年頭の公約(目標)の通り、着々と正法眼蔵の通読は進んでおります。
読んでいるのは、「現代語訳 正法眼蔵全六巻 玉城康四郎著 大蔵出版」です。
私の先生も、正法眼蔵の現代語訳には本書を薦めていらっしゃいました。
昨日は第一巻中の「礼拝得髄」巻まで読みました。
2ヶ月に一冊のペースだったら、全六巻を一年で完読できるでしょう。
さて、表題の「全宇宙を浄めるということ」、
今日は「正法眼蔵 洗浄巻」の中の文章を引用しながら、みなさんと一緒に考えたいと思います。
道元禅師はこの洗浄巻において、長爪、長髪の戒めと、大小便の作法を述べています。
例えば・手拭の使い方・衣の脱ぎ方、たたみ方・厠における僧同士の挨拶の仕方・手を洗うための桶の用い方・厠の扉の前の作法・厠の中での用便の仕方・用便を終わった後、竹の箆や紙による洗浄の作法等などについて、際限なく事細かに述べています。
ここまで細かいと大雑把な私(O型)なんかは、正直たじろいでしまいます・・・。ホント半端じゃないです。
ですがそこには、行住坐臥において一分の隙もない仏作仏行の徹底をすすめた、道元禅師の弁道に対する態度があらわれていると言えます。
また、洗浄巻において何よりも大事なのは、悟りの世界から「洗浄」すなわち身を浄めるということの実践に「全宇宙を浄める」はたらきを洞察した道元禅師の宇宙観が述べられているということです。
以下抜粋引用
身心これ不染汚なれども、浄身の法あり。ただ身心をきよむるのみにあらず、国土・樹下をもきよむるなり。国土いまだかつて塵穢あらざれども、きよむるは諸仏之所護念なり。仏果にいたりてなほ退せず、廃せざるなり。その宗旨、はかりつくすべきことかたし。作法これ宗旨なり、得道これ作法なり。
<訳>
身も心も、もともと汚染されてはいないけれども、身を浄め、心を浄める決まりがある。ただ身心を浄めるだけではなく、国土を浄め、樹下を浄めるのである。国土は、いまだかつて汚れたことはないけれども、それにも拘らず、浄めることが諸仏の護念したもう所である。仏の位に達しても、なお怠らず、やめることはないのである。その本意はとうてい測り尽くすことはできない。そうした浄めるという作法が本旨なのであり、いいかえれば得道がすなわち作法なのである。
(現代語訳 正法眼蔵 玉城康四郎 大蔵出版より)
私の言葉で再度意訳的に解釈すれば、
身心は、空・縁起の立場から全宇宙的に見れば、汚れてはいない。
だけれども、それでもなおかつ身心を浄める決まりがある。
この身心を浄めるということは、国土を浄め、菩提樹下を浄めることである。
国土もまたいまだかつて汚れたことはないけれども、それにもかかわらず、国土を浄めることが諸仏の護念してこられた所である。
仏の位に達しても浄めることを怠ってやめることはないのである。
その本意を測り尽くすことはできない。
そうした浄めるという作法が本旨であり、いいかえれば「覚り」がこの作法そのものである。
となります。(これでは玉城先生の現代語訳とあんまり変わりませんね・・・
)
気を取り直して再吟味!
全宇宙的な覚りの世界から見れば、この宇宙、この世界は「不垢不浄」です。
いまだかつて身心も国土も汚れてはいないし、また、浄らかでもないわけです。
だが、それでも、諸仏から伝わった洗浄の作法があります。
この作法を行ずることが、国土を浄めることであるのです。
諸仏から伝わった洗浄の作法を行ずることは、わが身を浄めることにとどまらない。
それはすなわち国土、全宇宙を浄めることである!
もとより、ここで述べられている「浄める」とは、分別知の言う「浄・不浄」を超えたものです。
凡夫の浄・不浄の分別知の概念を超えたところの「浄」の行、
これこそ諸仏の伝えた「洗浄」の作法なのです。
「洗浄巻」にこんな故事が載ってました。
舎利弗(智慧第一の釈尊の十大弟子のひとり)は、外道(当時仏教以外の教えに従う者)にあら捜しのために付けねらわれて、用を足している所を覗かれたが、彼の平常と変わらぬふるまいに外道は心服したという。
道元禅師はこの故事にたいして、
それは外道の本意でもなく、舎利弗の思わくでもなかったが、舎利弗の動作を通じて、仏祖のふるまいがおこなわれるところに、おのずから邪法が降伏したのである。と述べられております。
玉城氏も解説で述べているように、この正法眼蔵で述べられている洗浄の作法を実生活に持ち込むことは到底不可能であります。
では、われわれ凡夫はこれをどう活かせばよいのでしょうか。
それは、仏行としての洗浄を自覚することに尽きます。
トイレでの大小便もまた極めて大切な修行なのです。
さらに言えば、トイレでの動作ひとつにその人の修証(修行と不可分の覚り)があらわになるのです。
トイレで用を足しながら本を読むことが習慣になってしまってる私は、覚りから遠いと言わざるを得ません・・・
。
洗浄巻を読んで反省しました。
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有り難うございました!
