先週の日曜日はお寺の涅槃会(ねはんえ)法要がありました。
涅槃会とは、お亡くなりになられたお釈迦様(涅槃)を偲ぶ法要です。
正式には2月15日ですが、当寺では前倒しの日曜日に行っています。
はじめに檀家さんと一緒に、お釈迦様のご臨終の最後の説法をまとめた、遺教経というお経を読み回向を挙げます。
その後で、私の法話30分。
今回は「無常」をテーマに、釈尊の遺教や道元禅師の言葉を引用しながら、自分の死を見つめて生きることの大切さを説きました。
以下簡単に要約します。(覚え書きも兼ねて)
「無常」とはすなわち、この世界に永遠に変わらないものは何一つなく、万物は変化してやまないという宇宙の真理です。
この真理自体は、理性で誰にでも納得できるのではないでしょうか。
たとえば、無常を人間に当てはめれば、われわれ人間は、どれだけ死にたくないと願っても、あるいはどれだけよい医師に掛かったり、効き目のある薬を飲んでも、一日一日、一瞬一瞬、確実に死に向かっているという厳然とした事実があるわけです。
しかし私たちは普通、できれば「死」を遠ざけたい、自分が死ぬ存在であるということを無意識のうちに考えまいとしています。
当たり前ですね・・・。
好んで死にたい人は誰もいないわけですから(自殺願望のある人を除いては…もっともこの人たちも好きで死にたいわけではないわけですが)自分にとって嫌なことを好き好んで考える人はいないわけです。
では、そのように自分の死をずっと無視していたら人生はどうなるでしょうか。
自分の死が自覚されなければ、一日一日が特に有難がられることも大事にされることもなく、ただただ過ぎ去っていく時間ばかりが積み重ねられていくでしょう。
そのような人生は空虚なままあっという間に過ぎ去っていき、いつの間にか死を迎えてしまうのではないでしょうか。
また、そうした人生には、自分の願望をかなえたり、自分が楽をしたり世間の評価を得たりといった私利私欲を満たすための向上心はあっても、そこには修行をして仏に近づいていくという真の精進はありません。
みなさんは、つねに死を見つめて生きるというと、ジメジメとした暗い生き方を連想されるかもしれませんね。
しかし、事実はむしろその逆です。
自分の死をしっかりと見つめることによって、いま・ここに生かされている私の命、そして私の人生が、掛け替えのない尊く有難いものであることに気付かされるのです。
いま、このときの一瞬が掛け替えのないものとして、生き生きと輝きだすのです!
ご飯を食べたり、お茶を飲んだり、仕事をしたり、会話をしたり、眠ったり・・・ふだん何気なかった日常の一つ一つが生き生きとしてくる。
そうなると、私たちは一瞬一瞬をいかに生きたら本当の意味でよく生きられるのか、ということを考えるようになります。
同時に自然と自分の私利私欲だけを追求して生きることが虚しいものに思えてくる・・・。
私たちの宗祖、道元禅師もこう仰っています。
「学道の人(仏道修行をする人)は、まず須らく無常を観ずべし」と。
つまり、無常を観ずることは、仏教徒にとって何よりも大切な第一歩であり、これを無視して修行を始めることはできないということです。
よく生きるということ、それは私たち仏教徒にとっては一歩ずつ仏に近づいていく生き方にほかありません。
仏教では、この人生はいわば悟りを開いて仏になるための修行期間と捉えます。
ですから私たちは無常を観ずることによって、「私」として生まれたこの一回限りの尊い人生を、仏に近づいていくための修行として使うことに目覚めるのです。
無常を観ずる心を保つこと。
つまり自分が死ぬ存在であることの徹底した自覚こそが、仏教徒の精進修行の第一歩であるということ。
そして、無常を観ずることによって、はじめて私たちは本当の意味での「人生」をしっかりと歩みだすことができること。
以上、無常を観じて生きるということの大切さを、今日の涅槃会を通して感じていただければ幸いです。
と、だいたいこんな感じの法話になりました。実際はもっと口語体ですが。
