かつて「政治が経済を完全に管理できる」と信じられていた時代がありました。計画経済とかケインズ理論とか。だけどそれが本当であるという実証はされたのでしたっけ? 少なくとも「失敗だった」という記憶なら私にはあります。もちろん独裁制度だったら、ある程度は国家による経済の管理が可能でしょう。しかし現代社会、民主主義と資本主義と情報の自由な流通が前提となって国境を越えて自由に金が動く世界では、もしかしたら政治の方が経済の奴隷にならざるを得ないのではないでしょうか。
【ただいま読書中】『レクサスとオリーブの木 ──グローバリゼーションの正体(上)』トーマス・フリードマン 著、 東江一紀・服部清美 訳、 草思社、2000年、1800円(税別)
著者はニューヨークタイムズでもっとも長命のコラム「世界の動き」の五代目コラムニストでした。世界中を旅した著者は「冷戦後の世界」を目撃して回ることになります。著者はその世界を動かす新しい“システム”を“グローバル化”と呼びます。
情報がグローバル化すると、すべての動きは速くなります。さらにユーザーは誰かに決めてもらうのではなくて自分で決定を下すようになり、それまでの中央集権的な経済システムではその動きの早さと気まぐれさにはついて行けなくなります。だから、共産主義・計画経済・コングロマリット企業が同じ時期に同じ種類の大きな問題を抱え込んでしまったのです。意志決定の民主化と、権力と情報の分散がその問題の解決に役立ちます。
そしてその結果は? 世界での経済政策に、大きな差がなくなってしまったのです。国ごとの違いどころか、政党ごとの違いも無くなってしまいました。著者はこれを「政治に対する市場の勝利」と呼びます。投資対象は驚くほど多様化します。ほとんどどんなものでも“債権”になって市場で売り出せるのです。そこで著者は不気味なことを言います。「何がどうなっているのかわかっていない人間が(素人だけではなくて)大手ファンドの経営者の中にもいる」と。本書出版後のリーマン・ショックの予言でしょうか。大した予言ではない、と後知恵では言えますけどね(日本のバブルの時も、これはいつか破裂する、という予言はけっこうありましたが、それがいつ起きるのかを正確に言った人はそれほどいなかったはずです)。
冷戦の終結は「共産主義国家vs資本主義国家」の構造を集結させました。そのかわりに登場したのが「自由市場民主主義国家vs自由市場泥棒政治国家」です。ここで「市場」を説明するのに「パソコンの比喩」が用いられますが、それが秀逸。「市場ハードウェア」「ソフトウェア(=民度や国力、法律や制度の整備)」「オペレーティング・システム(=国家の経済政策)」これがきちんと揃わないと「自由市場民主主義」が機能しない、と、非常にわかりやすい具体的な例(1990年代のアルバニアやロシア)が挙げられます。さらにここから重要な指摘がされます。「グローバル化」によって「国家」の重要性は減じない、と。国家を無視して自由に動き回る「電脳投資家集団」に対抗するために「市場のソフトウェアやオペレーティング・システム」を整備し機能させるのは国家だからです。ただし「国家の意味」は20世紀とは異なっています。20世紀に重要だったのは「国家の規模」でしたが、21世紀には「国家の質」が問われるのです。
「電脳投資家集団」は私有財産(の保持や移転の権利)を守るために、さまざまなグローバル化の圧力をかけます。「この条件が満たされた市場になら、安心して大量の投資をするよ。私は儲かる。あんたたちも儲かる。だけど……」と。その条件は、透明性・基準・汚職(本書では日本の政治家への便宜供与や官僚の接待がここで扱われています)・報道の自由・債券市場・民主化……そういった要求に耐えられない国もあります。そして、そういった改善度力をして「電脳投資家集団」を招き入れても、彼等は「市場独裁者」として傍若無人に振るまい、さらにはちょっとしたきっかけで彼等は暴走する集団(あるいはのしのし歩く怪獣)のようにあたりを荒しまくりながら逃走してしまうのです。残るのは、廃墟。それを予防するためには、市場システムのさらなる“バージョンアップ”しかありません。
10年前には私には本書はよく理解できませんでした。だけど今はとてもよくわかります。私がやっと本書に追いつけた、ということなのでしょう。なによりネットに常時接続するようになったのが個人的には大きいと感じます。
