【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

親不孝者は好まれない

2019-05-28 07:16:23 | Weblog

 親の言うことに逆らうのは親不孝。すると、「セックスするぞ」と父親に言われたら、いそいそとパンツを脱いで大股を広げる娘が、親孝行者ということになります。日本の裁判官は、そういう「父親に抵抗しない」娘がお好みのようですが。

【ただいま読書中】『ノートル・ダム・ド・パリ(中)』ユゴー 著、 辻昶・松下和則 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1957年、120円

 ノートル・ダム寺院の高みからはパリがよく見えます。しかしその見方は「鳥の目」「神の目」「人間の目」によって様々。理性と信仰の人であるクロード・フロロと彼を養父と慕う鐘つき男のカジモドは、同じ場所から同じ「パリ」を見ても、見えるものは全く違います。もっともカジモドは音が聞こえず片目は潰れているので、彼がどんな風に「世界」を認識しているのかは想像するしかありませんが。
 古代から中世に「自由思想」を文字にするのは身の危険があったから、それらは「建築物」として表現された、という不思議な考察が突然登場します。そして「印刷」が登場することによって思想は「普及」という武器を手に入れ、破壊しづらいものになった、とも。本書は思索小説になっちゃいました?
 遊女を襲い憲兵に抵抗した罪でカジモドは裁判にかけられます。まるで茶番の裁判で、裁判官が徹底的な風刺の対象となっていますが、ともかくカジモドは鞭打ちと晒し刑の判決を受けてしまいます。さあ、パリの民衆には「お楽しみ」の始まりです。この頃には死刑でさえ皆が集まって楽しむ娯楽でしたからね。鞭の痛みとさらし者になった屈辱、拘束されたまま炎天下でからからになっていくのど。おいおい、これはイエス・キリストの磔刑の再現か? カジモドは“救世主"を求めます。驢馬に乗ったクロード・フロロ猊下が登場しましたが、カジモドに近づいたところで気後れしたのかさっさと退場。その代わりに登場したのが、聖母マリア、じゃなかった、エスメラルダです。カジモドが襲った女性が、ひょうたんの水をカジモドに与えます。エスメラルダは「他人の苦痛」を放置できないタイプのようです。しかし「ジプシーの娘」というだけで、彼女は嘲られます。
 ノートル・ダム寺院の高みから、クロード・フロロはじっと眼下を見つめています。彼が見ているのは「パリ」ではありません。広場で踊るジプシーの踊り子です。彼は「神の目」ではなくて「人間の目」それも「欲望の目」を使っているのです。そしてクロードは石壁に「宿命」というギリシャ語を彫ります。
 広場で踊るエスメラルダが目障りな人たちは、彼女の踊りは魔術だから彼女は魔女だ。彼女が連れている山羊がおこなう大道芸は魔術だから彼女は魔女だ。だから彼女には死刑がふさわしい、と考えます。クロードはその情報を得て考え込みます。
 エスメラルダは憲兵のフェビュス隊長にぞっこんです。フェビュスもエスメラルダを憎からず思っていますが、彼は浮気者で他にも女がいます。そしてクロードは二人の逢い引きの部屋に潜り込んでしまいます。一体何を考えているんだ? 聖職者でしょ? そして、エスメラルダの眼前でフェビュスは短剣で刺されてしまいます。
 そしてまた裁判(あるいは茶番)が始まります。被告として引っ張り出されたのは、エスメラルダと彼女の山羊。山羊はさっさと“白状"しますが、白状しないエスメラルダは拷問にかけられ、すらすらと「自白」してしまいます。さて、これで「有罪」が確定しました。死刑前夜、牢獄を訪れた僧の顔を見てエスメラルダは驚きます。ずっと広場で自分をつけ回し、フェビュスとの逢い引きの部屋に乱入してきた僧ではありませんか。彼(クロード)はエスメラルダに告白します。自分の恋心を。自分の苦しさを。自分の行為の正しさを。そして、自分のものになるのなら牢獄から救い出してやる、という提案と、自分をお前は憐れむべきだという要求も。
 悪質なストーカーですね。中世にもストーカーがいたんだ。
 死刑執行に向かっていく行列。そこにロープを巧みに使ったカジモドが乱入してエスメラルダを奪い取り、ノートル・ダム寺院に飛び込むと「避難所だぞ」と叫びます。群集も「避難所だ!避難所だ!」と喜んで叫びます。普段とは違う娯楽を見ることができて、大喜びなのです。当時のノートル・ダムの大伽藍は、一種の治外法権で、司直の手は及ばない領域とされていました。江戸時代の町奉行は寺院には入れなかったのと、発想がちょっと似ているかな。キリスト教世界では「俗」は「聖」を侵してはならないのでしょう。しかしこの救出劇のシーンはわずか数行ですが、まるでアクション映画のように頭の中に「映像」がむくむくと立ち上がります。著者は「小説の展覧会」だけではなくて「映画」も本書に取り入れているようです。
 自然界の最下層の男が、社会的に最下層の女(それも死刑囚)を公然と聖域にかくまう。これって、「上の人」には耐えられないことでしょうね。
 そうそう、エスメラルダは茫然としていますが、もう少ししたら、死刑から救われたことの喜びと同時に“ここ"がストーカーのクロードの“領域"でもあることに気づいてまた混乱するはずです。
 蛇足ですが、本書の中ほどで「エスメラルダ」が「スメラルダ」になっている部分が数カ所あります。単なる誤植か、ふたりの翻訳者の連絡不足か、原文がそうなっているのか……




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