるで検討する事なく禁止用語にしてしまう事を指している。言うならば、「臭い物には蓋」なのである。
 単に事なかれ主義を貫いているだけの事だが、その事なかれ主義がマスコミにあっては絶対にあってはならない事である事は言うまでもない。

 その一つとして、次のような身近な商売が挙がっている。→に示すのはその言い替えである。
・魚屋→鮮魚店
・八百屋→青果店
・肉屋→精肉店
・床屋→理容店
 その理由として、「○○屋」は差別的だとか誰かが発言し、それが伝言ゲームのようにメディア業界に蔓延したのではないか、とこの記事は言う。
 昨日、近所の八百屋で茄子の漬け物を三個買った。だが、全部なま漬きで、一つなどは、塩気が足りないのだろう、腐っていた。文句を言っても始まらないだろうから、今後、その八百屋では漬け物は一切買わない事にして一件落着。そんな八百屋が「青果店」だって? 笑わしてくれるじゃないか。私など「やおや」どころか「おやおや」だと言いたい。もっと言えば、「八百長八百屋」ではないか。そうか、「八百屋」には「八百長」の関連語があるから忌避されるのか。でもそれなら「八百万(やおよろず)の神」はどうなるんだ? それに小型辞書の二冊には「八百屋=深くはないが、何でも知っている人(趣味・専門の広い人を指す)」もある。俗語だろうが、俗語であると言うのはよく知られている事でもある。決して悪い意味にはならない。
 
 こうした呼称に共通しているのは、すべて字音語である事だ。その話を進める前に、これらの漢語の「鮮魚・青果・精肉」などをよく見ると、余計な形容詞が加わっている事が分かる。それぞれ「新鮮な・青々とした・清い」である。つまり、言うならば「ずるい」。「魚屋」と言わずに「新鮮な魚屋」と言い、「八百屋」と言わずに「青々とした野菜の八百屋」だと言い、「肉屋」と言わずに「清い、つまりは新鮮な肉の肉屋」だと言外に言っている。
 床屋の「理容店」は「理髪店」もあり、こちらの方が本家だろう。「理容」は「美容」から生まれたのではないか、と私は考えている。その「理容」にしても「理髪」にしても「理=ととのえる」だから、別に何も付け足してはいない。そのものずばりの素直な名称である。
 これらはすべて漢語だ。それに対して「禁止」となっている方はすべて純粋の日本語である。つまり、漢語なら、意味がぼかされるのだ。そうだろう。我々はいちいち文字を見て判断しているのではない。すべて発音を聞いて判断している。だから「やおや」ではっきりと分かる。だが「せいかてん」なら「生花店」だってある。こちらも当然「はなや」ですぐに分かる。

 政治家などに特に多いと思うが、何事も分かり易い易しい日本語では言わずに、漢語にする。あるいはカタカナ語にする。その方がずっともっともらしく聞こえるからだ。なぜなら、我々がそう思っているからだ。
 ドイツ語のように何でも自分達の本来の言葉で言い表す言語とまるで正反対なのが日本語だ。それはまだ言葉が発達の初期段階で優れた言語であり文化である中国語と出会ってしまったのが原因だ。すっかり完成した文明が手を伸ばせば届く所にある。だから日本語を練り上げる事を怠った。そこから借り物の日本文化が始まった。
 漢語重視の風潮はそのままずっと続いている。明治になって西洋文明に洗われるようになると、それを漢語で表す。英語のテレフォンは「テレ=遠い」「フォン=音」だ。テレとフォンがたとえラテン語などに語源があるとしても、「テレ」も「フォン」もそれだけですっきりとよく分かる言葉になっている。それを使って幾つもの言葉が生まれている。
 それを日本人は「電話」とした。「電」も「話」も文字を見れば意味が分かるが、「でん」「わ」ではそれぞれ、何の事かさっぱり分からない。現在「でんわ」は「電話」くらいしかすぐには思い当たらないからそれで通じている。だから文字なら「伝話」だって良い訳だ。発音と意味が密着していないから「でんわ急げ」(善は急げ)と駄洒落を言っても簡単に通じる。相手がすぐに出なければ「出んわ」となる。
 今更漢語が駄目だなどと言う事は出来ないから仕方が無いが、身近な八百屋を青果店などと呼ぶ事はやめたらいい。でも業種名で困ると言うのかも知れない。「青果業」ならいいが「八百屋業」では困ると。今、「せいかぎょう」と打ったら、「製菓業」が出て来た。そう、「せいか」は同音異義語があり過ぎる。「やおや」ならほかに何があるか。

 コラムの締め括りは、同紙の社説では見出しにも本文にも「魚屋」の文字があり、本文には「お肉屋さん」「八百屋さん」の表記があり、他律的な規制をこうして実践で打ち砕けばよい、と書いている。正論だが、「お肉屋さん」「八百屋さん」の言い方に、私は差別語になるのでは、との同紙の杞憂を感じてしまう。特に「お肉屋さん」にそれが顕著だ。この社説がいつの社説か分からないので(探したが見付からない)何とも言えないのだが、普通はこうした言い方はしない。特に新聞の記事ではしない。私のブログごときでも「八百屋さん」などとは書かない。
 八百屋はしっかりと信念を持ってその商売に励んでいる。「八百屋」の名前に誇りを持っているはずだ。「青果店」でなければ誇りの持てない八百屋なら、私は買わない。余計な斟酌は無用である。