さて、グローバル化がどのようなものかは大体述べられました。では私たち(自分が育った環境や文化や習慣の産物)はそれに対してどうすればいいのでしょう。無条件降伏? それは下巻で述べられるのでしょうか。
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【ただいま読書中】『レクサスとオリーブの木 ──グローバリゼーションの正体(上)』トーマス・フリードマン 著、 東江一紀・服部清美 訳、 草思社、2000年、1800円(税別)
著者はニューヨークタイムズでもっとも長命のコラム「世界の動き」の五代目コラムニストでした。世界中を旅した著者は「冷戦後の世界」を目撃して回ることになります。著者はその世界を動かす新しい“システム”を“グローバル化”と呼びます。
情報がグローバル化すると、すべての動きは速くなります。さらにユーザーは誰かに決めてもらうのではなくて自分で決定を下すようになり、それまでの中央集権的な経済システムではその動きの早さと気まぐれさにはついて行けなくなります。だから、共産主義・計画経済・コングロマリット企業が同じ時期に同じ種類の大きな問題を抱え込んでしまったのです。意志決定の民主化と、権力と情報の分散がその問題の解決に役立ちます。
そしてその結果は? 世界での経済政策に、大きな差がなくなってしまったのです。国ごとの違いどころか、政党ごとの違いも無くなってしまいました。著者はこれを「政治に対する市場の勝利」と呼びます。投資対象は驚くほど多様化します。ほとんどどんなものでも“債権”になって市場で売り出せるのです。そこで著者は不気味なことを言います。「何がどうなっているのかわかっていない人間が(素人だけではなくて)大手ファンドの経営者の中にもいる」と。本書出版後のリーマン・ショックの予言でしょうか。大した予言ではない、と後知恵では言えますけどね(日本のバブルの時も、これはいつか破裂する、という予言はけっこうありましたが、それがいつ起きるのかを正確に言った人はそれほどいなかったはずです)。
冷戦の終結は「共産主義国家vs資本主義国家」の構造を集結させました。そのかわりに登場したのが「自由市場民主主義国家vs自由市場泥棒政治国家」です。ここで「市場」を説明するのに「パソコンの比喩」が用いられますが、それが秀逸。「市場ハードウェア」「ソフトウェア(=民度や国力、法律や制度の整備)」「オペレーティング・システム(=国家の経済政策)」これがきちんと揃わないと「自由市場民主主義」が機能しない、と、非常にわかりやすい具体的な例(1990年代のアルバニアやロシア)が挙げられます。さらにここから重要な指摘がされます。「グローバル化」によって「国家」の重要性は減じない、と。国家を無視して自由に動き回る「電脳投資家集団」に対抗するために「市場のソフトウェアやオペレーティング・システム」を整備し機能させるのは国家だからです。ただし「国家の意味」は20世紀とは異なっています。20世紀に重要だったのは「国家の規模」でしたが、21世紀には「国家の質」が問われるのです。
「電脳投資家集団」は私有財産(の保持や移転の権利)を守るために、さまざまなグローバル化の圧力をかけます。「この条件が満たされた市場になら、安心して大量の投資をするよ。私は儲かる。あんたたちも儲かる。だけど……」と。その条件は、透明性・基準・汚職(本書では日本の政治家への便宜供与や官僚の接待がここで扱われています)・報道の自由・債券市場・民主化……そういった要求に耐えられない国もあります。そして、そういった改善度力をして「電脳投資家集団」を招き入れても、彼等は「市場独裁者」として傍若無人に振るまい、さらにはちょっとしたきっかけで彼等は暴走する集団(あるいはのしのし歩く怪獣)のようにあたりを荒しまくりながら逃走してしまうのです。残るのは、廃墟。それを予防するためには、市場システムのさらなる“バージョンアップ”しかありません。
10年前には私には本書はよく理解できませんでした。だけど今はとてもよくわかります。私がやっと本書に追いつけた、ということなのでしょう。なによりネットに常時接続するようになったのが個人的には大きいと感じます。
さて、グローバル化がどのようなものかは大体述べられました。では私たち(自分が育った環境や文化や習慣の産物)はそれに対してどうすればいいのでしょう。無条件降伏? それは下巻で述べられるのでしょうか。
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