【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

ラテ

2012-05-26 18:59:51 | Weblog

 私はこれまでにカフェという存在にあまり縁がなかったのですが、この前アイスカフェラテを注文して、どう飲もうかと迷いました。上にフォームミルクがトッピングされていたのですが、これを最初からがしゃがしゃ混ぜるのはお行儀が悪く感じるし、でも混ぜずに素直にストローで吸うと、フォームミルクだけが氷の上に残ってしまう。
 こんなことで迷うのは、田舎者の証拠ですね。正真正銘の田舎者だから、別に良いんですけど。

【ただいま読書中】『スターリンと原爆(上)』デーヴィド・ホロウェイ 著、 川上洸・松本幸重 訳、 大月書店、1997年、3500円(税別)

 本書で取り上げられるのは「ソ連の核開発」ですが、3つのテーマ(核開発/科学と政治/国際関係)が結合しています。それは、資料が少ないため多角的な(一つの資料を別の視点からも眺める)使い方が有用であることと、この3つのテーマは密接に関係していること、によります。
 まず登場するのは、アブラーム・ヨーッフェというユダヤ人科学者です。彼はツァーリの専制には反対していましたが、ポルシェビキには警戒心を抱いていました。それでも革命が勃発するとそれに参加し、1921年に国立物理工学X線研究所の立ち上げを指導します。ヨーッフェは人材育成に力を入れました(1916年彼の研究室で開かれていたセミナーでは、11名の参加者中2人のノーベル賞受賞者が出ています)。資本主義国家に追いつけ追い越せ、のソ連では科学はそのための重要な手段でした。ただ、私に言わせればそれは本来は「技術」の仕事です。その区別がきちんと国家としてされなかったことが「科学者」の悲劇を多くもたらしたのではないか、というのが私の推測です(今の日本でも科学と技術の区別がきちんとできない人は多いのですけどね)。さらにイデオロギーの影響もありますが、生物学でルィーセンコが行なったような破壊的な影響は物理学にはありませんでした。
 資本主義国家でどんどん進歩する核研究に、ソ連の科学者も追随しあわよくば凌駕しようとします。しかし最初のサイクロトンがきちんと稼動するようになったのは1940年末のことでした。そこで重要な働きを果たしたのはラジウム研究所です。ウクライナ物理工学研究所(UFTI)も高度な研究をしていましたが、内紛が起き、さらに大粛清で主だった所員はほとんど逮捕・粛清されてしまいました。スターリンは自分の国を弱くすることに、ずいぶん熱心だったようです。さらに党の委員会は「核物理など無用の研究」と主張し、科学者たちはそういった“批判”に対して身を守る必要がありました。
 1934年エンリコ・フェルミたちはウランなどに中性子をぶつける研究を開始。その結果は超ウラン元素の生成、と考えました。しかし1938年にハーンとシュトラスマンは“それ”は「核分裂」であると主張します。39年には核分裂に関する論文は100編以上発表されました。ボーアは分裂するのはウラン235であると仮説を立てます。ウラン235は天然ウラン中に0.7%しか存在しないため、それを濃縮するためには国家的な努力が必要だと予想されました。そして、戦争が。
 核分裂のエネルギーを利用することは、多くの科学者たちにとっては遠い将来の夢でした。そのための基礎研究をこつこつとやっていこう、と。そもそもウランを大量に入手することさえ困難なのですから。それでも「核爆弾」の可能性を考える人は各国にいました。その結果は「論文発表の自主規制」でした。ただし、ソ連には「論文発表の自由」がありました。「ナチス(の原爆開発)の脅威」は非現実的、と考えられていたのです。
 ソ連には(というか、全世界に)濃縮ウランも重水もほとんどありませんでした。よほど大金と人材と資材を投入しなければ、核分裂を原理から現実にすることは不可能です。しかしソ連内部では、各研究所の間には競争や足の引っ張り合いが。
 ドイツは大陸の支配権を握り、赤軍はフィンランド軍を相手に苦戦します。そして、核分裂に関する論文はどんどん発表されなくなっていきました。ソ連科学者たちも、世界で実際に何が起きているのか、うすうす感じます。アメリカでは確実に、ドイツでもほぼ確実に核爆弾開発研究が行なわれているだろう、と。そして独ソ戦の開始。科学者たちは完全に戦時研究体制に入ります。
 イギリスは戦争の帰趨に深刻な危機感を抱きます。「モード委員会」は1941年7月に「ウラン爆弾の製造は可能」という秘密報告を提出しますが、それは米国のマンハッタン計画の後押しをしただけではなくて、ソ連の研究にも大きな影響を与えました。さらに在英のエージェントからドイツの核計画の情報も入ってきます。スターリンは原爆開発計画に同意します。いつ形になるかは不明ですが、何もしないでいることの方が悪い結果をもたらすだろう、と。なかなか材料が揃わないためか、ソ連政府は1943年1月にアメリカ政府に「金属ウラン(10kg)と酸化ウラン・硝酸ウラン(それぞれ100kg)の提供」を要請し、承認されました(金属ウランは結局提供されませんでしたが)。11月には重水1000グラムも提供されています。
 ソ連の科学者だけではなくて政治家たちにとっても「原爆」は「遠い世界(または未来)の話」でした。ヒロシマが彼らに強い衝撃を与えます。原爆は、軍事だけではなくて外交でも「武器」になったのです。それまでの半ば無関心から、スターリンは原爆製造を最重要課題と位置づけ、腹心のべーリヤに開発計画を担当させます。それは担当者には、嬉しいことではあると同時に、恐怖でもありました。スターリンもべーリヤも人を殺すことに関しては“効率的”でしたから。新しい技術開発は“すべて”国防のための軍事計画に注ぎ込まれます。特に、原爆・レーダー・ロケット・ジェット推進が重視されました。活用されたのは、ドイツからの戦利品とアメリカからの(スパイによってもたらされる)情報。ソ連生まれの独自技術は、それが西欧で高い評価を得たら導入されました。
 1946年にアメリカが保有する原爆は9発だけで、しかもそれを使う気はありませんでした。それでも「原爆」は「象徴」として機能し、各国はその“周囲”で踊ることになります。



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