【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

科学と宗教

2021-08-20 07:03:05 | Weblog

 「宗教と科学は両立するのか?」(ひとりの人間が、敬虔な信者であると同時に優秀な科学者であることが、できるのか?)という問いがよく出されますが、私は両立すると考えています。たとえば十八世紀ころの「科学者」はほとんどが敬虔な信者でもあり、「神がつくった世界の意味を、聖書を丸ごと信じるのではなくて、自分の力で解明しよう」と努力していました。オウム真理教も悪い意味で両立していた、と言えます。宗教者にも科学者にも「良い人間」も「悪い人間」も存在しているし、「悪い人間」と「悪い人間」が揃ってしまうこともあるのでしょう。

【ただいま読書中】『科学化する仏教 ──瞑想と心身の近現代』碧海寿広 著、 KADOKAWA(角川選書640)、2020年、1700円(税別)

 人は「無意味」に耐えられません。「自分の人生は無意味だ」とか「この世界は無意味だ」とかは、嫌でしょ? そこでそこに「意味」を求めます。その意味が「神」によって与えられるのが、宗教。自分で探求するのが、科学。
 宗教の中でも仏教は特に「心の解明」に努めてきた点が特徴的です。ただし仏教での「心」は「自分の心」であって、科学の分野での「心理学」が「人間の心(の基本構造)」を解明しようとしたのとは違う立場です。しかし、明治時代に心理学が西洋から輸入されると、それを取り込んでの「仏教心理学」が井上円了によって提唱されました(ちなみに井上円了は妖怪学でも知られていますが、それはほとんど心理学的に展開されています)。ただあくまで「心」にだけ注目する円了は、座禅でも「心」の分析だけを行いました(これは後に座禅を実践する仏教者が「心身」を対象として考察したのとは異なっています)。まあ、真宗大谷派では「信心」が最重要ですから、「身体」を軽視するのも当然とは言えますが。また、禅での悟りとキリスト教の見神とを関連づけた議論も行われていますが、これは純粋なキリスト教徒からは拒絶反応が出るでしょうね。
 明治後期に催眠術が日本では大ブームとなりましたが、これもまた宗教と心理学の狭間に位置していました。特に真言密教は催眠術と相性が良かったようです。ところが明治天皇の崩御にあたって、天皇存命を祈る密教の祈祷がまったく無効であったことにより「祈祷なんか意味がないのでは?」という疑問が出現し、真言密教は衝撃を受けました。
 明治の末頃さまざまな「健康法」がブームとなりますが、これは医学とともに宗教も巻き込んでいきます。真言密教は「即身成仏」を唱えますが、その思想を健康法に持ち込む僧侶もいました。浄土真宗では「内観療法」(隔離された環境で自己内省を深める心理療法)が唱えられました。医学の方からも「内観」と似た両方も登場しました。「森田療法」です。こちらには禅の影響も見られるそうです。
 禅(の悟り)を科学的に研究する動きもありました。その中には「インスタント禅」としてLSDを用いるものもあります。これはさすがにインスタントすぎると私は思いますが、「結果が同じならその経過がショートカットできるのならした方が良い」という発想なのでしょうね。禅の悟りについて禅僧たちは多くを語ってきませんでしたが、近代になると人々は饒舌になります。その代表が鈴木大拙です。
 1970年代〜世紀末にかけて、ニューサイエンス(ニューエイジサイエンス)が流行しました。近代科学を批判し、仏教をはじめとする東洋思想や神秘主義を科学に持ち込もうとしていました。そういえばあの頃西洋では「タオ」も人気でしたね。これは「科学者の宗教熱」とも言えますが、それに呼応した宗教者の代表がダライ・ラマでした。ただ、日本ではニューサイエンスはオカルトとして消費されてしまいましたが。
 そして現在世界的なブームとなっているのが「マインドフルネス(瞑想)」。これは仏教における瞑想の新たな世界的展開で、人々の精神世界を豊かにする効果もあるでしょうし、資本主義的に「マーケットの拡大」ももたらすでしょう。そして、その動きはこんどは仏教に影響をもたらすはずです。

 



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