という主張をする人がいることは知っていますが、「あった(自分はそれを生き延びた)」という証言があるのにそれを真っ向から否定できる「根拠」って、何なんでしょう。これはつまり、証言者を「お前は嘘つきだ」と言っているわけですが、これは相当な根拠がないと断言できないセリフだと私には思えるのです。で、「断言の強さ」ではなくて「否定の根拠」を検討したいな、というのが私の望みです。必要なのは、丁寧なインタビューかな。
【ただいま読書中】『私はガス室の「特殊任務」をしていた ──知られざるアウシュヴィッツの悪夢』シュロモ・ヴェネツィア 著、 鳥取絹子 訳、 河出書房新社、2008年、2000円(税別)
著者は1923年にギリシアで生まれたユダヤ人ですが、一家はイタリア国籍を持っていました。ユダヤ人を嫌う人びとはいましたが、迫害と言えるまでの差別は受けなかったそうです。戦争が起き、イタリア軍の侵攻には抵抗していたギリシアも、ドイツ軍にはほとんど無抵抗で占領され、ユダヤ人迫害が始まりました。それでもイタリア国籍の者は強制収容は免れていました。しかしナチスはギリシア系ユダヤ人を強制収容し終えると、次はイタリア系ユダヤ人に目をつけます。このとき、少しでも多くのユダヤ人を救おうとイタリア領事官のグエルフォ・ザンボーニが活動しています(日本の杉原千畝さんを思い出します)。イタリア大使館はユダヤ人を保護しようと、シチリアか(イタリア行政下の)アテネに避難することを提案、ほとんどのユダヤ人は近いアテネを選択しました。しかし1943年9月8日にイタリアは降伏、イタリア兵はドイツに送られて強制労働、アテネはドイツ軍支配となります。上手く逃げ回っていた著者ですが、44年についに捕まり、乗せられた列車が4月11日に到着したのは、アウシュヴィッツでした。
ここまでに著者はいくつも「運命の分岐点」を知らずに通過しています。そのたびに著者は「アウシュヴィッツへの道」を選択しているのですが、それは後になってから言えること。そして、アウシュヴィッツに入ってからはもう「選択肢」はありません。あ、いや、あります。「ドイツ兵の命令に従ってその日を生き延びる」か「命令に従わず即座に殺される」か。そして著者が命じられたのは(兄や従兄弟と一緒に)「特殊任務部隊」に入ることでした。
特殊任務部隊の仕事は、死体の焼却でした。列車で強制収容所に到着したユダヤ人にはまず「選別」が行われ、過半数の者はそのままシャワー室(ガス室)に送られます。まず裸にされ、ガス室にぎっしりとユダヤ人が詰め込まれると、SSが毒ガスが入った容器を持ってきます。特殊任務部隊の囚人が二人掛かりでセメント性の重たい揚げ戸を開けるとそこにチクロンBが注ぎ込まれます。ガスは「シャワー」を通ってガス室に充満。10〜12分後に室内が静かになると換気をしてドイツ人はさっさと立ち去ります。中は悲惨な状況です。もがき苦しみ少しでも吸える空気を求めて人びとはぎっしりと山をつくっています。特殊任務部隊は、血液・尿・便・汗・涙・吐物などがまとわりついた死体を素手で引き出し焼却棟に運びます。「理髪師」として登録された著者は、鋏で女性の死体の髪の毛を切る“仕事"をしなければなりませんでした(同様に「歯科医」と登録された者は、金歯の回収をさせられます)。
列車は次々到着するので、特殊任務部隊は12時間交替の2班編制でした。著者が配属されたのは焼却棟Ⅲで焼却炉が順調に稼働していましたが、著者の兄が配属された焼却棟Ⅳ(またはⅤ)では焼却炉が故障がちで死体は巨大な墓穴で焼かれていました。
ユダヤ人たちはほとんど無気力に日々を過ごしていましたが、そんな収容所にも反乱計画がありました。首謀者は、焼却棟の看守長。ハンガリーからの最後の編制列車が到着したのですが、それはつまり「仕事」の終わりを意味します。すると次に抹殺されるのは、特殊任務部隊そのもののはず。どうせ殺されるのなら、せめて何かして殺されよう、と決心した人びとが集結します。しかし密告で焼却棟Ⅳは爆破されます。焼却棟Ⅱの特殊任務部隊の人びとは逃亡を試みますが全員捕まって殺されます。焼却棟Ⅲの著者らはⅡに移動させられ、Ⅲは解体されました(解体をしたのも特殊任務部隊です。内部を知っているのは彼らだけで、ドイツ軍は「目撃者」をこれ以上増やしたくなかったのでしょう)。「解体」の目的はもちろん証拠隠滅です。「アウシュヴィッツ(での虐殺)など存在しませんでした」と主張するための行為。その仕上げは特殊任務部隊の抹殺のはずでしたが、隔離されていた彼らは「撤退」のどさくさに紛れて一般収容者の中に紛れ込み「死の行進」を始めます。撤退の経路に死体をいくつも残しながら著者らが着いたのはオーストリアの強制収容所でした。そこで強制労働をさせられながらアウシュヴィッツを出て4箇月、ついに著者はアメリカ軍によって「解放」されます。
著者が「語り」始めたのは、解放から47年後のことでした。それまでも勇気を出して自身の体験を語ろうとしたことはありましたが、それで出くわしたのは「拒絶」だけだったため、語ることに臆病になってしまったのです(話の内容は相当違いますが戦後に「日本本土で米軍の艦載機に銃撃を受けた」と体験談を語ったら「そんなことは信じられない」と頭から否定された、という経験を持っている人がいることを私は知っています)。ただ、語ることを始めても、著者の心は傷つき続けています。「焼却棟からは永遠に出られないのです」と著者は言っています。ただ、私たちは、「焼却棟の中からの言葉」を聞くことならできます。