事故米の詐欺と無責任な人々

2008年09月18日 | Weblog
 昨日、出版社の自分の事しか考えない不誠実な社員に怒りをぶちまけた。そうしたら今朝はフジテレビで農水省の馬鹿役人の批判をしていた。被害者の会社の社長が自殺した。その社長の爪の垢を煎じて農水省の役人どもに飲ませたい。
 二、三日前の新聞に汚染米を使った業者の名前が公表されていた。私は何でこんな事をするのかと非常に不信感を持った。だって、中には知らずに、正常の米と騙されて使った業者も居る。それを一律に発表するとは無謀もいいとこだ。農水省が馬鹿であっても、新聞まで馬鹿が移ってしまっちゃ駄目じゃないか。
 結局、普段から何も勉強をしていない。特にお役人がそうだろう。江戸の川柳にあるじゃないか。「役人の子はにぎにぎをすぐ覚え」と。そしてそれだけで生きて行く。
 人間性が変わらないのは昔からずっと同じ。文化が発達して、ずるさが増した。
 本当に、どうしてこうした馬鹿な大臣を総理は任命しているのか。総理自身、何の勉強もしていない証拠ではないか。今回のリーマン・ブラザーズの破綻で、対処の出来る総理が果たしているのだろうか。今立候補している五人の中にそうした人物は居るのか。
 もちろん、総理一人で何事も処理せよ、などとは言わない。だからこそ、有能な人物を閣僚にするのではないのか。それがほとんど役人におんぶに抱っこ。そして土壇場で醜態をさらす。恥ずかしくはないのだろうか。そうだろうね。面の皮、厚いもの。そうした恥知らずの人間が大臣になりたがるんだろうね。

 今、庶民は懸命に働いている。それでもやっと食べて行けるだけの人々が大勢いる。かく言う私もその一人。だから身に染みて感じている。そして何事にも真剣に当たっている。物を買うのでも真剣。少しでも良い物を安く買いたい。
 農家が丹誠込めて作った農作物は徹底的に使いたい。漁師が海の上で格闘して獲った魚も頭から尻尾まで、食べられる所は全部食べたい。良心的な食品製造業者が作った食品も同じ。だから毎日何百万トンにも及ぶ食品が捨てられている事には怒りを覚える。製造業者、販売業者が捨てるのは、商売が読めていないからだ。余分に作り、余分に仕入れ過ぎている。消費者が捨てているのは、自分の事がまるで分かっていないからだ。食べられもしないのに買う。あるいは間抜けなリスのように、埋めた木の実の場所を忘れてしまう。ホント馬鹿だよね。
 みんな真剣になって自分の仕事に打ち込んでいると言うのに、のほほんと左うちわの人間が居る。経済的な事は言わない。だが、仕事には真剣に立ち向かえよ。それはあんたが神様から与えられた使命なんだよ。

 金儲けが生き甲斐、楽して暮らすのが生き甲斐、そうした人間が増えているからそうなるのだろう。死ぬまで働けなどと言うのではない。苦労をした末に楽が出来るのが当たり前だ。それが苦労をしても楽にならない。反対に苦労をまるでしようともしない人々が居る。それでは人間の道にもとるではないか。と言ったって馬の耳になんとやら。いや、そんな事を言ったら馬が怒る。
 我が家の犬はまだ二歳だが、人間の言葉がよく分かる。気持まで分かってしまう。だからうかつな事は言えないし、うっかりとした事も出来ない。朝、今日は夕方なにしてやろうと思ってるんだ、などと妻に言う。「なにして」は「散歩に連れて行って」なのだが、「さんぽ」の言葉は使えない。すぐに分かってしまうからだ。
 ところが、夕方になると、リードがしまってある所に行き、扉をひっかくのである。散歩は毎日ではないから、不定期で決して習慣にはなっていない。それなのに、朝の言葉をしっかりと覚えている。いや、言葉ではなく、朝の私の気持を覚えている。何事もすっかり読み取られてしまっているらしい。
 風呂が沸いて台所でお知らせのピーピーと言う音が鳴っている。するとすぐにやって来て、おじさん、風呂沸いたよ、と言う。風呂場に入って遊ぶのが大好きだから、今か今かと待っているのである。私がパソコンの電源を落として立ち上がると、一目散に風呂場に駆けて行く。

 犬だって飼い主の言葉や気持を真剣に読み取ろうとしている。それなのに、犬にも劣る人間どもが大勢存在している。確かに犬は飼い主に依存している。だが大勢の人間も他人に依存しなければ生きて行けない。同じではないか。しかし、人間はまるで自分一人で生きて行けるかの如く錯覚している。まあ、それはその人の自由だから他人が口を挟むような事ではない。だが、他人に迷惑を及ぼす事もある以上、そんな勝手は許されないのである。そうした人間は人里離れた所で別荘でも建てて住む事ですね。少なくとも、真剣になって生きている我々の前に姿を現さないで頂きたい。切にお願い申し上げます。

いい加減な出版社、ディスカヴァー・トゥエンティワン

2008年09月17日 | Weblog
 原稿を募集していると宣伝している出版社が幾つもある。その内の一つに「ディスカヴァー・トゥエンティワン」がある。いわゆる取り次ぎを通さずに書店と直接契約して販売している。だから近所の書店では手に入らない。都心の大手の書店、それもどうも数が限られているらしい、そうした店でしか手にとって見てみる事も出来ない。それだけ、内容に自信を持っているのだろう。
 その同社に原稿を送って、わずか三日目に編集者から電話があって、「面白い」と言ってくれた事を8月の初めにこのブログで書いた。「他社にも見せているといけないので、早めに御連絡しました」との言い方で、私は脈があるな、と判断した。そしてもちろん、どこにも見せてはいない。
 ところが、3週間ほど経って、当社には合わない部分がある、との電話が来た。ビジネス書専門の同社なので、幾つかの項目が合わないと言い、具体的に二つばかりの名前を挙げた。ではそれはやめて、別の物に代えましょう。どれが駄目なのか教えて下さい、と私は言った。
 だが、梨のつぶて。仕方が無いので、自分で判断して、新しく書き換えた原稿を送った。それは8月25日に同社に着いている。でも相変わらず無言である。多分検討に時間が掛かるのだろう、と考えてずっと待っていた。それでも返事が無い。インターネットの時代である。私はファックス番号もメールのアドレスも明記してある。
 仕方がないから、ファックスを送った。駄目なら駄目と言ってくれと。それでも無言。馬鹿な私は忙しいのかも知れない、などと考えて、更に原稿を書き直した。それは9月9日に同社に着いている。
 
 「他社に見せているといけないので」と言って、つまりはおいしい餌をちらつかせてお預けを食らわしておいて、ずっと「待て」なのである。飼い犬だって怒るよ。
 きょう、9月17日、最初に返事をもらってからなんと一カ月半も経っているが、電話をした。結局、「散漫なので、駄目です」との返事である。ずいぶんといい加減ではないか。散漫だと言うのなら、それは最初から分かっていたはずだ。そうか、出だしは良かったが、後半が散漫なのか。でもそれならそうと、改善策を提案してくれたっていいじゃないか。 同社のホームページでは、同社で本を出した人の感想が載っている。編集者があれこれと注文を出し、それに自分も真剣に応えて本が出来上がった、とある。そうだろう。それが編集者の仕事である。だからこそ、私は良い内容の会社だな、と思ったのである。