これに枝葉をつけて30~40分、ちょっと熱が入って長めになってしまいました・・・。
反省点は、無常をもっと砕いて自分自身のことにも絡めて、分かりやすく話した方がよかったかなということ。いささか哲学的になりすぎた・・・。
熱いのよかったが、もっと明るくかつエレガントな比喩(花木とか)を用いて話せばよかったかな。
毎回反省はつきものです。
法話、もちろん自分のことは棚に上げています・・・ハハ・・・
かつては、仏教で説いていることと、自分の生き方との乖離に苦しんだこともありました・・・
当然、法話なんて満足にできませんでした・・・。
法話をすることに罪悪感すらありました・・・。
しかしある時、それでは僧侶の勤めを果たしていることにはならない、自分の至らなさ、ダメさ加減、そうしたものも全部ひっくるめて、仏教の伝達者として、いわばメッセンジャーとして、仏教を伝えていこうと決意したんです。
今でもたまに心が萎えるときもありますが、それも含めての自分として認めていこう。
そしてできるだけ、ベターを目指して努力して行こうと。。。
さて、今回のテーマ「無常」ということ。
「死」に立ち会う機会の多い立場上、一般の人よりは無常を感じ易い環境にあります・・・。
実際、無常が、腹にまでいかなくても胸の辺り?・・・いやまだ喉の当たりくらいかな・・・とりあえず無常が落ちてる・・・これを胸そして腹にまで落とす。最後には全身心に無常の自覚を巡らせる。
そのとき一瞬一瞬が・・・
私の行住坐臥、一挙手一投足が、光明の中に輝き出すでしょう。
涅槃会とは、お亡くなりになられたお釈迦様(涅槃)を偲ぶ法要です。
正式には2月15日ですが、当寺では前倒しの日曜日に行っています。
はじめに檀家さんと一緒に、お釈迦様のご臨終の最後の説法をまとめた、遺教経というお経を読み回向を挙げます。
その後で、私の法話30分。
今回は「無常」をテーマに、釈尊の遺教や道元禅師の言葉を引用しながら、自分の死を見つめて生きることの大切さを説きました。
以下簡単に要約します。(覚え書きも兼ねて)
「無常」とはすなわち、この世界に永遠に変わらないものは何一つなく、万物は変化してやまないという宇宙の真理です。
この真理自体は、理性で誰にでも納得できるのではないでしょうか。
たとえば、無常を人間に当てはめれば、われわれ人間は、どれだけ死にたくないと願っても、あるいはどれだけよい医師に掛かったり、効き目のある薬を飲んでも、一日一日、一瞬一瞬、確実に死に向かっているという厳然とした事実があるわけです。
しかし私たちは普通、できれば「死」を遠ざけたい、自分が死ぬ存在であるということを無意識のうちに考えまいとしています。
当たり前ですね・・・。
好んで死にたい人は誰もいないわけですから(自殺願望のある人を除いては…もっともこの人たちも好きで死にたいわけではないわけですが)自分にとって嫌なことを好き好んで考える人はいないわけです。
では、そのように自分の死をずっと無視していたら人生はどうなるでしょうか。
自分の死が自覚されなければ、一日一日が特に有難がられることも大事にされることもなく、ただただ過ぎ去っていく時間ばかりが積み重ねられていくでしょう。
そのような人生は空虚なままあっという間に過ぎ去っていき、いつの間にか死を迎えてしまうのではないでしょうか。
また、そうした人生には、自分の願望をかなえたり、自分が楽をしたり世間の評価を得たりといった私利私欲を満たすための向上心はあっても、そこには修行をして仏に近づいていくという真の精進はありません。
みなさんは、つねに死を見つめて生きるというと、ジメジメとした暗い生き方を連想されるかもしれませんね。
しかし、事実はむしろその逆です。
自分の死をしっかりと見つめることによって、いま・ここに生かされている私の命、そして私の人生が、掛け替えのない尊く有難いものであることに気付かされるのです。
いま、このときの一瞬が掛け替えのないものとして、生き生きと輝きだすのです!
