人類で最初の音楽の「教師」は、囀る小鳥たちだったことでしょう。
【ただいま読書中】『蜜蜂と遠雷』恩田陸 著、 幻冬舎、2016年、1800円(税別)
「宇宙は数学の言葉で書かれている」はガリレオ・ガリレイですが、「世界は音符で描かれている」をモチーフとして描かれたのが本書です。舞台は架空の「芳ヶ江国際ピアノコンクール」(でも多分、浜松国際ピアノコンクールがモデル)。
“予習”としたわけではありませんが、5月21日に読書記録を書いた『チャイコフスキー・コンクール』(中村紘子)の審査員席の描写を思い出しながら本を開くと、まさにその審査(パリでの予選)のシーンから始まっていて、私は思わず笑ってしまいます。そして次々登場するのが「まったく正規の音楽教育を受けたことがない少年」「天才少女だったが、13歳の時にコンサートをドタキャンしていつの間にか20歳になった女性」「最後の挑戦、と年齢制限ぎりぎりの28歳で挑戦するサラリーマン」「“ジュリアードの隠し球”のほぼ完全無欠(に見える)好青年」……野生児の型破りの奔放さ、能力開発を中断された天才のあふれ出る音楽性、生活者の温かく優しい音楽、完全無欠のハイスペック……「オーディションの出場順も、実力のうち」という言葉が本書の18ページにありますが、ここでの「出場者」を紹介する順番も、著者は考えに考え抜いていることでしょう。
コンクールで問題にされるのは「演奏」ですが、どのピアニストにもそれぞれの「音楽を生きた過去」と「現在」があります。そしてそれが詳細に紹介されることで読者はそれぞれのピアニストの人生に感情移入し、そしてその思いを(実際に耳で聞く)演奏の代替品として使えるようになります。何しろ本書に登場するピアニストは「自分の人生」をそのままピアノに語らせるのですから、「個人の人生の物語を理解すること」が「その人の演奏を聴くこと」になってしまうのです。著者はとんでもない技巧を使っています。「音符で描かれている世界」をまず構築し、それからそれをそのまま「言葉」に翻訳してしまったのですから。そして、登場人物たちの感情の動きはほぼダイレクトに私の感情も動かしてしまいます。いやもう、笑わされたり心配させられたり泣かされたり、忙しいです。
もうこうなると、コンクールの優勝者が誰か、のスリルを味わうのは二の次になります。ピアノと人生によって紡がれる「音楽」そのものを鑑賞することに私は夢中になってしまうのです(同じ交響曲の第一楽章と第二楽章の優劣を論じても仕方ないでしょう? 両方必要なのです)。この「コンクール」が永遠に終わって欲しくない、と願いながら、私はページをめくり続けます。
そうそう、本書では“余談”になるかもしれませんが、「混血」に対して「ハイブリッド」が意図的に使われています。あちこちの重要な場所にいる人間が「ハイブリッド」なのですが、これは「世界中からコンテスタントが集まる国際コンクール」や「西洋音楽を東洋人がやることへの疑問」に対する、一つの回答としてのシンボル提示なのかもしれません。
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