 だが、それはホームページのいんちきだった。そうだろう。わずか一人か二人の人にしかしていない事を麗々しく書き立てているのである。私の原稿が箸にも棒にもかからないような物なら、こんな事は言わない。だが、「面白いですね」と感心して、関心を持ってくれたのである。まだ全部読んではいないので、これから夏休みを取るけれども、その間に読みますと言ったのである。
 そしてホームページを見れば分かるが、同社の出版物はビジネス書だけとは限らないのだ。教育的な書籍だって出している。こうなって来ると、ホームページがいかがわしく思えて来る。
 そうか、3週間経って返事をくれた時に、既に本にはならないと、結論を出していたに違いない。それを私が駄目な部分は書き直しましょう、と言ったのがいけなかったらしい。でもそれなら、いや、そうではなく、書き直しても駄目なんです、となんではっきり言わなかったのか。面白いと言った手前、はっきり言えなかったのか。自分の面目に関わるから言葉を濁し、他人に大きな迷惑を掛けて平然としている。

 企業は人なり、と言う。会社が素晴らしいのではない。社員が素晴らしいのだ。今は正規の社員ばかりではないだろうから、言うならば、全従業員が素晴らしいから、素晴らしい会社になるのである。頑丈な堤防もありの一穴から、と言う。私はこうしたいい加減で無責任な社員が居る会社の将来は危ういと思う。だって、そうでしょう。他社に見せているといけないので、早めに連絡した、とこちらに手枷足枷をはめておいて、一カ月半も知らん顔を決め込んだのである。私が電話をしなければ、一体、いつになったら返事をくれたのか。そもそも返事をくれるつもりさえあったのかどうか。
 これは編集者の素質云々を言う以前の問題である。人間性の問題である。他人の気持をまるで考えていない。そうした駄目な人間を社員に抱えている出版社が、この先、本の売れない時代にどのように対処して行くのかじっくりとお手並みを拝見するつもりである。私は同社の書籍を買うつもりは毛頭無いが、広告だけはしっかりと見て、どんな内容の本を出しているのかを見て行きたい。
 そしてもう一言。軽々しく「原稿募集」などと言うな。そこには、どうせあんたがた、売れない原稿を抱えてるんでしょう。それなら私どもが見て上げますよ、と言っているのと同じである。人の弱みに付け込んで、あわよくば一儲けしようとの魂胆がありありと見える。出版権は当社に帰属する、などと自分の事ばかり言っている。出版とはそんなちゃちな物ではない。きちんと信念を持たなくては出来ないのである。
 原稿を送る側だって、あちこちに転がっている原稿を送るのではない。血のにじむような思いをして、時には寝食も忘れて熱心に取り組んだ人だっているのである。私だって、同社に向くようにと、一度出来上がった原稿を全部書き直したのである。それに一体何日掛かったと思っているのか。馬鹿にするにも程がある。「21世紀を発見せよ」と言う社名だが、21世紀って、そんなもんなんでしょうかねえ。それに誰に対して命令形なんだろうね。もし自社に対してなら、「ディスカヴァー・マンカインド」なんかに変えたら如何だろうか。言うまでもなく、「マンカインド=人間」である。

 自社の書籍の広告で「出版に値する優秀な原稿を探しています」と言っている出版社がある。ホームページには「3週間以内に全員に書面でご返事を差し上げます」とある。原稿も返却してくれる。私はこの原稿をまたまた書き直して、同社に送ってみようと、今日からその作業を始めます。しばらくの間、ブログがちょっと手抜きになるかも知れませんが、何卒お察し下さい。

金儲けの根性が汚い

2008年09月16日 | Weblog
 なぜみんな金儲けばかりに熱中するのか。
 日本中、汚い事だらけである。食品の偽装はほんの氷山の一角だと誰もが考えていただろうが、それがこのようにあからさまになってみると、もう開いた口がふさがらない。他人の健康を阻害してまで、そんなに金が欲しいのか。少しずつだから健康に被害は出ないとは言っても、それが許される道理が無い。もしも体内に蓄積されてしまったら、どうするのか。少しずつが、本当に少しずつエスカレートしてどこまで行くのか。その歯止めがきかないからこそ、少しでも駄目なのだ。
 揚げ句の果てには、それを承知の上で引き取らせていたと十分に疑える農水省が存在している。大臣と最高責任者の無責任丸出しの答弁にも、もう驚きも呆れもしない。そんな連中ばっかりなのは、とっくの昔に分かっている。
 金は役に立つ。無くてはならない物だ。だが、これらの商人達は、一体いくらあったら満足出来るのか。多分、際限が無いだろう。日本中がみんな金、金、金でうごめいている。誰だって金は欲しい。だって、金さえあれば何でも出来る、とあらゆるメディアが煽り立てているじゃないか。それこそ札束で横っ面ひっぱたくような事を平気で推奨している。
 昔あった映画じゃないが「名もなく貧しく美しく」なんて言う発想は微塵も無い。「名は有名で超金持ちで汚辱にまみれて」と言う人間が多いし、それを目指させるような事ばかりしている。今の日本は本当に心底まで腐り切っている。
 確かに、ある程度の余裕が無ければ他人に対する思いやりも生まれない。自分が生きるか死ぬかの時に、他人に構ってなどいられるもんか。だが、今の我々はそうではなく、自分は立派に余裕を持って生きているのに、他人が生きるか死ぬかなのを見過ごしにして平気なのだ。特に社会の上層部にある人々にこそそれが著しい。生きるか死ぬかがどのような事か、具体的に分からないのである。哀れな人々である。

