一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

RIVER

2011年10月06日 | 禅・仏教
RIVER

暑さ寒さも彼岸までとは申しますが、お彼岸も終わり急に涼しくなって参りました。
さて、日本人にとってなじみの深い「彼岸」という言葉は、もともと、煩悩のない安らかな悟りの境地のことを言います。
直訳すれば、「向こう岸」という意味です。一方、煩悩や迷いに満ちたこちら側の世界を此岸(しがん)と呼び、
仏教では此岸(煩悩の世界)から彼岸(悟りの世界)へ至ることを目指しております。
そして、そうした彼岸の概念が、西方極楽浄土を信仰する浄土思想と結びつき、彼岸会(お彼岸)という、
法要を営んだり墓参りをする日本独自の先祖供養の慣習が生まれたとされています。
ですが、今回は先祖供養としての「お彼岸」ではなく、原義としての「彼岸」について考えてみましょう。
さて、原義に戻れば、彼岸とは「悟りの境地、悟りの世界」を指しているわけですが、
大乗仏教では、私たちはこの世で悟りを開いて仏になるために生まれてきたと言っています。
つまり人として生まれた以上は誰しも彼岸を目指すことが、人として生まれた使命であるというわけです。

煩悩に満ちたこちら側の岸から、煩悩のない向こう岸を目指すということ。
では、岸と岸の間にあるのは何か?

それは「川」です。
 
私たちの目の前には川が流れています。人は誰しも川を乗り越えて、向こう岸に渡ろうとしているのです。
では、私たちにとって川とは何か?
 
それは「人生」という名の修行です。
 
では川はどこにあるのか?
 
それは私たち一人ひとりの「心の中」にあります。
 
ときには川に押し流されてしまったり、溺れてしまうこともあるでしょう。
しかし諦めないで、何度でも立ち直って川を渡ろうとすることが「生きる」ということなのではないでしょうか。
川を渡るのを諦めることは、人生を放棄することにほかありません。
人は誰しも人生という川を渡ろうとします。
しかし我欲に執着して川を渡っても、向こう岸に着いたと思った矢先、岸ははかなくも崩れ去ってしまいます。
なぜでしょう?それは、煩悩や欲望に覆われた岸は心を安らかにすることはできないからです。
我欲を超えた悟りの境地、仏の境地こそが、揺ぎ無い真実本当の岸、すなわち「彼岸」にほかなりません。
とはいえ、悟りと言っても私たちには絵空事のように遠い世界のことに聞こえます。
では、私たちはどう生きればいいのでしょうか。
それは、私たちが「いま・ここ・自己」を、真っ直ぐに生きるということの中にあります。
私たちには過去も未来も掴むことはできません。

私たちは唯一与えられた、今ここの自己を一瞬一瞬しっかりと生き切るしかない。

だからこそ、ただひたすらに己のなすべきことを務め、今ここの自己の体験を真心込めて味わい尽くすということです。
そこに我欲を離れ、自己を忘れる秘策があるように思われてなりません。

さて、実は禅の考え方では、こちらとあちら、体と心、生と死、迷いと悟りといったように物事を対立させて考えることを批判します。
此岸と彼岸もまた然り。なぜなら、結局のところ対立概念とは人間の妄想が生み出した迷いに過ぎないからです。
ですから、此岸の向こうに彼岸があるというのではなく、
ひたすらに仏法にしたがって生きている「今ここの自己」に悟りの世界が顕現しているというのが、禅の立場と言ってもいいでしょう。
「此岸を徹底して窮めている今ここが、実は彼岸であった」とでも言い表しましょうか・・・。

ところで、実は今回の文章の着想は、今をときめくAKB48の「RIVER」という曲から得たものです。
元気が湧いてくる曲ですので、皆様もよかったらお聴きになってみてください。歌詞を一部紹介します。

  RIVER
  作詞 秋元康

  君の目の前に川が流れる
  広く大きな川だ 
  暗く深くても 流れ早くても
  怯えなくていい 離れていても
  そうだ 向こう岸はある
  もっと 自分を信じろよ

