【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

みーんな悩んで大きくなった

2014-03-02 07:14:07 | Weblog

 プラトンから見たら、師匠のソクラテスが「自殺しろ」という「国家の命令」に慫慂と従ったことは納得がいかなかったことでしょう。だって「明らかにソクラテスは間違っていない」のですから。だけど国は「権力」で個人を押しつぶすわけ。だけどだけど「国」ってそういった「個人の集合体」です。だったら「国」と「個人」の「理想的な関係」って、何でしょう?

【ただいま読書中】『国家(上) ──正義について』プラトン 著、 藤沢令夫 訳、 岩波書店(ワイド版岩波文庫205)、2002年、1400円(税別)

 まずはソクラテスが登場。一人称で「ぼく」と言われるとなんだか違和感がありますが。ソクラテスと対話する老年にさしかかった人が「加齢によって欲望が減ずる状態」を「暴君から解放される状態」とたとえます。早速“本題”が始まっているようです。
 「正義」とは何か、のレトリックがまず展開されます。「友には利益を、敵には害を」からは「人を害すること自体が悪である」、「正しいこととは強い者の利益」からは「不正の方が正義より得になる」という結論が導き出されます。プラトンが対話編でお得意としている、「相手の主張をひたすら認め続けながら、ちょっと視点をずらしてその論拠の齟齬をつくことで(それも相手に質問をすることで相手の口から)最初の主張とはまったく逆の結論を導き出す」テクニックばりばりです。プラトンによって設定されたソクラテスのお相手が、だんだん気の毒になってきます。絶対に正しいと信じていた自分の主張そのものによって自分自身が裏切られてしまうのですから。
 たとえとして「医者」「船長」がよく登場します。私に違和感があるのはそれらの人の「職業としての機能」と「徳性」とが不可分のものとしてごく自然に語られていることです。医者の場合は医の倫理で処理できそうですが、羊飼いとか音楽家の「徳」って、何でしょう?
 さて、考え込んでしまう私を放置して、議論は進んでいます。どうも古代ギリシアでは「正しいことを為す」よりも「不正を為す」方が得をする、というのが一般見解のようです。さらに「支配者は不正を為すことがある」という主張がさらりと混ぜられます。また「正しい人間であること」と「正しい人間であると回りに思われること」も峻別されます。
 私個人としては「たとえ偽善であっても、悪を為さず善を為していれば、(内面はともかく)社会の中では『善人』として扱って良い」と思っているのですが。もちろん「神の視点」からは偽善者と善人は「別の存在」なのでしょうが、「神の視点」は「神」に任せておけば良いのになあ、なんてことを思うのです。人は「人の視点」でものを見るしかないのですから。もしかして「哲学者」って、「神の視点」から世の中を眺めようと努力している人のことですか?
 「個人レベルの正義」について論じる前に、なぜか「国家レベルの正義」についての考察が始まります。まずは「なぜ国家が形成されたか」から。生存に有利、分業をしたら効率的……思考実験の中で国家は少しずつ大きくなります。商業が発達、貿易も始まります。そして、戦争も。プラトンが現在構築中の「国家」は「専門職の集団」です。すると、戦争をするためには「戦争の専門家」も必要です。その専門家に必要なのは「敵には粗暴」「味方には穏和」「敵と味方を見分ける知力」。この知力の話から「若者の教育」へと話は滑ります。ただ、ここには「国家の守護者の教育論」という「個別論」と同時に「教育に関する一般論」が貼り付けられています。また「守護者」という言葉で「兵士」と「支配者」がくくられています。
 こうした個別論と一般論の往復や一つの言葉で二つの概念を示すやり方を見ている内に、読者は知らないうちにプラトンの“罠”にしっかりはまり込むことになります。
 ともかく、「国家の守護者」の教育で重要なのは、音楽・文芸、ついで体育。その結果、無私で質実剛健な「守護者」が誕生します。その守護者が守るべき「国家」には三つの徳「節制」「勇気」「知恵」があります。では「正義」は?
 ここで意外な展開が。「男女平等」と「妻女と子供の国有化」です。さらに「アテナイ」とか「スパルタ」を「国家」とするのではなくて「ギリシア」を「国」とみなす(おそらく当時としてはラジカルな)考え方が登場するのです。さらに「哲学者」が「王」であるべきだ、という主張も。
 おいおい、と私はつぶやきますが、話は容赦なく下巻に続きます。