 アメリカでは老舗の証券会社のリーマン・ブラザースが倒産したと言う。不動産投資の失敗だと言っている。大体、金で金を産ませようとの魂胆が汚らしい。自然界に雌雄が存在するのは、異なる性が融合して新たなしかもより優秀な生命を得るためだったと言われている。しかしいつの頃からか、人間はそれを快楽と生命誕生の二つに分けてしまった。そしてもっぱら快楽の追求のために性を利用している人間が大勢いる。
 金も同じだ。本当は人々を幸せにするべく存在する金が、自分自身を産む快楽に溺れ切っている。もちろん、金がそうなのではない。それを操る人間どもが溺れている。いわば金に躍らされた亡者どもの哀れな結末がこうした証券会社の破綻にはっきりと現れている。 今世界中を操っているのはユダヤ系資本だと言う考えがあって、私もそう信じるようになった。そうでなければ、誰が好き好んで中東に戦争などに出掛けるか。しかも金は儲けたいが自分の命は惜しいからと、兵士と言う赤の他人を使う。
 考えたらおかしいよね。他人の紛争におせっかいをやく。自分の頭の上のハエすら追い払えないのに、他人の事に構ってられる訳ないじゃないか。サブプライムとか何とか、そんな簡単な事が解決出来ずに、他国の複雑な宗教もからむ紛争の解決が出来ると言うのか。頭の上のハエだから無視も出来るが、もしもこれが足元のゴキブリだったらどうなのか。多くの人が多分、ゴキブリの撃退に夢中になるに違いない。
 ゴキブリに対する嫌悪感よりも遙かに他国の紛争の方が魅力的だから手を出すのである。即ち、それは金儲けしかあり得ないはずだ。

 世界中が義理と人情に熱くなっている。もちろん、超大国のアメリカに対してである。いやいや、義理でも人情でもない。アメリカの脅迫に怯えているのだ。日本なんか特にそうだろうね。北朝鮮の拉致問題にしても、いつもアメリカの動向を窺っている。だから全く進展などしない。アメリカが拉致問題など眼中には無いから、どのように動向を窺おうと、まるで関係は無いのに。
 どこかの週刊誌がアメリカの9・11の原因はアメリカが作り出した幻影だ、と書いているらしいが、目新しい考えではないから読む気は起きない。諸悪の根源はすべて汚らしい金儲けにある。それを誰がやろうとしているかが見抜ければ、世の中の事はよく分かるのだと思うのだが。

正しい表現は、具体的な姿を描かないと出来ない

2008年09月15日 | Weblog
 言葉の話だが、先日、24時間表示の時刻表記は分かりにくい、と書いた。13時~14時30分、とある場合に、すぐには1時~2時30分とは分からないと言った。ただ、この場合は12時のすぐ次なので、1時だとは分かる。だが、17時などになると、私には咄嗟には分かりにくいのだ。
 その話をマンションの管理人にしたら、早速、エレベーターの中の点検のお知らせで、「13時~14時30分」に括弧書きで、(午後1時~午後2時30分)と書き添えてくれた。
 親切にやってくれたのに、またまた文句を言うのは本当に申し訳ないのだが、これは「午後1時~2時30分」だろう。後の「午後」は要らない。そしてもっと言えば「午後」も要らないのではないか。
 夜中の1時に作業するはずが無い。だが、私は本来はこうした作業は夜間にやる方が良いとは思っている。特に、駅などのエスカレーターやエレベーターの点検作業を日中の客の多い時にやられるのは本当に困る。健常者には分からないだろうが、足の不自由な人にはそれこそ、地獄である。
 夜間の作業になれば、作業員はともかく、駅の開閉をする人員も必要になり、コストがかさむだろうが、こうした場合のコストと客の不便さと、どちらを取るか。エスカレーターやエレベーターをサービスだと捕らえているから、多分、コストが優先するのだろう。

 これまた細かい話になるが、先日、駐輪場の場所の抽選があった。私の住んでいる所では、一年ごとに駐輪の場所を変える。その方が公平になる。その抽選日が3回に分けてあった。人々の都合を考えての事である。そこに「抽選(先着順)」とあったのである。
 抽選と先着順は明確に違う。違うと言うよりもまるで反対になる。何でこのような表示をしたのか、私にはさっぱり分からない。
 確かに、先着順にくじを引く事になる。それは当たり前の事である。だが、それを先着順とは言わない事は子供だって知っているはずだ。先着順とは、文字通り、早い者勝ちのはずである。選択肢がどんどん減るから先着順だ、とは言えない。
 お知らせに、抽選は3回機会がある、と書いてあれば、誰だって一斉に抽選になる、などとは思わない。そしてそれが、早い者順になると思うのは当然のはずだ。だが、それは「早い者勝ち」ではない。
 まあ、多くの人がそれで間違った訳ではないから、何も目くじらを立てる事もないのだが、大勢の人に対して、こうした不用意な事を言ったり書いたりする事はまずいだろう。多分、この関係者達にはそうした考えが無かったのだと思う。

 さて、その自転車を新しい場所に移動するのだが、それはどうやるのだとお思いだろううか。これは例えば10月1日に一斉に移動して下さい、と言うだけなのである。時刻の指示も何も無い。多分、人によって動かせる時間帯が異なるから、と考えているに違いない。
 だが、いざ移動しようとしたら、自分の新しい場所にまだ先人の自転車があれば、どうしたらよいのか。それは順繰りに、新しい場所に置けない事を意味している。ただ、どうにかなるよ、と考える人も居る。そして実際に去年もそうだったが、最終的には何とかなったのである。
 でも私は去年、何度も自転車置き場を見に行って、ああまだ空いてない、と引き返した。そして何度目かにやっと空いていて、移動が完了したとのいきさつがある。上層階からエレベーターを待って乗り、駐輪場に見に行き、そしてまたエレベーターを待って部屋に戻る。そうした事を何回も繰り返す。どうにかなるにはなるが、それにはこうした無駄な手間暇も含むのである。
 そうした事を、関係者達は一向に考えていない。前の自転車がある場合にはその隙間になんとか突っ込めばいいじゃないか、などと言う人もいる。だが、狭い所に突っ込んで、隣の自転車が倒れたら、それこそ将棋倒しになる。それを一つ一つ直す事などとても考えられない。自転車は10キロなどと言うのは軽い方である。そして多くの自転車が13キロ以上もあるのだ。
 だから、ある場所を仮の置き場に指定して、もしも自分の新しい場所がまだ空いていない時には、そこに置く、と決めておけば、少しは事が順調に運ぶはずだ。そんな余分な場所は無いのだ、と言うのなら、この「一斉に」の方式は実際にはどうすれば良いのか、具体的に示すべきだろう。