ご飯を食べたり、お茶を飲んだり、仕事をしたり、会話をしたり、眠ったり・・・ふだん何気なかった日常の一つ一つが生き生きとしてくる。
そうなると、私たちは一瞬一瞬をいかに生きたら本当の意味でよく生きられるのか、ということを考えるようになります。
同時に自然と自分の私利私欲だけを追求して生きることが虚しいものに思えてくる・・・。
私たちの宗祖、道元禅師もこう仰っています。
「学道の人(仏道修行をする人)は、まず須らく無常を観ずべし」と。
つまり、無常を観ずることは、仏教徒にとって何よりも大切な第一歩であり、これを無視して修行を始めることはできないということです。
よく生きるということ、それは私たち仏教徒にとっては一歩ずつ仏に近づいていく生き方にほかありません。
仏教では、この人生はいわば悟りを開いて仏になるための修行期間と捉えます。
ですから私たちは無常を観ずることによって、「私」として生まれたこの一回限りの尊い人生を、仏に近づいていくための修行として使うことに目覚めるのです。
無常を観ずる心を保つこと。
つまり自分が死ぬ存在であることの徹底した自覚こそが、仏教徒の精進修行の第一歩であるということ。
そして、無常を観ずることによって、はじめて私たちは本当の意味での「人生」をしっかりと歩みだすことができること。
以上、無常を観じて生きるということの大切さを、今日の涅槃会を通して感じていただければ幸いです。
と、だいたいこんな感じの法話になりました。実際はもっと口語体ですが。
これに枝葉をつけて30~40分、ちょっと熱が入って長めになってしまいました・・・。
反省点は、無常をもっと砕いて自分自身のことにも絡めて、分かりやすく話した方がよかったかなということ。いささか哲学的になりすぎた・・・。
熱いのよかったが、もっと明るくかつエレガントな比喩(花木とか)を用いて話せばよかったかな。
毎回反省はつきものです。
法話、もちろん自分のことは棚に上げています・・・ハハ・・・
かつては、仏教で説いていることと、自分の生き方との乖離に苦しんだこともありました・・・
当然、法話なんて満足にできませんでした・・・。
法話をすることに罪悪感すらありました・・・。
しかしある時、それでは僧侶の勤めを果たしていることにはならない、自分の至らなさ、ダメさ加減、そうしたものも全部ひっくるめて、仏教の伝達者として、いわばメッセンジャーとして、仏教を伝えていこうと決意したんです。
今でもたまに心が萎えるときもありますが、それも含めての自分として認めていこう。
そしてできるだけ、ベターを目指して努力して行こうと。。。
さて、今回のテーマ「無常」ということ。
「死」に立ち会う機会の多い立場上、一般の人よりは無常を感じ易い環境にあります・・・。
実際、無常が、腹にまでいかなくても胸の辺り?・・・いやまだ喉の当たりくらいかな・・・とりあえず無常が落ちてる・・・これを胸そして腹にまで落とす。最後には全身心に無常の自覚を巡らせる。
そのとき一瞬一瞬が・・・
私の行住坐臥、一挙手一投足が、光明の中に輝き出すでしょう。
33歳、県内で内科医ですが、心療内科の勉強もしています。
突然のコメントで驚かれていることと思いますが、
岡野先生の公開授業にコメントされていたのを拝見し、
そこからブログにたどり着きました。
>かつては、仏教で説いていることと、自分の生き方との乖離に苦しんだこともありました・・・
当然、法話なんて満足にできませんでした・・・。
法話をすることに罪悪感すらありました・・・。
僕は心療内科という仕事で患者さんと向き合うことを通じて、
実はようやく本当の自分探しという入口にたつようになって
います。ケン・ウィルバーをはじめとするトランスパーソナル
などに出会っているなかで、岡野さんの公開授業にも出会え