  君の心にも川が流れる
  つらい試練の川だ
  上手くいかなくても 時に溺れても
  繰り返せばいい 諦めるなよ
  そこに 岸はあるんだ
  いつか辿り着けるだろう

  君の心にも川が流れる
  汗と涙の川だ!
  失敗してしまっても 流されてしまっても
  やり直せばいい 弱音吐くなよ
  夢にしがみつくんだ
  願い 叶う日が来るまで      以上

 
私たちは生きている限り人生という川を渡っていかなければなりません。
何度溺れても、何度失敗してもやり直せます。
いつか向こう岸にたどり着ける日が来るまで・・・いや、ひたむきに生きていたら、
いつの間にか向こう岸に着いているのかもしれません。

日々精進していきましょう、この命ある限り。
以上、自戒の念を込めて。 最後までお読みくださいまして有難うございました。


平成二十三年十月五日                       龍寳寺住職合掌

(追記)ちなみに私のAKB推しメンは「きたりえ」です(照)


※拙文は当山門掲示板に掲載したものです。

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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
それでも川はいいじゃない (徳蘭)
2011-10-07 01:47:26
河は元へは戻れなくて
先へ先へ往くしかない
風が落とした忘れ物を
思い出しても夢の彼方

それでも河はいいじゃないの
いつだって誰か見つめている
それでも河はいいじゃないの
明日には青い海に会える

橋の上から見てる私
河は静かに流れてゆく

『過ぎてきた河』大橋純子


記事を読んでいて、
昔よく聴いていた歌を思い出しました。
20代だった(笑)

今は何をするにも時間がかかり、
世の流れに乗れなくて、
今までできたことも捗らなくて、
とどめはバランス崩して転んだりとか

それでも青い海に出合えるかなぁ
お彼岸、秋は沁み入りますね。
返信する
いい歌だね (りょう)
2011-10-08 07:25:10
哀愁のあるシャンソンみたいな歌詞だね♪

昨日は坐禅会のメンバーの一人のおじいさんがこの文章を読んで感動して泣いてくれたんだ・・・。
思いがけないことでビックリしたけど、すごく嬉しかった。
きっとご自分のこれまでの人生の苦労と重ね合わせたんだと思う。
仮にこの文章を500人読んだとして、たった一人の心にでも触れられれば、それだけで書いた甲斐がある。

>それでも青い海に出合えるかなぁ

大丈夫。
いずれ人間は死んだら海に帰ることになっているから(比ゆ的な意味でね)。
それまでは苦しくても川を渡っていこう。
焦らなくていいから、一歩、一歩。
返信する
一はすべての始まり (徳蘭)
2011-10-08 22:22:15
思うのですよ。
人が人を救えるかと尋ねられたら、
恐らく「否」であろうと。
神仏の教えを伝える助けにはなっても、
救いそのものにはならない。

でも、心を動かされた人が一人でもいたら、
その使命の一端を担えたのだと確信します。
よかったね、おじいさんの心に寄り添えたんだ。

うん。
何か一つでもできたらいいと思う。
立ち止まってもいいよね(冷えちゃうかな)
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感応道交 (りょう)
2011-10-09 10:39:11
どちらか一方の働きかけではダメだと思うんだ。
受け取る側がどうそのメッセージを受け止めて、自分のこととして吸収できるか。
ブッダの言葉もイエスの言葉も、受け取る側の機縁が熟していなければ、その言葉で救われることはないんだと思う。
「服と不服とは医の咎にあらず。」薬を飲むか飲まないかは、お医者さんの責任ではないという意味です。

立ち止まったっていいじゃない。
ただ、またいつでも動き出せるように足踏みすることをオススメします。
返信する
然り (徳蘭)
2011-10-09 13:25:07
多謝
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Unknown (りょう)
2011-10-09 14:46:39
不客氣(マイスェーリー)←これは台湾語の発音。
俺は中国語の方で(ブークァチィ)って言うけど^^
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