 なぜこのような細かい事を言うかと言えば、具体的な事を想像せずに無責任な事を言ったり書いたりする人が多いからである。いわば、言葉の上だけで考えている。実際にどうか、と言う事も重要だが、いい加減で曖昧な考えは払拭すべきだ、と私は思う。「実際に」と言うその言葉の陰に、一体どれほどの努力があるのかをきちんとわきまえるべきだろう。頭の良い人ほど、言葉の上だけで考えているから始末に負えないのだ。でも私はそうした人を頭が良い、とは絶対に認めませんけどね。

著名雑誌が相次いで廃刊

2008年09月13日 | Weblog
 著名な雑誌が廃刊になる。販売部数が落ちているからだと言う。8万部でも駄目らしい。雑誌は広告で持っていると聞く。だから、8万部では広告が入らないのか。
 でも、たとえ広告収入が無いとしても、8万部も売れれば元は取れるのではないか、と素人の私は思う。1000円の定価の本は5千部でトントン、との話を聞いた事がある。書店が2割、多分取次が1割、出版社の卸価格は定価の7割だとしよう。1割は原稿料、1割は印刷代として、これで残りは5割。その内の3割が出版社の経費で、最後の2割が利益になる。
 とまあ、知らないから大胆に割り振ってみた。

 1000円×5000=500万円。
 50万円=原稿料
 50万円=印刷代
 150万円=経費
 100万円=利益
 この利益の100万円は無くても出版社は潰れない。経費はきちんと賄われている。もしも、その出版物が世のため人のために出しているのなら、利益は度外視しても良いはずだ。それが出版の意気と言うものだ。
 これを雑誌に置き換えてみる。廃刊になる雑誌は一冊500円はするだろう。2万部売れると仮定しよう。
 500円×20000=1000万円
 原稿料は100万円。著名な執筆者は10人くらいとして一人10万円。まあ、馬鹿高くはないが、安過ぎるとも言えないのではないか。我々庶民から見れば、それでも結構なお値段に思える。
 印刷代にしても、100万円もあれば十分印刷は出来るのではないか。例えば全部をDTPで作るとしよう。編集などの作業は抜きにして、純粋に組版制作だけなら、多分、10万円くらいしか掛からないだろう。実際に私などが下請けで受けるとすれば、そのくらいで御の字である。それだって1ページ単価は500円になる。そして実際にはもっとずっと安いはずだ。
 出版社の経費は300万円。編集者が何人要るのか知らないが、十分にやって行けるはずだ。利益抜きなら、もっと売れなくても採算は取れるだろう。

 と、つまらない、あまり確実でもなさそうな想像を繰り広げてみたが、この世の中は、何でも、あまりにも利益を追い求め過ぎはしないだろうか。特に出版は単なる利益目的の事業ではないはずだ。それこそ、本当に世のため人のためとの高邁な理想を掲げて出発したはずなのだ。
 岩波文庫の「読書子に寄す」には次のようにある。
 世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。

 これは岩波文庫に対しての思い入れではあるが、どの書籍、雑誌にも共通する理念である。ところが、近年は多くの出版社がベストセラーを狙う。内容はともかく、売れさえすれば良い、との方針を打ち出している。まあ、そのようには言わないが、内容を見ればそれは一目瞭然。何でこんないい加減な本が売れるのか、と呆れてしまうが、仕方が無い、それが世の中の情況なのである。
 だからベストセラーが生み出せなくなれば、途端に倒産と相成る。売れなくてもやって行ける力をもっと付けるべきではないのか。利益だの採算だのと言っていれば、庶民なんか、とっくの昔に死んでるよ。
 出版がそうであるから、他の企業の本当にみっともない事よ。特に食品の、何をしてでも儲けるとの根性には、ただただ感心してしまうしか無い。他人の健康を犠牲にしてまで儲けたいとのその思いは一体どこから生まれたのだろう。
 どこかの食品製造メーカーの社長は自社の製品は絶対に使わない、との無責任な噂を耳にしてからは、私はうん、さもありなん、と思って、以後、その会社の製品は一切買っていない。どんなに安売りをしていても買わない。
 そんな事言ったって、あんたの使っている製品だって怪しいもんだ、と言われても仕方が無い。結局、見ぬ物清し、なのである。嫌な世の中になったもんだ。すべて疑心暗鬼じゃないか。自分しか信じられない(家族だって信じられない人間が存在する)、そんな世の中に一体誰がしたんだ。

 こうした場合、歴史を少しずつ戻して見ると分かるのではないか。現・福田総理の前は阿倍さんで、その前は小泉さん、その前はとさかのぼって行くと、
森、小渕、橋本、村山、羽田、細川、宮澤、海部、宇野、竹下、中曽根、大平、福田、三木、田中、佐藤、池田、岸、石橋、鳩山、吉田、芦田、片山、吉田、と戦後初代の内閣総理大臣にまで行き着く。
 うん、あの頃まではまだ良かった、などと言う思いがあるのではないだろうか。そして、そうだ、あの総理大臣の頃からおかしくなったんだ、と思い当たる節があると思う。この連休中に考えてみる価値はあると思う。そしてその答を聞かせてもらえれば、嬉しいのですが。

テレビでの新聞記事の紹介を考えてみる

2008年09月12日 | Weblog
 9日のブログでテレビはニュースショーを真面目にやれ、と書いた。10日、テレビ朝日だったか、浅草の観音様の本堂の屋根を金属製の瓦で葺き替えるとの新聞のニュースを紹介した。本瓦に比べてずっと軽量になり、重心が下がるから地震対策になるのだと言う。ゲストが雷にはどうなのか、とか発言をした。私にはよく聞き取れなかった。すると女性司会者が、なんだ、そう言う事だったんですか、と言う意味の事を言う。多分、ゲストがなにか駄洒落っぽい事を言ったらしい。
 こうした場合に、私はいつもいらいらしてしまう。視聴者を抜きにして自分達だけで楽しんでるなよ、と。ゲストは常に言語明晰な人ばかりが出ている訳ではない。中には相当癖の強い人もいるし、明晰さに欠ける場合が少なくない。そうした場合にきちんと司会者がフォローすべきなのだが、現場ではよく分かるのだろう、そのまま進行してしまう。特にこうしたギャグに近い場合には、当たり前だが、絶対にフォローなどされない。
 男性の司会者が「雷門」がどうとかこうとか言った。で、それでおしまい。

