夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

新聞の面白い論理を御紹介しよう

2009年04月18日 | Weblog
 世界でも有名な「秋葉原」。「あきはばら」と読む。しかし「あきばはら」の読み方も出来る。だからか、東京新聞の「読者応答室」にどちらが正しいのか、との質問とその回答が載った。
 回答では地名の由来は火災を防ぐ御利益のある「秋葉神社」を祀った事に始まると正しい説明をしている。これは「あきば」神社である。従って、その周囲を地元の人々は「あきばがはら」「あきばっぱら」と呼んだ。これは東京の歴史の本には必ず出て来る話である。

 そしてこの地に鉄道の駅が出来た時、駅名を「あきはばら」としてしまった。鉄道の駅名と言う物は結構鉄道側の勝手が横行している場合がある。例えば同じく東京の西武鉄道の「江古田駅」。これは地元の人々は「えごた」と呼んでいる。私は長い事、江古田と関連のある暮らしをしていたから知っているが、誰一人として「えこだ」などと言う人は居なかった。しかし駅名は「えこだ」なのである。どちらが正しいのか。もちろん地元の「えごた」が正しい。
 これは「えごの木の田」の意味である。「えごのき」はかつては武蔵野の特有な木の一つであった。「えご」と言うのは果皮が有毒で喉を刺激し、「えぐい」のでその名があると言われている。物の名前とはそうして付くのだから納得が行く。
 これもまた、鉄道側が勝手に駅名を付けたのである。何でそんな馬鹿な事が出来るのか想像も付かないが、現実はそうなのだ。そして同じ事が「あきはぱら駅」なのである。

 「あきはぱら」はそれで定着しているから、今更、正しい「あきばはら」が通用するはずも無い。本項のタイトルを「面白い論理」としているのは、記事の締めくくりが次のようになっているからだ。
 「地名の由来のほか、秋葉原をアキバと略すことも定着していることから、今でも「あきばはら」と読む人も多いようです」

 でも、そんな事は無いだろう。地名の由来を知っている人など本当に少ないはずだし、由来を知っているからと言って、「あきばはら」になる道理が無い。由来を云々するなら、駅が出来た当時から「あきばはら」と言う人が大勢居て当然なのである。
 そして「秋葉原」を「アキバ」と略すから「あきばはら」と読む人も多い、と言うのである。でもそうした略称を口にするのは若者やお宅系の人に限られるのではないのか。我々はちゃんと「あきはばら」と言っている。すっかり慣れてしまっているし、テレビでもよく話題になるから耳からも「あきはばら」が入って来る。今更「あきばはら」などと言いにくくてどうにもならない。それに「あきはばら」の読み方は不自然だ、などと考える人は、多分、ほとんど居ないはずだ。我々はそんなに日本語にも漢字にも詳しい訳ではないのだ。
 略称で特に重要なのは、それが略称ではなく、独立した名称になってしまっている事である。これまた東京の事で申し訳ないが、と言うか私は他の地域の知識が無いので、「きちじょうじ」は「じょうじ」であり、「しもきたざわ」は「しもきた」である。そうそう、大阪では「どうとんぼり」は「とんぼり」だし、「うえほんまちろくちょうめ」は「うえろく」だ。
 これらは正式名称の一部を採っているが、だからと言って、「あきば」もまた正式名称の一部である、と認識しているはずが無いのである。「あきはばら」の略称として「あきは」ではどうにもならない。第一、力が入らない。「あきは」の「ばら」で「あきば」は決しておかしくない。それに、略称として「秋葉」なら「あきば」と読む方がずっとそれらしく聞こえるではないか。
 略称は略書。人々は単に長いから省略しているのではない。その方がかっこいいからである。
 すっと読むと、そのまま納得してしまいそうな記事だが、私はどうしても引っ掛かってしまう。論理がおかしいと。私は理屈っぽ過ぎるのだろうか。