適正速度 - ミューズの日記
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<あれも聴きたい、これも聴きたい> 適正速度

 ある時、夜遅く高速道路を走っていて、ふと助手席側の窓から路肩あたりを見ると、「あ!いつもよりスピードが出すぎかな?」と感じた。しかしその時スピードメーターを見ると、時速はほぼ100キロであった。自分が瞬間的に危険を感じたスピードが、実は適正なスピードであったのだ。
 そのような感覚をもったのはその時だけで、すぐに以前のような感覚に戻ったので、やれやれといった感じなのだが、人間いつかは、あらゆることに対する自分のそれまでのスピードについて行けなくなる日が必ず来るようだ。というよりも自分にとって、何をするにしても適正と感じる速さが少しづつ遅くなってくるのは致し方ないことであろう。

若いころは車の運転も随分無茶なことをやったものだが、今ではスピード自体、あまり出さなくなってきた。というよりもやはり自分にとって、道路の状況に合わせての適正スピードが随分遅くなってきているといった方が正しい。最近は、車の間をぬう様に走らせることもなくなってきた。結果的に安全運転になって良いとは思うのだが、むしろ自分としては、緊急に対処しなければならない状況に陥った時に、若い頃のような咄嗟の判断とか動作といったものに自信がもてなくなったと言った方があたっているような気がする。(若いと必ずしも咄嗟の時に正しく判断し、車を操作できるとは限らないけども)
それにしても自分にとって車の適正速度が随分遅くなっているのは確かなようだ。
テレビ番組を見ていてもそんなことが感じられる。最近のバラエティ番組などは、つぎからつぎへ移って行く目まぐるしい画面の変化についていけず、「今何が面白かったんだろう?」と考えているうちにどんどん先へ進んでしまい、若い人が感じているほどは「面白い」と感じることができないまま番組は終わってしまう。いきおい、「最近のテレビは見るものがない!」と思ってしまうのだけれど、若い人たちにとってはきっとそんなことはないのであろう。

音楽の場合も、ひょっとしたらそんなことがあてはまるかもしれない。若い頃は颯爽とスピード感あふれる演奏をしていた演奏家も、年とともに段々と地に根を下ろしたようなというか、しっかりと落ち着いた演奏になってくることが多い。具体的には演奏するスピードがどんどん遅くなり、同じ曲の場合、演奏時間がどんどん長くなっていくケースが多いようだ。かの有名な指揮者カラヤンも、晩年はどの曲もかなり演奏時間が長くなっていたようだし、バーンスタインですら晩年に録音したドヴォルザークの「新世界より」などは、止まるのではないかとひやひやしてしまうほど、演奏スピードが遅い。その遅さたるや尋常ではなく、聴いていていらいらするほどで、私などは最後まで聴きとおすことができないほどであった。若い頃にあの躍動感あふれる「ウェストサイドストーリー」を作曲したバーンスタインがである。

音楽も含め芸術は「何でもあり」とは思うのだけれども、それにしても自ずと限度があるのではないか。聴衆をいらいらさせるために書かれた曲であればいざしらず、聴衆が聴いておれないくらいの演奏ではいかがなものであろう。
ソリストの場合は年齢とともにテクニックが衰えることにより、早く弾こうにも早く弾くことができなくなるのか、それとも段々と自分にとってのその音楽の適正と感じる速さが遅くなってくるため、自然と演奏時間が長くなってしまうのか、どちらなんだろうと考えてしまう。
グレン・グールドやヴァレリー・アファナシェフのように、時として常識はずれと思われるようなスピードで演奏する人もいるにはいるが、それでも音楽にはおのずと演奏される時のスピードには上下にある程度限界があって、弾かれるべきおおよその速さというのはある幅の中に入ってくるような気がする。
殆んどの演奏家は(自分では楽器を演奏しない指揮者も含めて)、年齢とともに少しづつ演奏スピードが落ちているように感じるのだが、それでもしっかりと検証したわけではないのではっきりしたことは言えないが、私の知る限りヴァイオリンのハイフェッツやピアノのルビンシュテインなどは引退までほとんど演奏スピードは落ちていないように思う。

そういった演奏家の演奏を聴いていると、「音楽はある程度演奏されるべき適切なスピードというものがあって、それがかなえられなくなった時に自分は引退する」と言っているようにも感じられるが、反対に評論家が言うように「老境に入ってますます充実した重厚な芸術」を表現している演奏も存在するような気もする。しかし、どう贔屓目に見ても「こりゃぁ遅すぎ、粘り過ぎ」と感じられる演奏も多く存在することは確かである。しかも、どんどん癖のある不必要な表現をして、その挙句、くどくて、あくどい演奏になっている人もいる。(年寄りは、往々にしてくどくなるものだけれど)
ひょっとしたら、一流の演奏家も若いうちは巨匠と言われる人たちを目指したのかもしれないが、晩年自分が巨匠と呼ばれるようになると、「若いやつらと同じことは出来ない」という脅迫観念みたいな気持ちが働いてしまうのかと考えてしまうほど、おかしな表現を聴かされることがある。

私としては、演奏家にはあまり老け込んでもらいたくないので、やはりいつまでも溌剌とした曲は溌剌と弾いてもらいたいし、あまり作曲家よりも演奏家の方が前へ出すぎるといった演奏も好みではない。はっきりと作曲家の意図が汲み取れて、その上でその演奏家の個性がどこかできらりと光るほどの演奏が良いと思うのだが。
もっともこれは人それぞれであって、そうあらねばならないと言い切るほどの自信は、私にはまだない。
内生蔵 幹(うちうぞう みき)


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