 雷門は、風神・雷神の二体を守護神として祀っているからこそ、その名がある。特に日本人は「地震、雷、火事、親父」と言って、雷を二番目に怖がって来た。その雷から守るのが雷門である。従って、この門は今では大きな提灯がぶら下がって、浅草と言えば、雷門の風景が出て来るほどだが、単に点景にしてしまっては駄目だろう。
 せっかくゲストが雷がどうの、と言ったのだから、「何だそんな事ですか」などと流さずに、きちんと話題として発展させたらどうだろう。まあ、時間も無いんでしょうが。
 こんな事を推測しても何にもならないが、ゲストは金属製の瓦にしたら、雷が落ちるんじゃないの? とか言ったのではないのか。もちろん、彼は避雷針があって、そんな事はないのは百も承知である。つまり、本当に余計な事を言った。そして男性の司会者が「そうですね、雷門もありますしね」と言ったのかも知れない。
 つまり、雷門があるから、雷が喜んでやって来る、と言う事になる。これまたもちろんの事、そんなはずがないのは百も承知だろう。
 だが、その事によって、雷門の性格はまるで分からなくなってしまった。まさか「雷門があるから大丈夫です」と言ったのではなかろう。それでは何のフォローにもならない。ゲストのつまらない発言の意図とは反するし(つまりはちょっとしたジョークのつもりだったのだろう)、そのつまらなさをかえって目立たせてしまう事になる。どちらの解釈をしても同じ事になる。

 何を言いたいのかと言えば、やはり、真面目にやって頂きたいのである。そして、男性司会者の発言は、本当に微妙だと思う。彼は雷門がどのような意味の門であるかを知っていたのか、知らなかったのか。私には話の展開から見て、と言っても、よく分からない展開なのだが、この司会者が雷門を正確に知っていたとは思えないのである。
 我ながら、細かい事をほじくっているなあ、と思う。重箱の隅をつつく、とはまさにこうした事である。しかしテレビは重箱ではない。色々な料理が詰まっている点では、まさに重箱だが、公共的な使命を帯びていると自負している。だから重箱のはずがない。隅をつつくのは、公共的な使命の「隅」をつついているつもりである。公共と言う名の箱の隅は非常に大きく広い。そこにおかしな物が詰まっていては駄目だろう。

 せっかくのゲストなのだから、もっと実のある事を言うべきである。もちろん、日頃のこのゲストの事は認めている。だからこそ、こうした余計な軽口は慎むべきだろう。しゃべってなんぼ、書いてなんぼ、の人々ではないか。そんな事をしているから、私は「面白半分」とかのタイトルにしては? と提案しているのである。
 大体、新聞記事の紹介で番組を埋める事自体、私には苦々しく思える。忙しくて新聞を読む暇も無い人や、何紙も取る余裕の無い人(ほとんどがそうだが)あるいは取る必要の無い人にとっては、こうした記事の紹介は役には立つ。立つが、どれもこれも簡単に内容の説明をするだけで、内容を深く考えようとか、分析しようとかの意図はまるで無い。言うならば、見出しを読んで分かった、と思うのと同じ程度である。
 そんなのが、本当に我々の暮らしに役立つのだろうか。余計な事をして、いや、つまらない事をして時間を無駄にしていないで、もっと本格的に追求すべき事に精を出したらどうなのか、と思ってしまう。
 新聞が、昨日テレビではこんな番組を放送していました、って紹介しているか? これだって、見逃したり、見られなかったりした人にとっては、必要な事だろう。だが、新聞はそれをしない。まあ、記事で紹介出来るような事ではないのだろうし、もしかしたら、紹介に値しないと思っているのかも知れない。
 これって、考えてみる価値があると思いませんか?
 

テレビは人を短絡的にする

2008年09月11日 | Weblog
 テレビで映画「七人の侍」を見た。何度も見ているが、やはりまた見た。長い映画で、そのため、途中に休憩が入る。だが、集中力を破るのはそれだけだ。あとは、真剣になって画面に釘付けになる。
 昔は町の中に、本当に歩いて行けるような所に映画館があった。そこでは2時間ほどはしっかりと画面に見入っている。いや、2本立てもあった。そうなると約4時間だ。いやいや、3本立てもあったぞ。2時間の途中でトイレなんかに立とうものなら、話の筋が分からなくなる。だから、きちんと用を済ませて鑑賞に臨んだ。
 ところが、テレビがこれほどまでに盛んになって、町の映画館は廃れた。まあ、足を運ばなくても映画が見られるのは素敵な事である。だが、テレビでやる映画はほとんどが短く編集されて、無惨な姿になっている。しかも途中に何度でもCMが入るから、話はよく分からないし、ちっとも面白くない。集中しようと思っても、テレビの方でその集中力をぶった切るような事を平気でしている。作った監督はさぞかし嫌だろうなあ、と思う。あれほど滅茶苦茶にされて文句も言えないのだろうか。まるで、余分な所が一杯ありましたから、適当に整理して、充実させましたよ、と言われているみたいではないか。そして、その整理の仕方は、この人、頭悪いんじゃない? と思ってしまうような出来映えである。馬鹿ではないが、ニュアンスが分からない、結果しか目に入らない。

 こうして、我々は2時間近くも集中力を持ち続ける事が出来なくなった。その訓練をする場が無い。だから短絡的な人間ばかり増えてしまう。考え方が短絡的なら、行動も短絡的である。移り気だし、じっくりと構える事が苦手な人が多い。
 だからペットだって、さっさと捨ててしまう。生き物の命を何とも思っていない。その究極の果てが簡単に人を殺してしまう事だ。殺人は、バーチャル世界にのめり込んで、仮想と現実の見境が付かなくなったのが原因でもあるが、心のひだがなくなって、のっぺらぼうになってしまった事も大きな原因のはずだ。ひだが無ければ表面積は減る。すると外界と触れる機会も減ってしまう。
 心が豊かと言う事は、様々な艱難辛苦を乗り越えて、心がしわくちゃになって、それだけ心のアンテナが広くなった事を意味しているはずだ。ずんべらぼうで、つるつるした心は、見てくれはいいだろうが、物事を受け入れる面積が少ない。
 集中力があると言うのは、物事を考える力もまたある、と言う事である。様々な複雑な事を考えられるからこそ、人は進歩する。その集中力を奪うような事ばかりに熱中して、養う事をまるでしない。それが、細切れで番組を放送しているテレビに顕著に現れている。