て、今回りょうさんのブログに行き着いたというのは先述した
通りです。
りょうさんはよく勉強されていると感じただけではなく、
引用させていただいたように、実践のなかに生かそうと
されている姿に共感を覚えましてコメントさせていただいて
おります。じつは、禅というものにも自分探しという面から
にわかに興味がわいていたもので、そういうところからも
勝手に御縁を感じてコメントさせていただきました。
これからゆっくりブログを読ませていただきたいと思って
おります。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
つぐみ
一時期の台湾アイドルにい現をぬかしていたへたれブログはとっくに卒業したのね。
先日、山口のD道さんの寺に涅槃の摂心に行ってきたよ、唯一無常だけが、私に修行させるのだろうと、この時期になると何時もおもいます。
しかし、あいつは、ほんとよく坐るよ、また、中国地方にも遊びにこいよ、また、暇な時に電話するね。
ようこそ、このブログにいらしてくださいました♪
もう、ここのところずーっと更新の方は滞っていますが、たまに思いついたように更新します。
どうぞよろしくお願いします。
つぐみさんはお医者さまでいらっしゃるんですね。
心療内科の方も勉強されているとか・・・。
トラパーの流れで、岡野先生をお知りになられたとのこと。
そして、岡野先生から私のブログに飛んでこられたとのこと。
何かご縁を感じますね♪
禅は、「一」とも言えるし、「ゼロ」とも言えるし、究極はやはり言語を絶した世界です。
と言っても、これは宗教的な境地の話。
医学的にも間違いなく効果があると思います。
ぜひ実際に体験されることをお勧めします。
はじめはなかなか慣れないかもしれませんが、慣れると実に心地いいものです。
宗教離れが進んでいる現代、どのような布教が可能か・・・ということを考えざるを得ません。
駄文ですが、過去記事など読んでくだされば嬉しく思います!
久しぶり!
うんまあ、頑張ってるようなサボっているような・・・
そんな日々だよ^^
最低限、やるときゃやんなきゃって感じです。
台湾アイドル関係はmixiの方に避難したよ♪
住み分け化を試みています
でもね、mixiの方がみんな親しみをもって接してくれるよ
Dさんのとこ行ったんだ~
kちゃんも精進してるみたいだね!
俺も毎朝坐っているよ。
はじめて2年くらいたつかな。
これはもう完全に自分のものになりました。
まあ、威張るほど坐ってないけどね・・・
今後の課題は、夜坐です。
中国地方、チャンスがあればぜひ坐りに行きたいと思う。
少林窟にもいつか坐りに行きたいし・・・
では、また連絡するね~
気がむいたら電話でもちょうだいな~
昭和35年生まれの著者は、九州の禅寺との縁が深い方。
まるで 禅問答 の本を手に取っているかのような錯覚でした。
それと、既にご存知でしょうけど
故・河合隼雄 『働き盛りの心理学』 新潮文庫 400円
「心療内科」の医者になるということは、選ばれた人、だと思います。そして、同じように。選ばれてしまったこのお二人の本。
参考になること、疑いなし!
コメントありがとうございます。
精神科医というビョーキ、タイトルがひかれますね。
医療者側が完全に患者と線引きしてしまっていること
から(人間という同じ病理を抱えたものであるという視点
の欠如)を指しているのかなぁと推測しましたが、
今度読んでみたいと思います。何よりも禅に縁が深い
ということでしたので、興味がわくところです。
河合先生の本、いいですよね。僕も大好きです。
働き盛りの心理学も考えさせられる部分が随所に
ちりばめられていて、実際の臨床、僕の生活にも
影響を与えてくれていると感じてます。
禅の世界への入り口になればなぁと思ってます。
ありがとうございました。