<追 記>
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本当に有り難うございます!
大変励みになりました。
自分らしい記事を心がけてまいります。
これからも応援よろしくお願い致します!
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私の先生も、正法眼蔵の現代語訳には本書を薦めていらっしゃいました。
昨日は第一巻中の「礼拝得髄」巻まで読みました。
2ヶ月に一冊のペースだったら、全六巻を一年で完読できるでしょう。
さて、表題の「全宇宙を浄めるということ」、
今日は「正法眼蔵 洗浄巻」の中の文章を引用しながら、みなさんと一緒に考えたいと思います。
道元禅師はこの洗浄巻において、長爪、長髪の戒めと、大小便の作法を述べています。
例えば・手拭の使い方・衣の脱ぎ方、たたみ方・厠における僧同士の挨拶の仕方・手を洗うための桶の用い方・厠の扉の前の作法・厠の中での用便の仕方・用便を終わった後、竹の箆や紙による洗浄の作法等などについて、際限なく事細かに述べています。
ここまで細かいと大雑把な私(O型)なんかは、正直たじろいでしまいます・・・。ホント半端じゃないです。
ですがそこには、行住坐臥において一分の隙もない仏作仏行の徹底をすすめた、道元禅師の弁道に対する態度があらわれていると言えます。
また、洗浄巻において何よりも大事なのは、悟りの世界から「洗浄」すなわち身を浄めるということの実践に「全宇宙を浄める」はたらきを洞察した道元禅師の宇宙観が述べられているということです。
以下抜粋引用
身心これ不染汚なれども、浄身の法あり。ただ身心をきよむるのみにあらず、国土・樹下をもきよむるなり。国土いまだかつて塵穢あらざれども、きよむるは諸仏之所護念なり。仏果にいたりてなほ退せず、廃せざるなり。その宗旨、はかりつくすべきことかたし。作法これ宗旨なり、得道これ作法なり。
<訳>
身も心も、もともと汚染されてはいないけれども、身を浄め、心を浄める決まりがある。ただ身心を浄めるだけではなく、国土を浄め、樹下を浄めるのである。国土は、いまだかつて汚れたことはないけれども、それにも拘らず、浄めることが諸仏の護念したもう所である。仏の位に達しても、なお怠らず、やめることはないのである。その本意はとうてい測り尽くすことはできない。そうした浄めるという作法が本旨なのであり、いいかえれば得道がすなわち作法なのである。
(現代語訳 正法眼蔵 玉城康四郎 大蔵出版より)
私の言葉で再度意訳的に解釈すれば、
身心は、空・縁起の立場から全宇宙的に見れば、汚れてはいない。
だけれども、それでもなおかつ身心を浄める決まりがある。
この身心を浄めるということは、国土を浄め、菩提樹下を浄めることである。
国土もまたいまだかつて汚れたことはないけれども、それにもかかわらず、国土を浄めることが諸仏の護念してこられた所である。
仏の位に達しても浄めることを怠ってやめることはないのである。
その本意を測り尽くすことはできない。
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気を取り直して再吟味!
全宇宙的な覚りの世界から見れば、この宇宙、この世界は「不垢不浄」です。
いまだかつて身心も国土も汚れてはいないし、また、浄らかでもないわけです。
だが、それでも、諸仏から伝わった洗浄の作法があります。
この作法を行ずることが、国土を浄めることであるのです。
諸仏から伝わった洗浄の作法を行ずることは、わが身を浄めることにとどまらない。
それはすなわち国土、全宇宙を浄めることである!
もとより、ここで述べられている「浄める」とは、分別知の言う「浄・不浄」を超えたものです。
凡夫の浄・不浄の分別知の概念を超えたところの「浄」の行、
これこそ諸仏の伝えた「洗浄」の作法なのです。
「洗浄巻」にこんな故事が載ってました。
舎利弗(智慧第一の釈尊の十大弟子のひとり)は、外道(当時仏教以外の教えに従う者)にあら捜しのために付けねらわれて、用を足している所を覗かれたが、彼の平常と変わらぬふるまいに外道は心服したという。
道元禅師はこの故事にたいして、
それは外道の本意でもなく、舎利弗の思わくでもなかったが、舎利弗の動作を通じて、仏祖のふるまいがおこなわれるところに、おのずから邪法が降伏したのである。と述べられております。
玉城氏も解説で述べているように、この正法眼蔵で述べられている洗浄の作法を実生活に持ち込むことは到底不可能であります。
では、われわれ凡夫はこれをどう活かせばよいのでしょうか。
それは、仏行としての洗浄を自覚することに尽きます。
トイレでの大小便もまた極めて大切な修行なのです。
さらに言えば、トイレでの動作ひとつにその人の修証(修行と不可分の覚り)があらわになるのです。
トイレで用を足しながら本を読むことが習慣になってしまってる私は、覚りから遠いと言わざるを得ません・・・
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洗浄巻を読んで反省しました。
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