 テレビはなぜ騒がしいのか、と言えば、うるさくしていないと、注目してもらえないからである。つまり、画面その物はまるで魅力が無い。だから音声で惹き付けるしか無い。その最たるものが、CMだ。本当は画面こそが絶好の手段なのだ。カラーだし、動きがある。無いのはにおいくらいのものだ。それなのに、その画面では有効な訴え掛けが出来ていない。そこで音声に頼る。
 その証拠には、CMで音声を消してごらんなさい。何を伝えているのか全く分からなくなるから。
 私はCMになると、即座に消音にする。たとえ解除が少々遅れても、あの悪名高き、少し前に戻って放送すると言う仕組みがあるから、ちっとも困らない。消音が遅れてちょうど良くなる。CMのたんびに消音にするのは煩わしいが、あのけたたましい音声を我慢するよりはずっとましである。何で、CMになると、途端に音量が上がるんだろうねえ。
 もしかしたら、別に音量は変わらないのかも知れない。しかし途切れる事なくしゃべるから、音量が上がったように聞こえるのかも知れない。だが、うるさいと感じるのは同じだ。そのせいで消音にする視聴者がいるのだから、結局は損をしているのではないのか。多分、私のように消音にするのはごく少数なのだろう。そして、これもまた「もしかして」なのだが、真剣になって見ていないから、CMだろうが、番組だろうが、関係が無いのかも知れない。ただ単に映像と音声が流れていればそれで良し、の人々は決して多くない、と私は思う。
 そして、CMって、果たしてどれほど効果があるのか、とも思う。かく言う私はCMに引かれて物を買った事がほとんど無い。なぜなら、CMではその商品の本当の価値を伝える事は全く出来ていないからだ。単にムードを盛り上げるだけだから、その手に乗ってその商品を買う人は、買い物をしているのではなく、買い物をさせられている操り人形に過ぎない、と私は思う。言うならば、金を使うための操り人形である。
 そう言う私も一度だけ、乗せられた事がある。風呂の洗剤で、洗剤を吹き付けるだけで浴槽がつるつるぴかぴかになる。だが、少しもきれいにならない。それを息子に言ったら、馬鹿だなあ、CMの言う通りできれいになる訳ないじゃないか、と馬鹿にされた。それ以来、私はCMで「こうなります」と言えば、「こうなりません」と解釈している。
 CM料金を上乗せした商品を心にもなく買ってしまう事で、またまた余分なお金を支払う。
 あーあ、そうやってお金を無駄に使える人が、心底うらやましい。ホントです。

コカコーラの「可口可楽」は中国語で何と読む?

2008年09月10日 | Weblog
 東京新聞で「現代社会と外来語」の連載が始まった。 
 今はすべてカタカナ語だが、先人達は頭が良かった。「型録」(カタログ)など、とても元が英語だったとは思えない。新聞のカタログの英語はcatalogueだが、これは米語のcatalogではなく英語だ。なぜ英語なのか、と不審に思った。それにこの英語の綴りもちょっと臭い。そこでフランス語の辞書を見た。
 catalogueである。そしてその動詞はcataloguerだ。これはカタロゲと発音する。「…の目録を作成する」「…を目録に記載する」の意味である。
 多分、フランス語から英語に入ったのだろうと思う。執筆者が米語ではなく英語で示してくれたから調べる事が出来た。でも出来れば、英語及びフランス語と書いておいて欲しかった。
 カンは「缶」だが、この漢字は俗字だと読んだ記憶がある。漢和辞典の『角川新字源』では「蓋が付いて腹部がふくらんだ土器の形にかたどり、これを部首にして、腹部のふくらんだ土器の種類・状態などを示す字が出来ている。常用漢字では罐の音・意味に用いる」と説明している。
 部首は多くの場合、意味を表し、つくりが音を表す。「缶」の正字は「罐」である。この字のつくりの部分の発音は「カン」である。そして肝心の「缶」の音は「フ」である。
 従って「罐」は元々は土器であり、『常用字解』には「土器の瓶(かめ)などをいう字であった」とある。それを英語の「カン」に当てたのは果たして正しかったのだろうか。更には、「缶」は本来の発音は「フ」なのである。まあ、日本語として日本の漢字として「缶=かん」が成立しているなら致し方が無いが。
 だが、『新字源』では、国字、つまり日本独自の使い方の漢字として、次のように説明している。
 1 金属、特にブリキ製の入れ物。英語canの音訳。「缶詰」
 2 かま。「汽缶」
 3 金属製の湯わかし。「薬缶」(やかん)

 辞書の1、2、3などの順は、原義→派生語を表している。つまり英語canの音訳に「缶」を使った事から「汽缶」「薬缶」の使い方が出来たと考えられる。
 こうした事を考えるのには、実は『新字源』よりも『新釈漢和』(明治書院)の方がずっと分かり易く、親切で正確である。
 きちんと「缶=ふ」であると示し、もとは「罐」と「缶」とは別字であるが、常用漢字では「缶」を「罐」の新字体として用いる、と説明している。
 常用漢字は、漢字を正しく使いたいと思う場合に足をすくわれる事がある。きちんと考えられない人をその制定者に指名してしまうからで、使命(指名)の意図を完全に踏みにじっている。

