林光寺の続きです。鈴鹿市から亀山市の円福寺へ・・
京都の黄檗山万福寺の末寺で明治に住職のいない寺となり、平成7年に火災で本堂、十一面観音を焼失した。新たに聖観世音菩薩を安置し現在に至っている。
二世の菩提樹の木、葉は心臓の形をしてるらしい。
よく見れば左右対称ではない。
誰もいなくて自分で御朱印を押しました。300円はちゃんと箱の中へ・・。
次に宗徳寺へ・・
近くの路上に車を止め歩いていく。(間違って民家の庭に入ってしまった)山の中腹だがわかりにくかった。
御朱印をもらいに住居に行くと、お堂に上がらせてくれ、ペットボトルのお茶までくれた。
話好きの住職か、というより次の寺までの地図をくれたり、亀山の観光案内をくれたり、宗徳寺を紹介した記事のコピーをくれたり、世話好きの人ですね。やさしい感じの人でした。
次に鶏足山野登寺(やとうじ)へ・・
ここは下寺と上寺があって上寺は標高852mのところにあるらしい。だから紹介してくれたのか。行っても不在で外から見るだけなので行かなかった。
山頂には野登寺上寺があり、
山号を鶏足山といいます。千百年もの昔、人皇第六十代醍醐天皇は夢の中で
伊勢国鶏足山野登寺の菩薩の不思議なお告げを受けられ勅使を遣わした、その勅使が山の麓で道に迷って
難渋していると、何処からともなく「三本足の鶏」が飛んできて勅使の裾をくわえると山頂まで導きました。
到着した勅使は、この山のたたづまいに心を打たれ立ち尽くしていると
そこに翁が現れ、勅使をお堂の中へと案内しましたそこには、眩いばかりの神々しい、
神作の千手観音様がおりました、勅使はたいそう驚き、案内された翁を探しましたが見つからず
あの翁こそ千手観音様のお姿に違いないと、一心に伏し拝みすぐさま下山し帝にお知らせしました。
勅使の報告を受けられた帝は、ご霊夢が正夢であったかと驚嘆され
遥か鶏足山の方を合掌礼拝されました。仙朝上人を中興開山として遣わされ
仙朝上人は延喜年、全国各地より銘木を集め諸堂伽藍の建立に取り掛かり延喜十年四月七日に
落慶法要を厳修されました。するとその年は五穀が良く稔ったので、それ以来
毎年四月七日を縁日として祭礼を行っております。
youtubeで上寺へ・・
伊勢西国三十三ヶ所観音霊場 三重四国八十八ヶ所霊場 鶏足山野登寺
鈴鹿市に戻り、荒神山観音寺へ・・
当山は,真言宗御室仁和寺派に属し,前述のように住吉は神事山(かうじかやま)といい,後に高野山の一字をいただいて高神山と改めました.
俗に荒神山と書いて,次郎長伝吉良の仁吉で全国にその名が知らされています.
荒神山の喧嘩
荒神山の喧嘩は,慶応2年4月8日神戸の長吉(ながきち)と,桑名の穴太徳(あのうとく)が縄張り争いから,この観音寺の裏山で200人前後の身内を投入,入り乱れての死闘をつくしました.
三州吉良港の仁吉は長吉の頼みに応じ,子分の松阪の米太郎,清水の次郎長のの身内の大政,樋屋の鬼吉らと共に戦い,穴太徳に大勝しました.しかし,この戦いで仁吉は,28才の若さで兇弾に倒れ死亡しています.
昭和26年3月,浪曲界の重鎮広沢虎造師により,追悼碑が境内に建てられています.
また、境内の鐘楼堂には、当時の銃弾の痕が残っています.
ここが決闘地か?
この辺りか?
春日局とのかかわり
出羽国湯殿山の修験者順海上人が寛永10年(西暦1640年)伊勢大神宮へ参詣の途中,眼疾を患い,失明しました.伊勢大神宮に開眼の志願をしたところ,夢枕に神童がたち,この神事山の十一面観音菩薩像に祈願せよとのおつげがあり当山に参拝して7日目,開眼することができました.
以来上人は,余生を御本尊に専心奉仕を決意し,修法怠らないで献身しました.
またその姿を見て,姉にあたる春日局が正保4年(1647年)仏恩奉謝のため湯殿山に勧請して,日天,月天,地天,三宝荒神4体を銅仏に鋳立てて,当寺に寄進しており,中でも三宝荒神は,最も不浄を忌み火の清浄を愛するところから竈(かまど)の神様として有名で,暴悪を治罰する神徳から正義が祈られ,勝運が願望されています.
春日局の碑よりも吉良の仁吉の碑を見てくるの忘れた。
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