ある種の思想家にとって「戦争」は「問題解決の一手法」でしかなく、ある種の政治家や官僚にとって「戦争」は「公共事業の一つ」でしかないようです。
【ただいま読書中】『敗者の日本史(1)大化改新と蘇我氏』遠山美男 著、 吉川弘文館、2013年、2600円(税別)
『日本書紀』で「乙巳の変」は、皇極天皇四年(645)大極殿で行われた三韓進調の儀式で、蘇我入鹿が中大兄皇子や中臣鎌足らに殺され、翌日入鹿の父蘇我蝦夷も討たれ、皇極天皇は退位・(蘇我家が支援していた)古人大兄皇子は出家、軽皇子(孝徳天皇)が即位、と描かれています。“成敗”の理由は「蘇我家が天皇家に取って代わろうとしたこと」。
日本書紀の文章は精密に解析され、文法や用語選択の特徴から、「日本に帰化した中国人」が書いた部分と「日本人」が書いた部分とに二分されるそうです。ところが「乙巳の変」の部分の記述には、「日本に帰化した中国人」が書いた後で「日本人」が手を加えた(改竄した?)部分があるのです。特に「蘇我氏を滅ぼした理由」のところ。ということは『日本書紀』が書かれたときには、“成敗”に別の理由が挙げられていたはずなのです。それは何?
そうそう、ついでですが、飛鳥板蓋宮には645年には大極殿(に相当する建物)は存在していないそうです。ここも“フィクション”なんですね。
蘇我氏は、群を抜いて有力な豪族でした。外交や公共事業は、蘇我氏抜きでは成り立たなかったのです。しかし蘇我馬子の死後、事情は少しずつ変化し始めます。本書では(聖徳太子の息子)山背大兄王一族を滅ぼす命令は皇極天皇から蘇我入鹿に与えられた、とされています。ところが山背大兄王一族には蘇我氏の血が濃厚に流れています。そのため、この事件後に蘇我氏には深刻な内部分裂の芽が育った、と著者は言うのです。実際に入鹿の父蝦夷は入鹿を強く非難したそうです。
大化の改新では、(土地の管理や税制、墳墓の建築などに関して)様々な革新的な新政策が発布されました。ところが著者が調べると、それらはすでに蘇我氏がプランを立てていたり、すでに実行されていたものだったのだそうです。
本書を読んだ私の印象では「大化の改新」は「新しく出現した“官僚”」と即位を望む軽皇子が組むことによって起きたクーデターで、蘇我氏は「打倒されるべき旧勢力の代表」として槍玉に挙がっただけのようです。蘇我氏はたまたま「悪い場所」にいたわけ。だからこそ、蘇我氏が滅亡したあとに「なぜ蘇我氏が討たれなければならなかったか」の「大義名分」が新たに必要になったのでしょう。
こうやって精密な解析にかけられてしまうと、「歴史の真実」ってなんだろう、なんてことも思ってしまいます。権力者が「秘密」が好きになるわけだな。