 さて、執筆者は中国ではカタカナが無いが、絶妙な訳語があると、次の例を出している。
 可口可楽=クコクラ
 百事可楽=パイシクラ
 博客=ボグ
 保齢=パオリン
 それぞれ、コカコーラ、ペプシコーラ、ブログ、ボウリングである。「可口可楽」はよく知られているが、改めてこれらを見て、「可口可楽=コカコーラ」なら素晴らしいが、「クコクラ」では、なんじゃこれ、である。中国語では絶対に「コカコーラ」とは読めないが、日本人ならカタカナの「コカコーラ」を通して、「可口可楽=コカコーラ」が可能になる。だから、絶妙とは言えないと思うのだが。本当に中国では「「可口可楽」を何と読んでいるのだろうか。
 執筆者(関西学院大学教授)は「このような工夫は日本語においても漢字力の維持のために忘れたくない」と言う。正論である。ただ、「このような工夫」が前述のように「工夫」と言えるのか、との疑問が私にはある。それはそうと、執筆者が提案している「ブログ=文録・部録」などはいいヒントだと思う。
 定着している「金平糖」は記事の通り「コンフェイト」だが、この菓子はあの「つの」が特色で、それは何度も何度も砂糖液を掛けて自然に成長させて作る。それは「平」の文字ではまるで感じが出ない。三冊の小型辞書は「金米糖」も挙げており、『新明解国語辞典』は「金米糖」だけである。私は「平」よりは「米」の方がまだ良いと思う。執筆者はなぜ「金平糖」しか挙げていないのだろう。「きんぴらごぼう」とも関係無さそうだし。
 全体に、ちょっとばかり考えが不足しているような気もするが、杞憂である事を祈ります。

食品会社が糊を作るのか?

2008年09月09日 | Weblog
 きょう9月9日は重陽の節句。陽の数字は七も五も三も一もあるが、九は究極の陽の数字。だから「九九」のみを重陽と言う。そんな日なのに、相変わらずおかしなニュースばかりだ。もっとも、みな昨日までの出来事ではあるが。
 またまた食品の偽装が発覚した。「発覚」であって、「あった」のではない。多分、数え切れないほどに「ある」のであって、「発覚」はほんの氷山の一角なのだろう。
 大体、会社の名前が「三笠フーズ」である。「三笠食品」がなぜ工業用の米を大量に買い入れる必要があるのか。1トン9万円の物がわずか6千円で買えるのだと言う。1トンは千キロだから、1トンが9万円なら1キロは90円。普通の米なら売値は5キロで約2千円。この米なら5キロで450円。え? と思う。1トン9万円は正規の米の価格だろうから、御飯ではなく、食材の原材料となる米はいくら元値とは言っても、そんなに安いのか。
 この米が1トン6千円。15分の1の価格である。と言うよりも、1トンで8万4千円も濡れ手に粟なのだ。この価格についてはテレビでの情報だ。この1キロ90円は、9日の東京新聞で80~100円とあるから、確かな数値だ。
 ほとんどが接着剤などの工業原料用や肥料として売られていると言う。
 農水省は過去5年間で約7400トンを販売し、その内の1779トンを三笠フーズが買っていたと言う。このほかに商社ルートによる販売があり、05、06年度の2年間で同社は743トンを買っていた。政府から1年間平均155.8トン、商社から1年間平均371.5トン、合計527トンになる。8万4千円×527トンで、年間4400万円以上もが濡れ手に粟になる。
 正規の米に混入させて売っていたと言うから、価格は正常の価格のはずだ。

 食品会社に工業用の原材料を売るのもおかしいではないか。案外と、農水省も商社もそれと知りながらやっていたのではないか。役所が疑われるようになったら、おしまいだ。そしてそれは今に始まった事ではない。疑わしい役所ばかり存在しているではないか。悪い事は目立つのだ、とは言っても、あまりにも多過ぎるし、目立ち過ぎる。
 農水省のチェックは事前に通告してのチェックだから、ごまかそうと思えばごまかせる。なんで抜き打ちにしないのか。結局、チェックは形ばかりで、本気になってやろうとしている気構えは見えない。
 本当におかしな人間が多い。

 力士の大麻事件では、弁護士が検査の方法について疑問を呈している。きちんとした世界的にも信用のある臨床検査の結果に疑問を呈するなら、どんな事だって疑える。そして、大麻所持は罪になるが、吸飲は罪にはなっていない、と言ったのだが、私にはそれがよく分からない。拳銃を持っているのは罪になるが、発射しても罪にはならない、と言うのと同じで、おかしいのは明白だ。
 この弁護士のこうした意見はテレビでさっと流れただけだから、確かめる術が無いのだが、そしてテレビ自身もそんな事はまるで気に掛けていなかった。となると、私の見間違い、聞き間違いだったのか。

 新聞なら、疑問に思った事を何度でも読み返す事が出来る。だがテレビでは次から次に消えてしまうから、それが出来ない。おかしいなあ、と思ってもそれで済ませるしか無い。そして私はテレビで、このように変だなあ、おかしいなあ、と思う事にしょっちゅう出くわしている。それだけで本一冊分になる原稿を書いたのだが、何しろ録画して見ているのではないから、新聞のように保存しておいて、何度でも考え直すと言う事が出来ない。
 疑問に思う事柄はニュースショーやクイズ番組に多いから、そうした番組だけでも録画しようかな、とは思う。あまりにも分からない事が多いからそう思うが、やはり馬鹿馬鹿しいと思い直す。普通に見ていて、素直に納得したいのだ。ああ、いい事言ってるなあ、と思いたいのである。何も、疑おうなどと思ってテレビを見ているのではないのだ。
 そうした我々視聴者の善意に寄り掛かって、と言うかもっと言うなら、善意をうまく利用してテレビは成り立っている面がある。新聞だってそうだが、徹底的に追求をしないのだ。興味本位の所でお茶を濁す。まあ、時間が足りないと言えば言えるが、つまらない本当に興味本位の話だって流しているのである。
 面白くしなければ見てもらえないだろうが、それはバラエティー番組ですれば良い事であって、何もニュースショーにまでバラエティーを取り込む必要は無い。真面目な番組はあくまでも真面目に、面白さを追う番組はあくまでも面白く、に徹すべきである。真面目な番組まで面白さで釣ろうなどとスケベ根性を出すから、おかしくなるのだ。いい加減で中途半端なら、「真面目」の仮面は外すべきだ。少なくとも「ニュース」などの言葉は外したらどうなのか。「面白半分」とか「言いたい放題、やりたい放題」なんてどうだろう。変な方面に媚びを売って白黒をはっきりさせないから、世の中が灰色になってしまうのである。