【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

混同しやすいもの

2014-03-07 06:59:17 | Weblog

 容姿と性格、人格と行動、作品と作者。
 それぞれ“独立”した存在なんですけどね。
 そうそう、「他人による自分の評価」と「自己評価」も、簡単に混ぜない方が良いですよね。

【ただいま読書中】『慶喜のカリスマ』野口武彦 著、 講談社、2013年、2500円(税別)

 慶喜が水戸家から一橋家の養子に入った頃、後継者不足という内憂が幕府を襲っていました。宗家・尾張・紀伊さらには御三卿は後継者に恵まれていなかったのです。慶喜には“チャンス”です。しかし一橋家は「譜代の家臣がいない(家の諸職はすべて幕府の任免)」という弱点を抱えていました。
 13代将軍家定の健康は優れず、“次期将軍”として「慶喜待望論」が出ます。本人はその地位に色気は見せますが、尻込みをします。尊皇攘夷が吹き荒れる中、島津久光が江戸に上り、強引に慶喜を将軍後見職につけます。そして帰国途中に生麦事件。
 将軍家茂と慶喜は京都で“人質”となり、その間に生麦事件の賠償金交渉が進み、支払期日が迫ります。朝廷に“約束”した「攘夷実行の期日」も迫ります。東帰を許された慶喜は、まるでその期日に間に合いたくないかのように異常にゆるゆると江戸を目指します。
 馬関と薩摩で“攘夷戦争”が現実化します。薩摩と長州は「戦場のリアリズム」の洗礼を受け、藩の世論は変化します。しかし京都では頑なに「攘夷の決行」を望む空気でした。幕府では朝廷からのプレッシャーに負けて苦し紛れに「横浜鎖港」を言い出します。
 「公武合体」と言うが、実際には公の誰と武の誰が合体する気だったのか誰も気にしていなかった、と著者は述べています。たしかに「公」も「武」もそれぞれ一枚岩ではありませんでしたからねえ。「公」の孝明天皇など完全に孤立していたフシがありますし、幕府も人気がある慶喜に警戒をしていました。著者はそういった権力の“狭間”に、公とも武とも違う勢力として慶喜が位置した、と考えています。内外の政治状況を見るとなかなか良い位置取りです。惜しむらくは絶対的な“手兵”不足。これでは権力はつかめません。「力」抜きの「権力」はあり得ないのですから。
 池田屋事件で長州藩は強硬派が主導権を握り軍を上京させます。口実は会津の松平容保の討伐。苦戦していた会津藩兵を救援したのが薩摩藩。この戦いで非常に目立った武者が、禁裏御門守衛総督の慶喜でした。自信に満ちあふれ押し出しが立派で勇気凜々と采配をふるいます。得意の絶頂です。
 しかしその足を引っ張ったのが“身内”の水戸藩でした。安政の大地震で藤田東湖を失った水戸藩では、大局観を欠いた直情径行タイプが力を持ち、ついに「天狗党」事件です。京は天狗党と長州藩の“挟み撃ち”の恰好になってしまいます。英仏蘭米の連合艦隊が下関を襲い、完膚なきまでに負けた長州では攘夷派は口をつぐみます。しかし、転んでもただでは起きません。下関条約で、下関の自由貿易港化と330万ドルの非常識に巨大な賠償金(生麦事件でも44万ドルでした)を約束しますが、そのツケを幕府に回したのです。四箇国はどこから金が出ても良いわけですから、幕府と交渉します。幕府と朝廷の命令による攘夷だろ?払わないなら朝廷に話を持っていくぞ、朝廷の方が日本の主権者のようだからな、と。ちなみに330万ドルは今のレートで700億円以上だそうです。
 薩摩も長州も手荒く「現実」と向き合わされました。一番「現実」から遠かったのは、幕府だったようです。相も変わらずの内部での権力闘争に明け暮れる毎日です。そして、長州戦争。そんなことやってる場合ですか? それをどうしてもやるというのなら、すぱっときちんとやらなきゃ駄目でしょう。結局長州の処分は生煮え状態。これは慶喜の本意では無かったようです。そのかわりのように、天狗党は冷酷に処分されます。さらに四箇国の兵庫開港要求があり、「攘夷の仮面」がずれ始めます。「どこの港を開くか(=どこが利益を得るか)」の経済戦争が始まったのです。
 第二次長州戦争も「しなければ良かった」戦争でした。そして将軍の死。「戦後」と「(将軍の)死後」の二つの「後」が政治を動かします。慶喜は、徳川宗家は継ぐが将軍にはならない、などと言い出します。さらに長州戦線での不利が伝えられると、舞い上がっていた慶喜は手のひらを返したようにしょぼんとします。
 慶喜は「新しい権力体制」を模索していたようです。しかし、外患と内憂、手駒不足、さらには自分の性格にまで裏切られてしまったようです。慶喜が目指したのは、フランス公使ロッシュに教わった「ナポレオン3世」のやり方だったそうですが、そのためには障害が多すぎました。
 そして本書の山場(の一つ)「大政奉還」。慶喜が在京諸藩の重役にその通告をした場に奥右筆として西周がいた、と書かれると、妙に場面がリアルに見えてきます。その西周に慶喜はイギリスの議院制度について詳しい質問をしています。しかし慶喜の思惑とは別に「権力の座」はラグビーボールのように高く蹴り上げられ、その「争奪戦」が始まったのでした。
 なにかと評判の悪い最後の徳川将軍ですが、著者はどちらかというと「好意(少なくとも同情)」を持ってこの人を見ているようです。せっかくの資質を育てることに失敗し、それでもある程度の能力を見せるようになった人を活用しようとしたら「天地人」の条件があまりに悪すぎた。相談しようとした人は次々殺される。仕方なく本人が選択したらやたらと裏目に出る。正しい判断をしたときには回りが従わないし従わせる術を慶喜が持たない。これはもう、ため息をつくしかありません。
 ただ、単なる妄想ですが、他の人が将軍だったら日本はどうなっていたでしょう。もしかしたら第2のアヘン戦争で占領され、今頃「独立戦争」を戦っていたかもしれません。