夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

あと一歩、東京新聞と新明解国語辞典

2008年09月03日 | Weblog
 9月3日の東京新聞の校閲部の記者の記事がある。
 余談だが、この「の」の乱用みたいな文章は必ず直される。たったこれだけの文章に「の」が四つもある。だから駄目だと。しかし「東京新聞に」とも出来ない。この「に」と「の」は気持が違う。でも、これが詩だったりすると、同じ「の」の繰り返しが、ある効果を上げていると評価される事だってあるだろう。
 要するに、9月3日、東京新聞に載った校閲部の記事に私は関心がある、と言いたいのである。それだけなんだから、冒頭のスタイルでもいいじゃないか、と思う。

 「宍道湖」の「宍」は「肉」の異体字だそうだ。私は知らなかった。

・異体字=標準的な字体とは異なるが、各時代、一般の人びとにより広く使用された漢字の字体。当用漢字の新字体や、常用漢字の字体と一致するものも多いが、今日、誤字とされるものも交じっている(新明解国語辞典)。

 『角川新字源』では「誤字」となっている。それはそうと、でも「肉道湖」とは書かない、と言うのがテーマになっている。同じように「富獄三十六景」を「富岳三十六景」とはしないように、「獄」を「岳」に直していることはそんなに多くない、と言う。
 「旧字や異体字の字形が新字と全く違うものは、別の字体として認識されているようです」
 確かに、「御岳山」を「御獄山」と書かれては別の山だと思ってしまう。新聞は「瀧澤さん」を平気で「滝沢」と書くし、「龍野市」にあるJRの駅は「竜野」である。
 でも、「龍」と「竜」は全く字形が違うのではないのか。「澤」と「沢」はさんずいが同じだが、「つくり」の方が重要なはずだ。即ち、この二つは字形が違う。更には「龍・竜」は単に「立」の形が共通だと言うに過ぎないではないか。「字形が新字と全く違うものは、別の字体として認識されて」などいないではないか。

 「宍道湖」が「肉道湖」にはならない、と言うのであれば、是非とも「塩竈市」は「塩釜市」とはならない事を言うべきである。マスコミのほとんどが「塩釜市」と書いて何の恥じる所も無い。警察署は「塩釜警察」だし、JRの駅は「塩釜」だが、市名は「塩竈」である。市は正しく「塩竈」と書いて欲しい、と言っている。
 当たり前の話である。だが、耳を貸そうとはしない。私が数少ない「塩竈市」の表記を見たのは、テレビ東京の旅番組だった。多分、マスコミも含めて、多くの人々が知らないのだろう。それでもマスコミの名で通る。「竈」の文字はパソコンでもきちんと表記出来るのである。単に無精を決め込んで、自分の知識を磨こうとはしていないだけの事に過ぎない。

 話はがらっと変わるが、上の『新明解国語辞典』の説明で、私は二つの不満がある。
 一つは「人びと」の表記である。これは「人々」が絶対に正しい、と私は信じて疑わない。「人びと」が許されるなら、「国ぐに」も「山やま」も許される。辞書ともあろう者が、そんな馬鹿な事をしていて良いのか。辞書は「人々」ではなく、「人人」の表記を正式としているではないか。
 もう一つが「誤字とされるものも交じっている」の「交じっている」である。表記辞典は「溶け合うまじり方=混じる」で、「溶け合わないまじり方=交じる」だと信じ切っている。これは明らかな間違いである。例えば「におい」。これは「溶け合う」から「においが混じる」だと言うのである。では、溶け合ったにおいはどんなにおいなのか。溶け合ってなどいないから、「変なにおい」はすぐに分かるのだ。「雑音が混じる」も同じ。純音と雑音がまじりあわずに、それぞれが別々に存在しているから、「まじっている」のが分かるのである。
 「溶け合う・溶け合わない」ではない。「溶けている=まじっている」のが簡単に分かるか分からないかの違いの話なのである。「酢」に「酒」がまじっていても、それとは分からない場合が多い。所詮、「酒」は発酵が進むと「酢」になるのである。だから、きちんとした酒屋は日本酒を冷蔵して保存し売っている。私はその「冷蔵庫」に入って、あれこれと酒を物色するのが好きだ。

 『新明解』は私は嫌いではない。だが、上に見たようなおかしな説明がある事に、今の今まで気が付かなかった。参考までに同書の「まじる」は「交じる」である。「混じるとも書く」との説明はあるが、標準表記は「交じる」だとしている。私は、反対に「混じる」が標準表記だろう、と思っている。そして「込む」「交わる」などと、この「混じる」を明確に書き分けるのが、最も分かり易い表記だと信じている。
 タイトルの「あと一歩」は私の単なる勝手な感想です。